6.25戦争でソウルを爆撃した北韓操縦士たちは日本軍出身
北韓空軍は日本軍パイロット出身者たちが作った。
趙甲済
尹應烈元空軍作戦司令官は日本軍、北韓軍、韓国空軍で勤務した経験がある。日帝時代の1943年、平壌3中在学中に日本の少年航空兵学校に入って操縦訓練を受けて翌年、Java戰線に配置された。少年航空兵学校第15期卒業生だが、朝鮮人の同期生が数十人だった。彼らは解放の後、北韓と韓国空軍の創設に参加する。
尹應烈氏は1945年8月15日をプノンペンで迎えた。故郷に帰った彼は、北韓空軍創設に参加した。日帝時代に戦闘機操縦の経験を持った多くの人々が北韓空軍創設に参加したという。北韓空軍の創設で核心的役割をなした人は李活。彼は民間人として自費で操縦技術を学んだ後、日本海軍に嘱託の身分に入って戦闘機を操縦した。少年航空兵学校出身としては李フンブ、朴ギョンオク氏などが参加した。後に人民9師団長になる許ミンクックは名古屋航空学校出身だ。空軍師団長になった徐ジュピルは尹應烈氏の航空兵学校の同期生で韓国戦争のとき米軍B-29も撃墜した。
尹應烈氏は北韓空軍将校として勤務したが思想検閲でパイロット資格を剥奪されるや越南して1948年陸軍士官学校7期に入った。彼は卒業して陸軍航空隊少尉に任官したが1949年10月1日、空軍が創設されると空軍に移った。6.25戦争中107回も出撃した。
6・25奇襲南侵当日、尹氏は汝矣島飛行場の当直士官だった。その日ソ連製のヤーク戦闘機でソウルなどを爆撃した北韓空軍操縦士たちはほとんどが日本軍操縦士出身だった。尹氏の同期生である朴ギョンオクはヤーク機が撃墜されて落下傘で降りたが射殺された。また、他の同期生である李フンブは落下傘で着地したが腹部に銃傷を受けた。韓国空軍が彼を引き受けるや李氏は同期生である尹應烈氏に会いたいと言い死亡したという。
国連軍の仁川上陸後、國軍が北進して平壌を占領したとき尹應烈氏は平壌に行って李フンブの親に会った両親は息子がまだ生きていると思っていたため、死んだと言えなかったという。
上の事実から分かることは、北韓でも日帝時代の軍隊経験者を貴重な資源として考え重用したということだ。韓国では親北勢力が大韓民国を作った主流勢力を攻撃するため、朴正煕のような滿軍将校まで親日派と決めつけているのとは対照的だ。
かつて北韓政権の第2人者だった金英柱は金日成の弟だが、日帝時代に日本軍の補助員だった人だ。北韓政権の最高位職にあった康良煜は日帝のとき道議員だった。彼は金日成の外戚だ。
李承晩が組んだ大韓民国の初代内閣には親日派が一人もいなかったが、金日成の初期政権は多くの親日派たちが含まれていた。盧武鉉政権のとき、金剛山で南北間の接触の際、北韓のある高位幹部が私席で韓国側の某人士にこう話したという。
“この頃、南韓で親日派を改めて取り上げているようだが理解し難いです。金日成主席は、親日派だった人も悔い改めたら皆受け入れて祖国の建設に参加できるようにしました。”
この話は、共産党に協調した親日派は重用し、反対した親日派は粛清したという意味だ。南韓の世間知らずの親北派は、北韓政権は親日派を粛清し、李承晩政府はしなかったため、北韓政権に正統性があると主張するのだが、無知なのか分かっていながらもそうしているのか分からない。
6・25南侵直後、ソウルに進駐した北韓軍は、韓国空軍の創設メンバーである李英茂大領(陸軍航空隊長を歴任してから民間人の身分)を拉致した。彼は蒋介石の中国軍で操縦士として日本軍と戦った人だ。李大領を拉致した北韓軍は協力を要求したが李氏が拒否するや彼を投獄して獄中で死ぬようにした。協調的な親日派は重用し、国共合作に反対する独立派を弾圧したのだ。これが北韓政権の親日派の粛清基準だった。
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北は橫死内閣、南は独立闘士の内閣
- 李承晩が親日派を重用したという迷信について。
1.いわゆる朝鮮民主主義人民共和国の初代内閣名簿を見よう。
首相・金日成、副首相(外相兼任)朴憲永(処刑)、副首相(産業相を兼任)金策、副首相・洪命熹、内務相・朴一禹(粛清)、民族保衛相・崔庸健、財務相・崔昌益(処刑)、司法相・李承燁(処刑)、商業相・張時雨(処刑)、交通相・朱寧夏(処刑)、労働相・許成澤(処刑)、国家検閲相・金元鳳、都市経営相・李鏞、教育相・白南雲、文化宣伝相・許貞淑、農林相・朴文圭、保健相・李炳南、保衛保衛相・金武亭(処刑)、最高会議議長・許憲、最高会議常任委員長・金枓奉(粛清)。以上の20人のうち10人が死刑、または政治犯収容所で消えた。非命で橫死内閣だ。この他、金英柱(労働党組織部長、金日成の弟)、洪命熹(副首相)、李承燁(南労党の第2人者)、張憲根(北韓臨時人民委員会の司法部長)も日帝に協力した親日派だった。
2.大韓民国の初代内閣を見る。
大統領・李承晩(上海臨時政府の初代大統領)、副統領・李始榮(臨時政府財務総長)、国会議長・申翼熙(臨時政府の内務総長)、大法院長・金炳魯(抗日弁護士)、国務総理・李範奭(光復軍参謀長)、外務長官・張澤相(青丘倶楽部事件で投獄)、内務長官・尹致暎(興業倶楽部事件で投獄)、財務長官・金度演(2・8独立宣言で投獄)、法部長官・李仁(抗日弁護士)、国防長官・李範奭兼任、文教長官・安浩相(哲学教授)、農林長官・曺奉岩(共産党幹部・死刑)、商工長官・任永信(独立運動、教育者)、社会長官・錢鎭漢(抗日労働運動家)、交通長官・閔熙植(鉄道交通専門家)、逓信長官・尹錫龜(教育社会運動家)、無任所長官・李靑天(光復軍総司令官)、無任所長官・李允榮(抗日クリスチャン牧師)、国会副議長・金東元(修養同友会事件で投獄)、国会副議長・金若水(社会主義独立運動)。
以上の19人はほぼ全員が独立運動をした人だ。親日派は一人もいない。反共・反日を國是とした李承晩大統領が親日の人を長官に起用するはずがなかった。
ただし、親日警察出身たちを重用して共産主義者たちを捜査するようにしたが、彼らが政治査察までしたため独立運動家出身たちを調査する事態が起きたりした。
概して李承晩内閣は独立闘士内閣と定義することができる。では、南・北韓のどちらに正統性があるのかが自明に判明され。正統性の中には法治の要素が大きく評価されねばならない。
政治的粛清で初代閣僚の半分を除去する体制に正統性はあり得ない。民族史的な正統性は民族全体の幸福をどの体制が発展させたのかで決まる。人間の幸福は物質的な福祉、安全、自由こそが前提条件だ。
金日成体制は出発から血なまぐさい粛清を続けながら民族の災殃になり、李承晩大統領は祖国のために戦った方々を集めた。その差が今日の南・北の差なのだ。
www.chogabje.com 2015-11-09 10:28