粛清の波紋は広がる

(2015. 7.20)岡林弘志

 

人民武力相だった玄永哲の残酷な処刑は、さまざまな波紋を描き、さらに広がっている。新たな処刑の情報、恐怖を覚えた要人らの脱北のうわさも次々と出てくる。北朝鮮全体が委縮しているようだ。大々的な恩赦を断行という発表もあったが、焼け石に水だ。

 

「大赦」の温情も生きていればこそ

 

「祖国解放70周年と朝鮮労働党創立70周年を迎え、祖国と人民の前に罪を犯して有罪判決を受けた者に大赦を実施することに決定した」(7・14朝鮮中央通信)。この大赦は「8月1日から実施」し、「内閣と該当機関は、大赦で釈放された人々が落ちついて働き、生活できるよう実務的対策を立てる」というのだから、なんともありがたいことだ。

 

北朝鮮は、これまでも節目の記念日には、恩赦をしてきた。2012年には、金日成主席の生誕百周年、金正日総書記の生誕70周年を記念して行われた。今回も、二つの節目が重なったのだから、「大赦」があっても不思議ではない。

 

ただ、このところ、粛清が続き、人々は「恐怖政治」におののいている。その印象を和らげるため、この際、大幅な恩赦を行い、「元帥様」の温情を示そうという狙いもありそうだ。もっとも恩恵を受けられるのは、生きて受刑者だけ。殺されてしまった人の命は戻らない。処刑者の家族にとって、恩赦はむなしい。おためごかしだ。

 

3年半で70人処刑

 

「金正恩体制発足後の3年半で約70人が処刑された」(7・9)。韓国の尹炳世外相は、ソウル市内の討論会で講演した。金正日発足時の同じ期間の約10人に比べ、「極めて異例」と強調する。確かに、一昨年の張成沢の処刑に続き、その人脈も処刑されるなど、粛清の情報が絶えず流れてくる。

 

当時、金正恩の側近ナンバー1といわれた崔龍海・人民軍総政治局長(当時)も、張成沢の有力な人脈だった。危ういと言われたが、しばらくして金正恩に随行の報道がなされ、無事が確認された。しかし、実際は「処刑寸前まで追い込まれていた」(7・10東亜日報)という。「昨年4月末、1カ月以上監禁されていた」が、なぜか釈放され、降格されただけで終わったという。いずれにしても危うかった。とにかく、人脈粛清はしばらく続いた。

 

そして、今回の玄永哲の処刑について、韓国の国家情報院は、「反党、反革命容疑」で、軍団長級以上の幹部が見守る中で、銃殺、公開処刑された」と国会に報告した(7・14)。さらに玄に近い複数の幹部も「体制に不満を持った」という理由で銃殺されたという。

 

最近では、金正恩が激怒した(5・19)スッポン工場の責任者が処刑されたという情報も漏れてきた(7・7デイリーNK)。激怒した場面で、少し小柄な風采の上がらない幹部がひたすら恐縮している姿が映っていたが、この人だろうか。「住民たちの間では『原因は停電なのに支配人は気の毒』『支配人が発電所を持っているわけでもないのに』『スッポンのせいで人が死んだ』」(同)。こうして、恐怖は広がっていく。

 

逃げ出すしかないか

 

権力にかかわる人だけではない。韓国ドラマのDVDなどを見たことによる死刑もかなりの数に上るという。韓国の統一研究院は、「北朝鮮人権白書2015」を発表した(7・1)。「金正恩第一書記の執権後に執行された死刑罪目の範囲は、殺人、強盗、人身売買、性暴行などから、韓国録画物視聴にまで拡大している」。具体的に、脱北者の証言による清津、恵山などでの処刑例をあげている。

 

いかに敵対しているとはいえ、韓国のドラマを見ただけで、死刑とはあんまりだ。もっとも、北朝鮮に常識を期待してもしようがないが、この政権の狂気をよく現している。おそらく「国家転覆陰謀罪」(刑法60条)を適用した(7・2中央日報)のだろう。

 

まさに恐怖政治。となると、人々がまず考えるのは、逃げ出すことだ。特に、近くで独裁者に仕える人が危ない。「軍需経済を管轄する第2経済委員会の高位級幹部が韓国に亡命」「金正恩の統治資金を管理する39号室の幹部ら3人が韓国に亡命」「パク・スォン人民軍上将が亡命」―。このところ、韓国のメディアは、立て続けに北朝鮮要人の亡命を報道している。

 

「海外で働く北朝鮮労働者に、恐怖政治が相当影響を与えているようだ。中には韓国へ向かう人もかなりいる」。先の講演で、尹炳世外相はこうした現象も明らかにした。「次第に恐怖政治が強まり、経済状況が悪化し、人権侵害がひどくなれば、この流れがどうなるかは明らかではないか」。逃げ出すのは当然だ。

 

この間、日本海で漂流していた北朝鮮の漁船を韓国海洋警察が救助した(7・4)。5人が乗っていたが、このうち3人が韓国への亡命を希望した。2人は帰国を望み、板門店から帰国した(7・14)。北朝鮮は激しく抗議したが、3人の意思は変わらなかった。

 

恐怖政治と直接関係があるかはわからないが、北朝鮮は脱北者防止に躍起になっている。中朝国境からの脱北は取り締まり強化で減っているようだが、海からのルートは簡単には抑えられない。今回は、初めから脱北を意図したものではない。漂流して韓国へ来たことを幸いに亡命を決意したということだ。この国から逃げたいという欲求が潜在していることを裏付けている。

 

逃げ出すほどの勇気やチャンスに恵まれない幹部は、ひたすらごまをするか、黙るしかない。物言えば唇寒しだ。おそらく、経済立て直しについても、責任を生ずるような提案は出ず、当たり障りのないことをごちゃごちゃ言ってお茶を濁すことになる。

 

若者のあこがれに変化

 

「かつて北朝鮮の若者のあこがれの職業は、労働党幹部、人民保安部、保衛部の職員だったが、最近はIT技術者、教員、医師などに変わりつつある」。孫引きで申し訳ないが、米政府系のラジオ・フリー・アジア(RFA)の報道を、デイリーNKが伝えた(7・13)。恐怖政治が北朝鮮内部でさまざまな影響を与えている1例だ。

 

こんなブラックユーモアも紹介している。「金正恩氏は、党幹部を堂々と殺し、司法機関の幹部は事情も聞かずに殺し、保衛部は見えないところで殺し、軍の幹部は無駄口を叩く間も与えず殺し、高級幹部は高射砲で殺し、貿易イルクン(活動家、働き手)はまとめて殺す」。

 

この結果、「カネが儲かる上に責任を取らなくていい職業が好むようになっている」というわけだ。各大学の医学部の人気が高まり、幹部の子息をはじめ志願者が急増し、競争が激しくなっているという。どこの国でも古いしがらみにとらわれない若者は、世の中の動きに敏感に反応する。

 

ノーバッジの姿がしばしば

 

恐怖支配は、独裁政権の安定を示すものか。はたまた、それほど恐怖を与えなければ、統治ができないとなれば、むしろ不安定と見ることもできる。そんな中で、ことによると、金正恩は、かなり自信を持ちつつあるのではないか。そんな光景が、ちらほらと見える。

 

おやっと思ったのは、ほぼ完成した順安国際空港の現地視察だ。白の開襟シャツをたっぷりと着た金正恩の胸に金日成・金正日バッジが付いていなかった。李雪主夫人がバッジを付けない姿は、時々あったが、金正恩のノーバッジは珍しい。

 

しかも、新空港は前回に視察した際、金日成・金正日の事績をたどり敬う展示、造りになっていないと叱り飛ばし、改装させたことがある。もっとも、前の空港の建物では、金日成の大肖像画が、正面に飾られていたが、新ビルにはないという。

 

それだけでなく「4月30日の牡丹峰楽団の公演の際の映像にも金日成主席・金正日総書記の姿を登場させなかった。これまで牡丹峰楽団の公演では、金日成父子の生前の姿を写した映像が例外なく登場しており、これは異例の変化だ」(7・14朝鮮日報)。もちろん、金正恩の背景映像は登場した。

 

このほか、テレビで放映された、先代、先々代の遺体を安置した錦繍山太陽宮殿の参拝、化粧品工場の現地視察などの際も、バッジは付けていなかった。先代の七光りがなくとも、俺は独り立ちできる、と誇示するかのようだ。

 

「政権4年目を迎えて「祖父の後光」から抜け出し、自分の時代を本格的に準備しようとする意図がある」(同)のかもしれない。もっとも「俺は、俺は」といっても、誇るべき成果上げられない。そんななかで、自らの統治力を誇ろうとすれば、恐怖支配を強めるしかない。

 

いつか怨みは爆発する

 

「君臣がひとつにまとまらなければ、国家は強固にならない。君主にさからう臣を誅滅し、うわべだけの和をつくるのはたやすい。が、それでは怨みの種を国内に播くことになり、やがて大きくなる怨みに手がつけられなくなる」(宮城谷昌光「華栄の丘」文春文庫)。

 

 

中国の戦国時代などを舞台に、数々の傑作をものにしている作家の見た歴史の必然だ。北朝鮮はその必然に一歩一歩近づいているように見える。

更新日:2022年6月24日