文在寅と盧武鉉残党と486主思派はもう立ち去れ! 

柳根一

(2016. 1. 7)

文在寅退のタイミングを逃した。みすぼらしくて憔悴極まりない。もはや、彼は退を表明しても、気抜けしたビルの味でもするか疑問だ。一体どうしてこの況にまでなったのか。

一言で昏迷したためだ。そして欲深のせいだ。この2つの486(左翼)運動、中でも親盧(⋆盧武鉉残党)の‛民族解放派(NL)’系列の性でかつ痼疾だ。人は取るに足りず善と独断ると無知蒙昧になり分別力を失う。こうなれば、自分が作った我執と頑固の監獄に閉じめられて自閉症患者になる。自閉症患者の特の一つは、何かを必死に掴もうとする習性だ。

‛親盧派’(⋆盧武鉉残党)はこの重度の昏迷と掴もうとする欲のためにあのように醜く卑しく、それに、非常に執拗な抵抗と鉄面皮で貫こうとしているのだ。彼らの心の中はいま名意識も、体面も、民心への思慮も、恥もない。あるものとは、“これが如何にして掴んだなのか、我々にこれ放棄しろと?では、我は何を食べて生きろというのか?”ということだけだ。

 

彼らの権とは、もはや政でもなく、政交代の可能性でもなく、ただ第11野党の支配権と公認だけだ。“小さがもっとい勢力になる”した文在寅の言葉がそれ告白している。この権まで手放せば、彼らは文字通り孤立無援になると憂慮する。それもそのはず、彼らには優れた知識も、経歴も、資格もなく、ただ‛左翼活動のごろつき'の連中だったのではないか。せめて公認権でも持っていてこそ、せっかく味わった権力を維持し自分の連中たちの就職の面倒でのできるはずだ。

ところが、問題はこのような利害打算だけでない。彼らの頭の中にはまた別の執念がある。イデオロギ的な執念がそれだ。人が一度疑似宗のような理念に中毒されれば、理性を失う。他人が何と言っても、自分は“私は絶対真理、絶対正義、道的に絶優位を占めている”という、とんでもない妄想にられるのだ。

盧武鉉残党など486主思派の執念が、その代表的な事例だ。彼らは妄想と偏執症のため、自分たちは自らの‛神聖な革理念の追求のためには何でもでき、全部やらねばならない使命があり、全部やる利があり、何をやってもいいという式の特意識にるようになった。これが“彼らは、一体どういう権能に基づいてあのように鉄面皮であり得るのか”に対する解答だ

このような側面を理解してこそ、いわゆる極端-激烈運動という部類がむき出す、とても理解し難い鉄面皮のわけが分かる。曹寺の女性信徒たちが追い出そうとしたら、韓サンギュンが着ていたものを全部脱いでパンツ一枚で対抗したのを見よ。それを彼らは‛羞恥ではなく‛闘争と呼ぶ。

では、このような部類が演出する、いわゆる‛闘争に同意しない人々が取る対処方法は何か。たった一つしかないというのが筆者の個人的でかつ経験からの結論だ。正面から対面してノ(no)と言うこと、これだ。もちろん、他の人は別の答えが出せるかも知れない。例えば‛和諍委員は彼らなりの答えを出し得る。しかし、筆者はそらと考えが違う。

談論に談論で、理論には理論で、哲学にはで、観には歴で、世界観には世界で、政策には政策で、体制には体制で、頭には頭に、醜さは美に、全体主義には個人の尊で、無知蒙昧には啓蒙で、無教養には養で、反知性には知性でノ(no)と正面から言ってあげねばならない。そして、また、力には力で立ち向かえれば、もっと良い。

文在寅と盧武鉉残党と486(主思派)よ、もう君たちの執念は緩んだゴム紐のように、もはや有でない。去れ。史の彼方へ。

 

柳根一の耽美主義クラブ http://cafe.daum.net/aestheticismclub 2015.12.26 23:22

更新日:2022年6月24日