「植物国会」をこれ以上放置するな!
柳根一
(2016. 1. 7)
‛国会先進化法’を今のまま放置するか廃棄すべきかを決定する時がきた。この法律は国会で暴力と揉み合いが日常化したとき、“これでは駄目だ”という反省から出現したものだった。その立法過程では今の政府・与党も先頭に立った。この法が生まれるほど一定の時代的要請はあったという話だ。
しかし、結果はどうなったか。暴力団のような議員たちの凶暴な行動が消えたのは悪いことではないと言えよう。だが、与野党が事前に合意できない法案は頭から本会議に上程もできなくなった。国会の機能が麻痺したのだ。このような植物国会はこれも大問題と言わざるを得ない。民主主義的公論を導出する長い慣行の一つである多数決の原則が死んでしまったためだ。
すべてを与野党が合意して進行できるなら、それを誰が悪いと言えようか。だが、それは現実的には不可能だ。わが社会のように‛忠誠を誓う反対党’路線より、‛体制変革’路線が幅を利かせる現実では与野党の合意ができない場合があまりにも多い。
今日のわが社会の葛藤は、方法論的な差異からくるものではなく原理的理念の差からくるものだ。したがって、相手を‛ファッショ独裁’‛維新の復活’‛資本独裁’‛奴隷の生’‛處刑'を云々し、まるで不倶戴天(ともに天を頂かず)の敵として扱う現実では与野党の合意とは当初からできない話だった。
では、こういう時は法案をどのように通過させるべきか。方法は多数決の原則しかない。与野党の合意ができないと言って、北韓人権法案を10年以上も死蔵してきたのが果たして‛国会先進化'なのか。労働市場の柔軟化、青年雇用の創出、サービス産業の発展、テロ防止のための立法が、野党の‛死んでもダメ’のために廃棄されるのが果たして‛国会の先進化’か。
‛体制変革’勢力はそうだと言うはずだ。しかし、その反対側では話にならないことだった。ところが、国会議員の数では北韓人権法案と経済活性化法案とテロ防止法案を通過させようとする方がはるかに多い。国民の多数が彼らを支持したということだ。では、国民の多数が支持した方の意思が貫徹されるのが極めて当然で公正なのだ。これが多数決の原則だ。
それで提案したい。次期総選挙で与党候補は全員が‛国会先進化法’の廃棄と多数決原則の復活を公約として一斉に掲げなければならない。もし、セヌリ党が勝つ場合、国会先進化法の廃棄は国民多数の意思であることが証明されるわけだ。では、セヌリ党はこれに基づいて国会先進化法を廃棄すればよい。このようにしないと国会機能の麻痺を克服する方途がない。
多数決の原則復活によってあり得る‛暴力国会議員'たちの乱暴はそれ自体を厳しく対処する方法を講じすれば良い。ウジをおそれて味噌を作れないだろうか。暴力を恐れて国会が開けないとはそれでも国と言えるか。鄭義和(⋆国会議長)式に国会を運営することでは‛不妊国会’を免れない。これは国会ではなく亡国会だ。
柳根一の耽美主義クラブ http://cafe.daum.net/aestheticismclub 2015.12.20 11:57