2016年元旦の民心が示したもの
柳根一
(2016. 1. 7)
2016年1月1日付の朝鮮日報の世論調査結果は、注目すべき民心の二つの動向を表わした。執権3年を越えているにもかかわらず、朴槿恵大統領に対する世論の支持率が48%台という比較的高い数値を示している点(否定的な評価よりも1%高い)、そして安哲秀の新党が文在寅の旧党を引き離して第1野党として浮上していることがそれだ。
歴代大統領たちが執権後半期になるほど支持率が著しく低下する傾向を示したが、朴槿恵大統領にはそのようなレームダック現象が現れていない。これをどう見るべきか。“誰がなんと言おうとも私は朴槿恵を持...”という積極的支持層が確固としていることを物語る。ここに“他の人よりは朴槿恵大統領が比較的ましだ”という消極的支持層が加わっているだろう。“他よりはましだ”というのはもちろん、各自の主観的判断だろうが、文在寅や金武星など与野党の代表的走者たちが朴槿恵大統領よりましだと評価されていないことを反映するものでもある。
安哲秀の新党は湖南地域とソウルで文在寅の旧党を完全に追い越している。これはまさに歴史的(?)な傾向と言っても誇張ではない。なぜ?それほど政治・思想的意味が深長な変化であるからだ。湖南の有権者たちと首都圏の‛進歩-野'の有権者たちがついに‛親盧-486主思派運動圏’に背を向けたとことを意味するからだ。これは重大な民心の変化で、時代精神の変曲点と言えよう。
今日の韓国野党は、金大中の民主党勢力と‛全大協’に代表される386〜486〜586体制変革勢力の合作品だった。後者が前者を宿主にしてその食客そして寄生しては後に図体が大きくなると、元の主人を追い出して自分たちが主人のふりをしたのだ。理念では金大中が掲げた‛中道改革'主義を、386〜486〜586のいわゆる‛民族解放民衆民主主義’が背負い投げした格好だった。ちょうど‛アラビア人とラクダ’の寓話のように、転がってきた石が元の石を抜いてしまった様子だ。
転がって来た石たちは大韓民国の憲法裁判所によって‛犯法’と判示されて解散された統進党とぐるになって‛政策連帯’をするなど、野党を完全に‛体制打破'の左翼政党に変質させようとまでした。“天安艦爆沈が北韓の仕業であることを信じない”と言ったから、これまでの‛親盧-486輩’がどれほど天地の分別もできず暴れたのか、その程度が分かる。だが、物事はやり過ぎてはならないもので、有権者たちはそんな親盧-486の野党に対して各級選挙で毎度鉄槌を加えた。
文在寅と親盧(盧武鉉残党)と486主思派は、このような有権者たちの判断に必死に抵抗したが、湖南地域の有権者たちまで彼らを廃棄処分した情況にいたって彼らはこれ以上期待できる根拠を失った。1980年代の極端的変革運動の終末の始まりだった。院外でも、国家公権力を鉄パイプでぶっ壊そうとした民労総の韓・サンギュンが曹渓寺の信徒たちによって寺の外へ追い出されそうになるやパンツ1枚の格好で必死にもがいた。これも1980年代の極端な変革運動の醜くみすぼらしい終末の始まりだった。一つの時代が変わりつつあるのだ。
では、国のことを思う国民たちは2016年にどういう政治を創出すべきか。上記の朝鮮日報の報道は、これに対する世論の多数の答えといえる。国民の大多数が望むのは、自由主義-保守主義の与党と、穏健合理の中途改革の野党が主導する政界というのがそのメッセージだ。極端な体制変革の左翼が大韓民国の第1野党になることを望まないという意味だ。
だからかといって、与党セヌリ党が喜んでばかりしていても良いという意味では決してない。国民はセヌリ党が如何に無事、安逸、太平、怠惰、無所信、無原則に陥っているのかをあまりにもよく知っている。セヌリ党の世論支持率が朴槿恵大統領の支持率より著しく落ちるのを見るだけでも、その点を十分分かるではないか。このことを参酌すれば、国民はセヌリ党の入れ替え公認を求めているのだ。自称他称の‛眞朴’(⋆親の朴槿恵系)を云々するのではなく、これまで戦いの現場で大韓民国の正統性守護のため実践的に献身してきた40〜50代の役軍を多く院内で送り込んででも、日和見主義やウェルビーイングのセヌリ党を確実に生れ変るようにせねばならないということだ。
歴史は必然ではなく、民心の輿望とその輿望に応える活動家たちの意志と献身の結合だ。2016年にわれわれの皆がまた国民的成就を収めることを願う。
柳根一の耽美主義クラブ http://cafe.daum.net/aestheticismclub 2016.01.01 15:25