平壌の金載圭は誰か
独裁体制で第2人者の運命はクーデターで第1人者を追い出し政権を取るか(首陽大君)、逆謀で除去される(張成沢)のが普通だ。
趙甲済
(2016. 1. 7)
残酷な処刑を繰り返す金正恩の周辺に“私があの者を殺さないと私が死ぬ”、“どうせ死ぬ命なら良いことをやってみよう”と思う人々が現れないとは限らない。平壌に第2の金載圭がいるのか。もしかしたら黄炳瑞がそういう人物だろうか。金正恩がこの記事を読んだらどういう気分だろうか。
数日前、北韓専門家と安保専門家たちが集まって雜談をしながら金正恩の運命を展望した。話を続くうちに意見が1つに接近した。
<金正恩の権力掌握は確固たるものと見られる。でも、それは外観で権力内部は複雑だろう。執権以降側近をたくさん殺したため皆が戦々恐々しているはずだ。彼らの中には愛国者もいるはずだ。特に第2人者が最も不安だ。このような不安定要素に加えて経済の悪化、騒擾などの外部からの衝撃が加わると、北韓版‛10・26事件’も起こり得る。第2人者による金正恩暗殺のような突発要因は残っている。いや、可能性は高くなりつつある。問題は韓国側がどのような影響を及ぼすかだ。金正恩など北韓の権力層人士は、南韓の報道が見られる。南韓の言論報道が張成沢を金正恩の後見人のように強調したのが、金正恩を刺激して張を除去する一つの心理的動機になっただろう。韓国が持っているお金、情報、メディアなどを利用すれば、北韓版10・26事件を惹き起こすこともできる。>
金載圭情報部長が父のように慕った朴正熙大統領を弑害する(⋆10.26事件)と決心する過程では、いくつかの要因が複合的に作用した。
1.大尉出身の車智澈警護室長が朴大統領の威光を背景に中将出身の金部長を牽制して自尊心が強い彼を刺激した。
2.警護室長と情報部長の葛藤を調整すべき金桂元秘書室長がその役割を果たせず、同鄕の金載圭を庇った。事件当日、金載圭が“今日やってしまう”という話を聞いても冗談と思った。
3.長期政権に対する国民の嫌気、金泳三議員除名、‛釜馬事態’による民心離反などが金載圭の時局判断に影響を及ぼした。
4.韓米関係の悪化によって朴大統領が国際的に孤立される局面で、米国側の動向に敏感な金載圭はこれを意識した。
5.釜馬事態の収拾策の一つとして金載圭情報部長を更迭するという情報が流れた。金載圭も自分が擧事できる時間がなくなるという強迫観念に駆られただろう。
6.愚直で温順だが、怒ったらコントロールが効かない性格と、肝が悪くなって激務を遂行できなかった点が突発行動の一つの要因だった。彼は死刑が執行される直前に家族に残した遺言で、“私は肝が悪いため自然死をしても7〜8年しか生きられない。後世の人々に死の時期をよく選択したという評価を受けたい”と言った。
7.何よりも、事件当日の宮井洞安家での夕食雰囲気が良くなかった。車智澈が大統領の面前で情報部長を責め立て朴大統領はこれを止めなかった。
いろんな要因の中で注目すべき点は、健康の惡化と交替説だ。心身が不安定になったのだ。ここにそれなりの正義感や使命感が加わった。大統領殺害のような決定は切迫した心情でないとできない。
金正恩の周辺でも金載圭のように切迫した心情に陥る人が生じ得る。独裁体制では第2人者が最もストレスを受ける。第1人者は、第2人者がうまくやっても駄目でも不安だ。第2人者の運命はクーデターで第1人者を追い出し政権を取るか(首陽大君)、逆謀で除去される(張成沢)のが普通だ。例外は、三國統一の元勳である金庾信だ。彼は数十年間兵權を握って善徳女王、真徳女王、武烈王、文武王の4人の王に尽しながら三国統一を成し遂げた。
金庾信は伽耶王族出身で、眞骨と聖骨だけが王になれる新羅では絶対に政権ができない胎生的限界があった。彼の妹が金春秋(武烈王)の夫人になり、金春秋の娘が金庾信の妻になった。どの王も金庾信が謀反を起こすと疑わなかった。
1979年の‛12・12事件’も全斗煥国軍保安司令官の切迫した心情と関連がある。当時、実権を握っていた鄭昇和戒厳司令官は、‛ハナ会’と正規陸軍士官学校出身将校団のボスである全司令官を閑職に送る人事に関して国防長官・盧載鉉と合意した状況だった。この情報が全斗煥グループに伝わったはずで、‛時間がない'という切迫感が鄭昇和将軍逮捕を決心する一つの契機になったはずだ。いくら‛ハナ会’という私組織を率いていた全斗煥といっても、合同捜査本部長を兼ねた国軍保安司令官でなかったら、‛12・12事件’を起こして政権を取るのは不可能だった。人ほどポストが歴史を作る。
1961年の‛5・16軍事革命’も似ている。朴正熙少将は軍の改革を推進した青年将校たちの背後勢力と見做されて間もなく転役される状況だった。彼も“革命をやれる時間が減る”と考えたはずだ。
1953年3月、ソ連の專制者・スターリンが死ぬや形式上では首相のマレンコフが第1人者だったが、秘密警察の頭であるベリアが実権を握った。ベリアはスターリンの命令で数十万の党員を粛清した人だった。フルシチョフ、ブルガーニン、モロトフなど幹部たちは、ベリアの剣がいつ自分たちを狙うか戦々恐々とした。この時、第1書記のフルシチョフがソ連共産党の政治局員たちを糾合し、軍高位層と組んで会議途中ベリアを逮捕、処刑した。これも“お前を除去しないと私たちが死ぬ”という切迫感が動機だった。
残酷な処刑を繰り返す金正恩の周辺に“私があの者を殺さないと私が死ぬ”、“どうせ死ぬ命なら良いことをやってみよう”と思う人々が現れないとは限らない。
そのような個人的な動機の他に、外部の事件が内部の葛藤を刺激して事故を起こす場合もある。1989年12月、ルーマニアの独裁者・チョウチェスクは民衆蜂起に直面し治安部隊を動員して鎮圧を試みた市民と軍の抵抗にぶつかった。彼は妻と一緒にヘリコプターで逃げる途中、捕まって銃殺された。1989年にハンガリー、東ドイツ、チェコ共和国、ポーランドの共産政権が次々と崩れる歴史的大轉換期には強硬鎮圧策が効かなかったのだ。
平壌に第2の金載圭がいるのか。もしかしたら黄炳瑞がそういう人物だろうか。金正恩がこの記事を読んだらどういう気分だろうか。
www.chogabje.com 2015-12-30 16:09