潘基文は保守と進歩をまとめられる魔法でももっているのか

 

柳根一
(2017.1.23)

 

 潘基文氏は覇権主義と既得権を排斥した。御尤もだが、誰だって覇権や既得権は擁護しないはずだ。だが、潘氏の話はそれよりは既存のセヌリ党、親朴、そして親文を排斥するという意味に聞こえる。


 潘基文氏が左翼勢力から“愛し尊敬する”と言われるはずはない。潘基文氏も“私は左翼勢力の候補にもなり得る”とは言えない。したがって、彼が文在寅側の対蹠点に立つのは自然で避けられない。


 そういう彼が親朴とセヌリ党を排斥することも、その不可避な立場も察知できる。不利になろうとを定めない限り、彼が“私は朴槿恵を継承する”と言うわけにはいかない。


 だが、潘氏はこれを知らねばならない。朴槿恵大統領を選んだ有権者たちはたとえこれ以上朴槿恵のそばには残らなくても、中道や中道左派へは移らず、依然として‘保守’に残っているという事実だ。潘氏がこれを錯覚して‘私は中道進歩だ’と行けば、保守有権者たちも同様に‘われわれも中道進歩に行く’と呼応してくれるだろうと期待しても良いのかは疑問だ。


 だから、潘氏は朴槿恵大統領と親朴党を排斥することはできても、朴槿恵に投票した‘保守’有権者を放棄はできないと考えて発言してこそ、票を請うべき政治家としてまともに計算することになる。


 にも拘らず、潘氏やその側近たちは今、李明博式の‘中道実用主義’のようなことを言っている。李明博式の‘中道実用主義’は一言で言えば、左派理念勢力に‘朝の露’を歌いながら両手を上げる投降主義に加えて哲学-歴史観-世界観のない‘経済主義(economism)’と言える。そのため、李明博とその一味はは左派変革勢力に対する闘争を放棄し、左派に屈服しこびへつらって怖気ついて、青瓦台だけを交替したのみ、社会権力と文化権力はあえて交替するやる気すら持たず、持てなかった。

 潘基文氏がもし李明博式–朴亨埈式-鄭義和式の‘中道’や‘中道進歩’を自分の新しい根拠地とするならそれは彼の選択だ。だが、その場合、朴槿恵候補に投票した善意の保守有権者たちが、中道進歩の彼に無条件、どうしようもなく、仕方なく投票するだろうと自信しないのが慎重な判断だろう。


 “保守の有権者たちに別の道があるのか、彼らは私たちの外には行き場がない。だから、私たちは保守の方は気を使う必要もなく、むしろ中道と穏健進歩へ進むべきだ”というのが親李系-ハンナラ党-セヌリ党のウェルビーイング族らの常套的でまったくマナーのない口癖だった。ところが、今や保守の有権者たちは二度と‘中道でもない中道売り’の俗流-無知-低級の政商の輩ら脅迫(お前らが行き場があるのか)に負けないという覚醒をしているというのが筆者の観察だ。


 メディアらは潘氏に関する報道をしながら、彼が‘保守と進歩をまとめる’戦略を駆使していると伝える。事実ならやって見ろと言いたい。どんな芸があってそれができるのか。どんな神秘的な魔法があってTHAAD配備反対・脱米親中・開城工団の閉鎖反対と、THAAD配備賛成・韓米同盟強化・開城工団の閉鎖支持・太陽政策や無条件支援反対を一つにまとめるのか、本当に見物したい。経済では‘中間(centrist)’が可能かも知れないが、安保ではそういうのがあり得ないはずなのに、だ。

 

 正しい政党の劉承旼議員も“潘基文氏が保守なのか進歩なのか分からない”と言った。あなたのアイデンティティは何かと問う野党議員もいる。潘基文氏はこのような疑問に誠実に答えねばならない。ごまかしてはならない。‘中道進歩’‘進歩的保守’‘保守-進歩’‘保守-進歩を網羅する’云々は典型的なごまかしだ。二股をかけず、二匹のウサギ追わず、自分の本質を正直に告白しなければならない。


柳根一の耽美主義クラブ

http://cafe.daum.net/aestheticismclub 2016.01.14 12:29

更新日:2022年6月24日