韓国戦争がドイツの歴史を変えた!
韓国戦争が勃発するやアデナウアーは西ドイツの再軍備とNATO加入を推進。
趙甲済
1949年9月、西ドイツ首相に就任したコンラート・アデナウアーはメディアとのインタビューで、西側の防衛に貢献したいという考えを表明した。アデナウアーの論理は簡単だった。西ドイツは西側諸国が自分たちを護ってくれるのを望む。西ドイツ人が自国の防衛に寄与せず、欧米諸国、特に米国が西ドイツために自国兵士を犠牲にするよう要請するのは話にならないということだった。西ドイツ自らが防衛力を提供してこそ西ドイツが安全になる。ソ連の脅威にさらされている西欧の状況では西ドイツの再軍備は避けられないということだった。
もちろん、国内外から批判が多かった。20世紀に二度の世界大戦を起こして数千万人を死に追いやった戦犯国がまた軍事力を建設することは、多くのヨーロッパ人に惡夢だった。もちろん、アデナウアーは西ドイツ軍の復活ではなく、欧州共同防衛機構に所属された武力の建設を念頭に置いていた。
1950年5月9日、フランスの企画庁長官ジャン・モネは、外相のロベール・シューマンを通じて歴史的提案をした。‛シューマンプラン’として有名になったこの提案は、フランスとドイツの石炭と鉄鋼の生産を、両国を含む欧州の多くの国々の共同管理機構の下に置こうということだった。これは、戦争遂行に必要不可欠な鉄鋼と石炭を共同管理することで、戦争の準備を根本的に不可能にする計算に基づいた提案だった。この提案は今日のヨーロッパ共同体の母胎となる。つまり、ヨーロッパ連邦化の第一歩だった。
アデナウアーはこの提案を直ちに受容れた。彼はシューマン長官に送った手紙の中で“この提案は不信で凍りついた隣人関係を新しい建設的な協力関係に導くだろう”と評価した。1950年6月20日、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)設立条約の作成交渉が始まった。その5日後、韓国戦争が勃発した。
韓国戦は西ドイツの再軍備とNATO加入の道を開く契機になった。この戦争で米軍兵力が韓国に集中されたためヨーロッパは強大なソ連軍の脅威にさらされた。ドイツの再武装を恐れていたフランスなど西欧諸国も考えを変えるようになった。この状況を利用した人がアデナウアーだった。
その年の8月17日、アデナウアーは西ドイツ地域を占領、管理していた連合国(米・英・佛)の高等弁務官たちに、西欧の防御力強化を要請するとともに、西ドイツの警察力として15万人の防衛隊創設を申請した。そして8月29日にニューヨークで開かれる予定の米・英・佛外相会談に際し、二枚の覚書を作成して提出した。要旨は、国際的な西欧軍が創設されれば、西ドイツは軍隊を提供する用意がありそのような貢献の代價として西ドイツに平等な権利を与えるべきだという内容だった。
米国も西ドイツの再武装を支持するようになった。ニューヨークで開催された米・英・仏外相会談で、ディーン・エチスン米国務長官は西ドイツの再武装とNATO加入を要求した。西ドイツの再軍備に最も気を使っていたフランスのルネパレバン外務長官は‛統一ヨーロッパ機構に属する欧州連合軍創設’を提案した。西ドイツ軍の独自性を制約しヨーロッパ共同体の管理を受けさせるという計算だった。1950年12月、ブリュッセルで開催されたNATO理事会は‛スボフォード妥協案’を採択し、欧州連合軍創設を引き続き検討する一方、NATOを軍事同盟体に強化し、西ドイツの再武装を遅滞なく推進することを決議した。
西ドイツ国内では再武装に反対する世論と運動が激化しアデナウアーの支持率は一時24%まで落ちた。地方選挙で執権キリスト教民主は相次いで敗北した。だが、アデナウアーは堂々と立ち向かった。
“自ら安保の責任を負おうとせず、米国の親たちに子供たちを犠牲にして下さいとは言えないではないか”、“主権の回復のためにも再武装を避けられない”
アデナウアーは国防部の設立のための準備機構を発足させ、労働組合の協力を得る一方、主權回復のための連合軍との交渉を進めて反対論を抑えた。1952年5月、ボンで‛西側3カ国とドイツ連邦共和国の関係に対する条約’が調印されて、西ドイツは主権を回復、国際社会に復帰しNATOの一員として東西冷戦時代に西側世界の防衛の柱の一つになる。西ドイツの再武装とNATO加入によって、この機構は強力なヨーロッパの軍事同盟機構に発展することができた。韓国戦は台湾を救い、日本を経済復興させ、西ドイツの再武装を督励し、ソ連と中国を中心とした共産陣営に立ち向かう自由陣営の防御網を完成させたのだ。韓米軍をはじめとする国連軍が流した血は、自由を護り拡散させる動力となった。
www.chogabje.com 2015-09-08 16:15