北が恐れる「離散家族の再会」

岡林弘志

(2013.9.4)

 

「ウリミンジョクキリ(わが民族同士)」――北朝鮮が好んで使う言葉だ。これと裏腹に、まさに同じ民族しかも親族同士が顔を合わせる離散家族の再会すら、いまだに遅々として進まない。この9月の秋夕、3年ぶりに実現するが、果たしてどうなるか。再会が始まってすでに28年も経つ。独裁体制は、人民が「韓国の風」にさらされるのを恐れているようだ。

 

骨肉を隔てた体制の残酷

 

「家の前に小川があって、石の橋がかかっていただろう」「うん、その横に柿の木があって」「そうだ!そうだ!やっぱり弟だ」「兄さん!」。後ははっしと抱き合い、涙、涙、涙…。

 

離散家族の再会は1985年8月に始まった。ソウルの南東、 かつてのウォーカーヒルホテル。北から来た離散家族(50人だったと思う)と韓国側の親族各2、3人ずつがそれぞれのテーブルに分けられ、広いホールは涙と泣き声のるつぼに。私は幸いこのころソウルに駐在していて、直接再会の現場を取材し、思わずもらい泣きしたことを思い出す。

 

この場面に立ちあって感じたのは、南北が分断して国を作り、民族同士が戦火を交え、休戦から30年以上も経っていたが、それでも骨肉の情を薄めることはないということだ。それと同時に、骨肉を引き裂く冷戦を背景にした政治体制の残酷さも感じた。南北に引き裂かれた家族、親族は、全人口6千万人のうち1千万人に上るという。

 

独裁体制は「再会」に危機感

 

南北は東西冷戦の最前線に位置づけられ、休戦のまま対峙し続け、冷戦が終わっても、北朝鮮は首領独裁という特異な体制を変えることができないまま、というよりより強化して今日に至り、対立の構図は変わっていない。

 

この体制は、あまりの特異さのため、他の空気が入り込むともろくも崩れる体質を持っている。情報を遮り、行き交いさせないため、人々からすべての自由を奪い、抑圧する。そのことで、ますます外の空気に触れさすことができないという悪循環に陥っている。従って、南北の交流、接触を断ち切ってきたのは、いつも北朝鮮だ。離散家族再会が遅々として進まないのも、そこに最大の原因がある。

 

災害支援がきっかけで「再会」へ

 

離散家族の再会が、南北で大きく取り上げられたのは、1972年の南北共同声明、「祖国統一の三大原則」で合意してからだ。その直後に南北赤十字会談が行われ、再会問題は最重要課題として取り上げられた。しかし、南北はそれぞれの体制固めを最優先にしていた時代で、特に北朝鮮に拒否反応が強く、立ち消えになった。

 

韓国でこの問題が大きな話題になったのは、1983年6月、KBSテレビが「離散家族を捜しています」という特別番組を放映してからだ。確か、最初は1回の予定だったが、次から次へと出演希望者が増え、ついには130日間に及んだ。この間、親族の名前や写真をプラカードに張り付けた人たちが汝矣島のKBS前広場に詰めかけ、放送されるまで何日も帰らず、一帯が異様な熱気に包まれた。

 

こうした韓国側の離散家族の再会への熱望を背景に、あらためてこの問題が取り上げられたのは1984年。韓国のソウル近郊が大水害に襲われ、多大の被害をこうむった。この時、北朝鮮が災害支援のコメやセメントを送ると発表、それまでは、韓国側はどうせ口だけと受け入れなかったが、この時は関係改善のきっかけになればとこれを受け入れた。

 

北朝鮮は、まさか韓国が受け入れるとは思わなかったと後から聞いた。しかし、韓国が受け入れた以上、出さなければならない。当時、北の食糧事情が良かったわけではない。このため、戦争に備えて備蓄していたコメを支援に回したという。

 

板門店の近くで、コメの受け渡しが行われ、私も取材に行ったが、南北のテレビが興奮して現場から中継するなど、南北の距離が急に縮まった印象を与えた。こうした雰囲気の中で、さまざまな南北会談が行われた。赤十字会談では、85年に「南北離散家族訪問、芸術団公演」のソウルと平壌の相互訪問で合意した。

 

「何不自由なく生活」というが

 

しかし、再会は純粋に人道問題として行われたわけではない。北朝鮮は、北の体制がいかに優れているかを宣伝する場として最大限に利用しようとした。しかし、北の離散家族は、南に家族、親族がいることで、低い「成分」に区分けされ、苦しい生活を強いられていた。そのうえ、南の家族に会いたいなどと言えば、余計目をつけられる。

 

このため、北朝鮮当局は、それでも比較的、良い暮らしをしている人たちを指名して、思想教育を受けさせて、ソウルに送りこんだという。このため、再会すると、まず「我々は金日成主席の下で何一つ不自由しない生活を送っている」と、異口同音に強調した。中には「金日成主席のために万歳しよう」と強要する例もあった。

 

宣伝の機会が逆目に

 

しかし、服装や顔色などを見れば、韓国側の離散家族より貧しく厳しい生活をしているのは、明らかだ。韓国側の家族は、それぞれができる限りの土産を用意したのはもちろん、中にはその場で着ていた服まで与えたり、ドル紙幣を用意した人までいた。

 

もちろん、韓国側も既に経済的に優位に立っていることを誇示する機会ととらえていた。韓国側は北から来た離散家族だけでなく、芸能人、引率や監視のための当局者にも、国産の衣類や電化製品、化粧品の一杯詰まった大きなバックをプレゼントした。後から聞いた話では、これらの品物は、やがて北朝鮮のヤミ市場で、いい値段で売れたという。韓国が経済的にいかには発展しているかを北朝鮮の人々に知らせる標本になったのは言うまでもない。

 

北朝鮮は国威発揚を韓国に見せつけようとしたが、反対に韓国の経済面での優位さを北朝鮮の人々に印象付ける機会になってしまった。板門店からソウルまでは50キロほどだが、途中の街並み、ソウルのビル群も、北朝鮮の人たちの大きな衝撃を与えた。

 

後に情報関係者に聞いた話では、中に北朝鮮へ帰りたくないという離散家族がいた。しかし、受け入れば、北は怒って、再会事業は二度とできなくなる。今回は黙って帰ってくれと懸命に説得したという例もあった。また、引率してきた北朝鮮当局者から、「北では手に入らないので、モーツアルトのテープがほしい」と頼まれ、テープとカセットデッキをプレゼントした……。

 

いわば、体制の勝負に負けた北朝鮮は、その後さまざまないちゃもんをつけ、2回目がおこなれないまま、87年にはミャンマー沖の大韓航空機爆破事件が起き、結局中断してしまった。

 

融和政策で再び「再会」

 

再会事業が再開したのは、対北融和政策をとった金大中政権になってからだ。分断後初めての南北首脳会談が行われ、南北共同宣言が発表された(2000・6)。融和的な雰囲気が高まる中で、この年の8月、15年ぶりに離散家族再会が行われた。なぜか、南北はこれを第1回と称している。

 

再会は、2010年10月までに18回行われた。金大中・盧武鉉時代は度々行われたが、2008年2月に南北相互主義をうたう李明博大統領が登場すると、北朝鮮は南北交流を渋り、離散家族再会もそのとばっちりを受けた。さらに北朝鮮が核・ミサイル開発を進めていることがわかり、2010年3月には北朝鮮による韓国哨戒艦「天安」撃沈事件もあって、この年の10月で中断した。

 

ただ、融和政権時代も順調だったわけではない。最初はソウルと平壌を訪問していたが、第4回(2002)からは、金剛山に面会場をつくって、再会することになった。北朝鮮側がビルが林立し、自動車であふれかえるソウルへ行くのは刺激が強く、独裁体制維持に有害と判断したためだ。それに、毎回ホテルに会場をセットする負担が重いなどの理由もあった。金剛山には韓国の現代グループがつくった施設があり、北朝鮮側の負担はごくわずかで済む。

 

北朝鮮は、金大中・盧武鉉が一方的にカネや食料、肥料などをくれることは歓迎したが、離散家族再会についてはそうでなかった。李明博への政権交代で、打ち切りのいい口実ができたという面もあった。

 

2つの「ドル箱」を取り戻すため

 

今回、離散家族の再会が実現すれば、三年ぶりだ。9月25‐30日に金剛山で各100人ずつの予定だ。韓国側は、久しぶりの再会なので200人ずつ、ソウルと平壌で行うよう提案したが、北朝鮮が受け入れなかった。韓国側が人数を増やすよう強く求めたため、さらに11月にもう一度行う。10月22,23日に、南北40家族ずつがテレビ画像を通じた再会を行うという。

 

あれほど嫌がっていた再会に、北朝鮮が応じたのは、北朝鮮が得をする取引きができると判断したからだ。一つは「ドル箱」を取り戻す、もう一つは、米朝協議の前提として米国が求める南北関係改善の姿勢を見せることにある。

 

「ドル箱」の一つは、開城工業団地だ。操業は北朝鮮が勝手に中断したが、ドル収入が途絶え、5万人以上の労働者が失業した損害は大きく、結局何やかやいちゃもんをつけながらも、操業を再開することになりそうだ。

 

開城団地に関する協議の席上、韓国側は離散家族の再会を持ち出したため、北も応じざるをえなかった。それにもう一つの「ドル箱」だった「金剛山観光」再開への思惑もある。「金剛山観光」は、1998年に始まり、韓国人の人気を集め、百万人を超える人たちが訪れた。ところが、2008年11月、韓国の女性観光客が、北朝鮮兵士に射殺されるという事件があり、中断した。

 

「金剛山観光」では、韓国側が入山料を払い、観光客も2、3万円の旅行費を払う。年間の北朝鮮の収入は6000万ドルともいわれる。しかも、ホテルをはじめ全ての観光施設は、韓国の現代グループが建設し、維持管理している。北朝鮮にとっては、山を見せるだけで、濡れ手で粟をつかむように、外貨が稼げるまさに「ドル箱」だった。

 

そのうえ、韓国からの観光客は指定されたコースを歩くだけで、宿泊施設の従業員を除いて一般の民衆と接する機会はない。「南風」が吹き込む隙間が極めて少ない。5万人もの北の労働者が働く開城団地とは大違いだ。おいしい外貨稼ぎの場である。

 

このため、かねて北朝鮮は金剛山観光の再開を韓国に求めてきたが、韓国側は射殺事件の謝罪と再発防止などを求めて、拒否してきた。しかし、今回、金剛山で離散家族の再会が行われれば、金剛山に対する韓国側の拒否反応も薄まるという思惑がありそうだ。

 

進まない対米関係

 

また、北朝鮮が強く願う対米関係の改善は全く進んでいない。米国は非核化の具体的な対応がない限り協議には応じない方針を貫いている。8月末に米国務省のキング人権担当特使が訪朝を予定していたが、ぎりぎりになって、北朝鮮が拒否した。

 

キング特使は北朝鮮に拘束されている韓国系米国人の解放が目的だった。北朝鮮は見返りに食糧支援の協議を始めることを求めたが、米国は応じなかったためといわれている。北朝鮮の常套手段である「人質作戦」には乗らないというわけだ。

 

米朝関係改善が進まない中、かねて米国が前提として求める南北関係改善のアリバイを少しでもつくっておく。本当は気が進まない離散家族再開に応じた理由の一つだろう。

 

家族、親族を自由に会わせない残酷

 

しかし、世界を見回してみても、同じ民族、しかも家族、親族であっても自由に行き来できない、手紙のやり取りもできない、という国はほかにない。同じ民族同士戦火を交えたという異常な過去もあったが、休戦から数えて60年も経つ。

 

また、かつて南北は東西冷戦の最前線に位置づけられていたが、冷戦が終わって、すでに20年以上も経つ。しかし、南北の軍事的な対立の構造は何も変わらなかった。というより、金日成―金正日―金正恩と代が代わるに連れて、むしろ軍事独裁の色彩を濃くしている。

 

「(南北)分裂で苦痛を受けている同族の苦しみを解決しようという思いと人間愛のみが、会談の場にあふれていなければならない」(8・31労働新聞)。「民族分裂の悲劇を終わらせるべきだ」と題する論評だ。なんと、涙が出るではないか。そうであるなら、南北はとっくに停戦協定を結び、平和の半島に変質している。「よく言うよ」としか言いようがない。

 

あらためて、北朝鮮の特異な独裁体制の残酷さを思う。離散家族はその最大の犠牲の一つだ。この体制が続く限り、離散家族の再会も体制維持の方便に使われる以上には進みそうもない。

更新日:2022年6月24日