歩きながら考えたこと②

~老老介護~

佐藤勝巳

(2011. 7.27)

 

今年の夏もめちゃくちゃ暑い。日が落ちてから歩いているが、独りで歩くと歳には勝てず、どうしてもスピードが落ちる。1週間に1度は池袋の地下道に出向き、女子サッカー「なでしこジャパン」の選手達の不屈の闘志と団結力を思い浮かべながら、歩くスピード調整をしている。彼女達はわれわれに「なせばなる」ことを改めて教えてくれた、素晴らしい選手達であった。

 

畏友田中明さんは、2、3年前から「ボケた(認知症)女房を独り置いて、死ぬわけにはいない」と口癖のように言っていた。しかし、明さんは自分の思いとは裏腹に、2010年12月8日、奥さんより先にあの世に旅立った。

高齢者夫婦のどちらかが具合が悪くなったとき、特に妻が体調を崩したとき、男性がどれほど大変なことになるのか、自分が明さんと同じ立場に立つまでは理解できなかった。明さんの奥さんは、明さんが台所に入るのを最後まで好まなかった、と言うが結果、明さんは栄養失調に陥った。

 

3度3度の食事の問題は、妻が要介護になったとき、高齢者夫婦にとって、大変な問題である。スーパーに行けば独り者を対象とした、少量の惣菜が並んでいる。また、弁当を注文すれば、宅配をしてくれる業者もいる。高齢者支援として弁当代金の一部を自治体が負担しているところもあると聞く。

 

このように台所を使わずに割安の弁当や惣菜で済ますことも可能であるが、来る日も来るも同じか、または似たようなものを食べることで食欲が失われていくことは、避けられない。私は、妻が骨粗鬆症による圧迫骨折で倒れたとき、明さんの話を聞いていたので、妻の退院を機会に、ご飯や味噌汁は自分で作り、「わたみ」の惣菜は、われわれの口に合ったので、1日1回宅配してもらっている。ほうれん草のおひたしなど野菜中心の副食は自分で作って過ごしている。

 

文字にするとこれだけのことであるが、80年間台所で調理などしたことのない男性が、妻の分まで作り、食べ、後片付けをする炊事の仕事は、想像を絶する難儀なことであった。例えば、何本かある包丁をどう使い分けるのか、切れなくなった包丁はどうやって研ぐのか、皿はどういう時にどの皿を使うのか、布巾は1日1回洗濯するのかどうか、など皆目見当がつかない。

 

立ち往生の連続であった。食べ物を作る前にストレスが溜まり、「えいー面倒くさい、やーめた」と何度も思ったか知れない。しかし、やめなかったのはガンなどの生活習慣病防止の野菜を中心とする免疫力を高める食生活を続けたかったからである。

こういう話をすると周囲の友人知人から、「自分の父親は、肉は殆ど食べず、タバコも吸わないのに胃がんで亡くなった」「高蛋白、高脂肪を摂取するようになってから、日本人の寿命は延びている」などと反論が聞かれる。反論しないまでも、多くの人が半信半疑で聞いている。

 

私は、多くの国民が信じてやまない現代医学のガン治療に疑問を抱いている。現代医学は、最も基本的な、なぜガンが発生するのかに、「科学的根拠」を示すことが出来ないでいる。ところが原因が分からないのに、全国の医療機関でガンの手術、抗ガン剤、放射線治療が広く行われている。ガン学会は、手術患者の50%近くが、5年以内に再発・転移して死亡しているという臨床医のデーターを無視・黙殺、コメントしようともしてない。

ガン治療に関しては、私が受けている免疫治療と菜食主義の方が現代医学よりははるかに効果があったと確信しているからだ。

 

抗ガン剤を2年間服用しているにも係わらず、腸に悪性腫瘍が出来たことに再三触れてきたが、食生活を改めてから、血圧は上(うえ)が120台、下(した)が60台に定着して2年半が過ぎている。同じ期間に前立腺の腫瘍マーカーは21から半分以下の9に下がった。また、呼吸困難を引起す無呼吸症候群にも、改善の兆しが現われてきている。

 

話を元に戻すが、金があれば何でも買うことが出来るし、体が動くうちは買って生きていける。動けなくなって介護が必要になったら、片方が介護しなければならない。明さんはどうしていたのか前から気になっていたが、聞いてもどうしようもないと思って、意図的に聞かなかった。明さんと同じ立場に立たされて分かったことは、これは誤った配慮であり、聞くべきであったと今になって深く反省している。

 

妻が退院して来るまで、1カ月近く1人で生活した。健康なら全く問題にならないことが問題になる。テレビ局に責任はないのだが、体調が悪いと民放テレビの音が騒々しくて、耐えられなくなる。NHKはうるさくないが、3・11以後、東北大震災の悲惨な情況を終日放送し続けた。体力が低下、神経が細くなっているときは、悲惨な情況を正視できなくなり、呼吸が浅くなり不安に襲われるので、テレビのスイッチを切ってしまう。

そんなとき、「現代コリア」時代の仲間から電話が来ると、自分がにわかに元気になるのが分かった。しゃべる相手がいてくれたら、孤独や不安から逃れることができる。しかしそうでないときは、独りで不安と動揺に立ち向かわなければならない。多分、鬱病になるのはこんなときであろう、と実感した。

 

私は、気功で習得した深呼吸を静かに深く繰り返すことで、その都度アンバランスに陥った交感神経と副交感神経を正常化、危機を脱した。

明さんも似た状態に陥っていたはずだ。何も出来なくても電話で話をすることが、大切なメンタル介護に繋がることを知ったときは、明さんがこの世を去った後であった。

 

妻は、病気で入院する大分前から、四角い空欄を「四字熟語」で埋めていく、専門の雑誌があり、入院しても腰痛などを忘れるために「四字熟語」の組み合わせに熱中した。その結果、不安やストレスを抱くことがなかったという。それは今も続いているが、その点妻は、私よりはるかに恵まれていたといえる。

 

私が小学校1年生(1940年)のとき、家には曾祖母、祖母、両親、われわれ兄弟と四世代が同居していた。自然に、曾祖母、祖母の看病は、親とわれわれ兄弟がした。やがて祖母たちを看取り、土に埋葬した。「家族の絆」は空気のように存在していた。それから70年余が経過し、東北大震災に関連し「絆」が強調されているが、子供と同居している家庭など例外で、強調しなければならないほど親子関係が希薄になっているからだろう。

 

長い間続いてきた家族の同居(相互扶助)が崩れたのは、子供が親から離れ独立して生活が出来るように日本経済全体が豊かになったからである。核家族化は日本の生産力の発展、豊かさの反映に他ならず、家族単位の相互扶助という、何千年来の人類の歴史に終止符を打つという「革命的大事変」が起きていたのだ。そして「老老介護」という、かつてわれわれが経験したことのない社会現象に直面することになったのだ。

 

また、老老介護だけではなく、妻の親戚には、60代の長男が90代の母親を、別の知人は60代の娘が90代の母親をそれぞれ10年前後介護し続けている。わが国の経済の高度成長は医療の発展を促し、世界最初の少子高齢化社会を生み出し、われわれの一生を終るときの終り方も、大きく様変わりすることになった。この変化が実は、国家財政を破綻させようとしている深刻な問題に直面しているのだ(別の機会に取り上げたいと思っている)。

 

16年前の阪神淡路大震災の頃から、実態の反映であろうが、仮設住宅のなかでの“孤独死“という言葉が使われ出した。介護制度が出来たのは今から11年前の2000年からである。

“孤独死“とは、豊かさが核家族化を招き、人生の最後を看取る人がいない、もしくは減少しつつある情況をいうのである。田中明さんは、娘さんに先立たれ、お孫さんに会うこともできず、自宅で息を引き取った。われわれの世代は、いや全国民が、基本的に“孤独死“に直面しているのではないのか。「豊かさ」がわれわれの人間関係を劇的に変えたということである。今、問われているのは「豊かさ」の質である。

 

尊敬する元・朝鮮日報鮮干煇主筆、元・毎日新聞吉岡忠雄論説委員、そして田中明さんの3人は、心臓麻痺で、突然、私の前から姿を消した。今、私は上述のような社会状況のなかで、やがて人生の最後を迎えようとしている。

 

そんなとき、「なでしこジャパン」は、絶体絶命のピンチに立たされても諦めず、団結して難局に立ち向かい、笑顔で相手チームを圧倒した。あの力の源泉は“不遇からの脱出”である。彼女達が私に深い感動を与えたのは、われわれが失って久しい「団結して戦う不屈の魂」で“孤独死“に負けてはならないと、激励叱咤してくれたことである。

更新日:2022年6月24日