文在寅氏は‘革命より護憲’を強調しろ!

 

柳根一

(2016.12.21)

 

 “国民の憲法意識が...憲法裁判所が弾劾を棄却すれば次は革命しかない”、文在寅氏が言った言葉だ。憲裁が弾劾を引用すべきでそうしないと‘覆す(革命)’しかないという姿勢だ。これが果たして民主法治国家の大統領職を目指す人が言うべき言葉だろうか。


 司法府の審理と判決に少しでも影響を与える言動はなるべく避けるのが一般的な当為だ。しかし、今はその当為より多衆の情緒と意志がもっと優勢な局面だ。示威隊のスローガンであれ文在寅氏の発言であれまた誰の主張であれ‘表現の自由’の側面だけは尊重されるべきだが、それをもって“裁判に影響を及ぼそうとしてはならない”という当為も眞である。そのため、この二つが衝突するときは、衝突をどう処理すべきかは法学徒の間でも議論の種になり得る。


 しかし、いくら‘表現の自由’と言っても大統領になろうとする人が司法に向かって、“Aと判決せずBと判決したら革命が起きる”と言い放つのには首肯できない。革命は不法行為だ。だが‘悪辣な独裁権力’に対しては、革命は不法行為である前に国民抵抗権として不可避性で正当化されることもある。‘悪辣な独裁権力’とは例えば、金正恩称賛の北韓のようなことだ。そういう所では革命以外の方法をもって現状変更が不可能だ。


 今の大韓民国の朴槿恵政府とその公権力は‘悪辣な独裁権力’でない。独裁権力どころか、戦闘警察のバスが過激示威隊のロープによって転覆されるのが常の国で政府で公権力だ。国会の聴聞会が剣幕を誇示し、司法府が検察の令状請求を無視する国が大韓民国だ。こういう情況では革命は正当化されず正当化されてはならない。すべての現象変更は、憲法と法令が定めた手順でのみ遂行されねばならない。


 この自明の原則にもかかわらず、大統領になろうと人が“憲法裁判所はこの判決でなく違う判決を下せば革命しかない”と言うのは、司法の独立、権威、権能、超政治性の原則と合わない不適切な言辞と言わざるを得ない。


 文在寅氏はもちろん“そうなる恐れがある”という警告だったというかも知れない。しかし、大統領になろうと人が、すべてを非憲法的な方法で転覆するという意味の‘革命’という言葉を公然と発言するのはまったく望ましくない。これは憲法を誰よりも守護しなければなら大統領職志望者としては自分の顔に唾を吐く自瀆しかない。“私は憲法を遵守し...”という就任に宣誓を読む人になれるよう護憲を語るべきで‘革命’を云々して許されるだろうか。


 筆者は、法律専門家でかつもしかすれば大韓民国の次の大統領になるかも知れない文在寅氏の善意を信じたい。文在寅氏が“あの言葉は、実はこの衷情からの話だった”と、納得できる事後説明をすることを期待する。

 

柳根一の耽美主義クラブ

http://cafe.daum.net/aestheticicmclub 2016.12.18 23:42

更新日:2022年6月24日