◎北朝鮮のぞき見②

~先代と大きく違う「金正恩スタイル」~

岡林弘志

(2012.10.16)

 

 金正恩第一書記が最高実力者として登場して以来、北朝鮮の人々が一番驚いたのは、笑顔が多いなど人々と接する際のスタイルだ。前回、夫人のファッションの影響を述べたが、何よりも変わったのは金正恩だ「人民とともに」「人民の中へ」を唱えた祖父、金日成主席のやり方を模範にしているようにも見える。

 

 「時代の変化を実感」

 

 「人々は時代が移り変わることを実感している。」

 

 北朝鮮滞在が長い在日朝鮮人K氏の感想だ。まずは、テレビへの出方が違う。綾羅人民遊園地の完成式への出席は翌日放映された。しかも、李雪主夫人と手をつないだ場面もそのままでた。

 

 万景台遊園地を現地指導した時も、雑草が生えているのを叱責する場面や、暑さのため人民服の前のボタンを全部はずした姿もそのまま放映された「できるだけありのままを編集しないで出す」という方針ではないかという。

 

 金正日総書記の告別式(12・28)もくわしく放映された。霊柩車を先頭に市中を行進し、平壌体育館前に差し掛かった時、兵士が集団で葬列を見送っていたが、感極まったのか、多くの兵士が霊柩車に押し寄せ、葬列が止まるなどの混乱が起きた。

 

 ところが、翌日の労働新聞にその場面の写真がそのまま掲載された。K氏は「これが変わったことを実感した最初だ。多くの人々もそうではないか」という。いかに人々が嘆き悲しんでいることを強調するためだったかもしれないが、確かに混乱した場面をそのまま流すのは異例のことに違いない。

 

 「人民との距離感がない」

 

 また、元旦に放映された部隊視察の映像には、金正恩が一般の兵士と腕を組んでいる場面があった。「お年寄りの中には、兵士が最高司令官と腕を組むなどけしからんという人もいた。そのあとで報じられたテレビを見ると、最高司令官の方が先に誘って腕を組んでいた」という。

 

 「人民との距離感がない」演出を意識しているに違いない。政府関係者にこのあたりを質問したところ、「演出と見るのは悪意があってみるからだ。第一書記の人柄そのものが出ている。人民の中へ入っていく、少年や労働者、兵士、さらに家庭訪問でもわけ隔てなく入って行って、一緒に写真を撮る。こんなことは演出しようとしてもできない」と、えらい剣幕で反論された。

 

 女性兵士70人とツーショット

 

 われわれが会うことができた人たちが必ず例に挙げたのが、女性だけの「柿の木中隊」訪問の時の話だ。金正恩が現地指導を終えた時、兵士の一人一人と手を組んで記念写真を撮り始めた。兵士らは最初遠慮していたが、結局約70人全員がツーショットの写真に収まった。

 

 この「柿の木中隊」は、金正日が編成した海岸近くにある女性砲兵部隊、たしか部隊内にあった柿の実を金正日に進呈したことからこの別名が付いた。父親お気に入りの部隊の一つだった。それにしても、一人ひとり全員と記念写真というのは、大サービスだ。この場面は、滞在中のテレビでも2回ほど見た「金正恩像」を印象付ける“目玉”の映像の一つのようだ。

 

 もう一つ、K氏が驚いたのは、平壌の中心地を再開発した倉田通りのマンションを9月初めに視察した時の話だ。訪問先に住んでいる大学教授は朝、大学へ行ったら、上司から車を用意してあるので妻の職場や子どもの学校へよって、一緒に家に帰るように言われ、家についたらすでに、金正恩が来ていたという。

 

 K氏は、家族や関係者から直接話を聞いたから間違いないという。いわゆる「やらせをしないようにしていると思う」たしかに、金正恩の現地指導のやり方や言動は、金正日の時代からすると、大きく違っていることは間違いない。

 

 6月だったと思うが、自由アジア放送は、金正恩が咸鏡南道咸興市の現地指導へ行く途中、突然車を止めさせて、近くの民家を訪れ、夕食を見て食糧事情を調べたという話を紹介している。

 

 暗かった金正日の治世

 

 振り返ってみると、金正日の治世17年。印象的に言うと、金正日の笑顔はほとんど見なかった。むしろ、渋い顔をして、厳しく指示をし、叱責しているらしい映像、またやたらにかしこまった人たちや兵士に囲まれての記念写真が記憶に残っている。

 

 「苦難の行軍」を余儀なくされ、自ら招いた時代背景がある。金正日は1980年代後半にかなりの実権を握ったといわれが、89年の冷戦終結、ソ連の崩壊と経済支援の停止。90年代前半は第一次核危機、94年に金日成が死去、すべての実権を握ったが、95、96年と続いて大水害に見舞われた。

 

 さらに、2000年代に入って、ひそかに進めていた核開発が発覚して、再び核危機、さらには長距離ミサイルの開発も加わり、国際的な制裁を受け、外交的に孤立する。水害は毎年、09年はデノミで混乱を招いた。これは自業自得だが、金正日には、笑顔を見せる余裕がなかったのだろう。

 

 こうした中で、人々の不平、不満を抑えるのは容易ではない。また、独裁体制をより堅固にすることを狙って、軍を最優先する「先軍政治」を国家運営の根幹に据えた。このため、人々は腹をへらして、息の詰まるような生活を強いられた。南北の休戦状態はそのまま続いているが、事実上戦争も内戦もない中で、あまりに異常な時代だった。

 

 代替わりを機にイメチェン

 

 そうした時代の空気が街の雰囲気にも色濃く反映し、2年前に訪朝した時でも、人々の表情に明るさがなく、活気がなかった。平壌の街は、金正日のデザインで都市計画がなされ、整ってはいるが、人々が生活しているという生々しさ、人間臭さがなく、夜ともなれば、アパートの部屋の明かりもぽつぽつ。街全体が海の底に沈んだような印象を受けた。

 

 金正日自身も、この重苦しさをこれ以上続けるのは無理と判断したのか、デノミ失敗後から「人民生活向上」を最優先課題に据えた。しかし、これまでのスタイルを急に変えるわけにもいかなかった。代替わりを機に、一挙に最高実力者のイメージチェンジを図ったのではないか。

 

 「先祖返り」で「笑顔作戦」

 

 今回、ホテルの売店で今年発行された「21世紀の朝鮮」(李成煥著、外国文出版社・日本語版)を買い求めた。強盛国家を目指す朝鮮はいかに素晴らしいかを誇示した内容だが、最初に載っている三代が登場するグラビアが示唆的だ。

 

 初代金日成単独の写真は8枚あるが、このうち、「祖国に凱旋して演説」と「合同軍事演習を指揮」する写真を除いた6枚は、いずれも笑顔だ。労働者を前に図面を広げ、中学生に囲まれ、孤児学院の子どもたちとともに、如何にも楽しそうで、満足げな表情だ。一枚は何かの行事の閲兵式らしく、軍服、軍帽に身を正しているが、右手をあげて歓呼に応えている写真もまた笑顔だ。

 

 金正恩も、現地指導の映像では笑顔を見せる場合が多く、子どもたちや兵士に囲まれてという場面が多い。金正日の現地指導の雰囲気とは大きく違う。このグラビアは、笑顔で「人民の中へ」というスタイルは、決して異常ではなく、祖父の時代もそうだったということを強調しているのだろう。

 

 険しかった先代も「笑顔」に

 

 ちなみに金正日も、死後は笑顔がふえている。やはり今年出版された「偉人金正日」(外国文出版社,255ページ)の表紙は、笑顔の肖像画で飾られている。たしか、告別式の葬列に飾られた大型パネルもこれと同じ笑顔の写真だったと思う。

 

 万寿台の丘には、かねて金日成像が立っていて、人々が最大の敬意を払う“聖地”になっているが、今回行ったら横に金正日像が並んでいた。これもやはり笑顔である。しかも金日成の方も合わせてメガネをかけた笑顔に変わっていた。

 

 指導者は笑顔で人民と接すべし。代変わりとともに、「笑顔作戦」へ軌道修正し、「先祖返り」をしたのかもしれない。こうした新最高実力者のスタイルが、なんとはなしの街の明るさに影響しているのではないか。

 

 人々は「明るさ」を求める

 

 今回の訪朝でも、一般の人たちと会話することはできなかった。また話ができたとしても、言論の自由のない現状では、素直に話をしてくれるとは限らない。従って、あくまでも印象と推測だが、人々も「明るさ」を求めていたのではないか。

 

 冷戦後の厳しい経済への打撃、「苦難の行軍」「先軍政治」と、人々は20年余にわたって、生活の苦しさと息苦しさを強いられてきた。食糧やモノ不足は相変わらずだが、せめて雰囲気、気分だけでも明るくなりたいという願望にとらわれても不思議ではない。

 

 あくまでも平壌だけを見ての感想であるが、こうした願望が為政者のスタイルの変化をきっかけに、若い女性らの服装など街の雰囲気を変え、何かが変わるという期待を持たせている、と思うのだがどうだろう。

 

 そうした期待と独裁体制がどう折り合いをつけていくのか。これからの見どころだ。          (続く)

アパート前の広場でローラースケートを楽しむ子どもたち=平壌中心地

幸せをもたらすという竜が加えた玉を取ろうとする新婚さん=開城・高麗歴史博物館構内


金親子の笑顔の切手(12年1月発行)

今年発行された「偉人金正日」の笑顔の表紙


街角に立つ金日成主席の大パネル=平壌郊外


更新日:2022年6月24日