随筆 Kさんの思い出

佐藤勝巳

(2008. 7.22)

 

出会い

 深夜、しつこく鳴り続ける電話のベルで目が覚めた。

 今頃誰だろうと思いながら受話器をとった。

 いきなり「佐藤さん、姪が済州島から密航してきている。助けて欲しい」と、Kさんの泣き声が耳に飛び込んできた。

 Kさんは1910年(明治43年)生まれの済州島出身の朝鮮人1世である。私との出会いは、密入国容疑で警視庁に逮捕されて釈放された直後の1967、8年頃、当時朝鮮問題評論家として有名だった寺尾五郎氏に早稲田大学の弁論部の仲間ということで紹介された。

 Kさんは「東洋のゲーリークーパー」と自称するだけあって、身長180センチ近くの素敵な風貌の初老の紳士であった。Kさんが亡くなるまで確か、私が日本在留の保証人であったように記憶している。

 

ウマが合った

 Kさんの顔を見た瞬間、「この人は市井人ではない、政治に関係している」と直感したが、やっぱり北朝鮮の秘密工作員であった。

 しかし私は、Kさんが放つ朝鮮人特有の雰囲気が好きで、ウマが合った。まもなく二人は特に用事がない限り、毎週日曜日、池袋の決まった喫茶店で会って、朝鮮半島をめぐる政治の話をするようになった。

 Kさんは時折、「日帝下」の朝鮮半島での生活や、渡日して大阪の町工場で働いてお金を貯めて早稲田に入り、大学を卒業したあと、「京城日報」(朝鮮総督府系新聞)の記者として活躍した話、日本の敗戦後、南労党に入党し、工作員として北に行ったとき、金日成をはじめとする党幹部に会ったことなども、生き生きと語ってくれた。

 警視庁に逮捕された際Kさんは、刑事に「日本に何しに来たのか」と糾された。「36年の償いを取り返しに来た」と胸を張って答えたという。「Kさんはいつから朝鮮人民を代表することになったのか……その理屈は無理だと思うが」と言う私に、「喧嘩は気迫だ」とKさんは語気を強めて言った。

 こんな気迫のあるKさんが堪らなく魅力があった。だが、こうした会話の中で、私とは異質なものを感じ、それがいったい何なのかをずっと考え続けた。

 喧嘩と言えば、あるとき池袋の焼肉店で、きっかけは忘れたが、店の料理人は出刃包丁、Kさんはコウモリ傘を持って店内で、睨みあいになった。そのときのKさんの構えは、腰を沈め、体を斜めに構え、傘を木刀のように持ち、料理人を店の隅に追い詰めた。

 店主らしき男が料理人をとめ、私がKさんを止め、流血に至らなかった。Kさん60代半ばころのことである。それまでKさんは、喧嘩の話など1度もしたことがなかったが、あの構えは素人ではない。

 

核で報復

 あるとき、「金日成は核武装を準備していると思うか」と訊く私に、すかさずKさんは「しないはずがないだろう。支配を受けた恨みを核で晴らしたいと必ず考えている」と答えた。一瞬の躊躇いもなく言い放ったKさんの言葉に私は、抑圧された民族の心奥を見た気がした。まさに「目からうろこが落ちる思い」であった。

 また、国際原子力機関に勤務したことのある人からも「中東の、かつて抑圧された民族の指導者たちは、共通して抑圧民族に対して核で報復したいと考えている」という話を聞いて、Kさんが言っていたのと同じだと慄然とした。二人の話から、核拡散の背後には支配・被支配の怨念があることをリアルに認識させられた。

 だが、支配・被支配の関係は基本的には、歴史の不均等発展によって生まれてくるものである。核保有も同じだ。その核心部分が「怨念」だとすれば、これ以上厄介のものはない。

 Kさんとの毎日曜日のデートは、一回2時間として月に8時間、一年で96時間にもなった。それがなんと、Kさんが亡くなるまで35年、3360時間も続けられた。ここで私は朝鮮人の思考様式や、文化・歴史・政治文化の違いを学習したのであった。

 Kさんは、私の朝鮮問題の間違いなく先生の一人であった。Kさんも私も経済的には貧しかったが、一番心が通じ合う実りある時代だったような気がする。

 非合法(地下活動)活動をやっていたKさんは、待ち合わせ時間に遅れることはなかった。5分前には必ず姿を見せた。相手が10分遅れたら、Kさんは即刻、待ち合わせ場所を離れた。

 そんなKさんを長年見てきた私は、しばしば時間を守らない工作員安明進氏に、一抹の不安を抱いていたが、不幸にして、それが現実のものとなった。

 

佐藤が羨ましい

 Kさんの論文の結論は、いつも決まって「米帝国主義が悪い」というものであった。あるとき「Kさん、これだと結論は決まっているのだから考える必要がない」と私が言うと、Kさんは口をとがらせて「悪いのだから悪いとしか言いようがないだろう」と不満をかくさなかった。

 「北朝鮮人民からすれば、米帝国主義より金日成・金正日独裁の方が酷いと思っていると思うが……」

 「そうなのだけど、そこが難しいところなのだな……」

 「共産主義など、とっくに破綻している。早く捨てた方がよいのではないか」

 「そういうことを言える佐藤さんが羨ましい……」

 

箱入りの本

 Kさんは沢山の本を書いている。最初の出版は1970年ごろ、私が出版社を紹介した。そのとき、「佐藤さんから出版社にお願いして箱入りの本を作って欲しい。印税はいらないから」とKさんに言われて、驚いた。

 韓国で「箱入りの本」がどういう意味を持つのか、このころの私は知らなかった。ましてや印税はいらないなどと言われると、「何を馬鹿なことを言うのか。もらうべき物はもらわなくては」と私は気色ばんだ。

 ところが、出来上がった「箱入り」の本を見て、謎が解けた。箱入り本は重々しく見えた。南北ともわれわれとは違って、実質より「体裁」を重んじる傾向が強い。

 Kさんはこの箱入り本を持って同村の人たちや、知人友人に挨拶回りをする。すると誰もが言い合わせたように、「金一封」を差し出すという。

 この話を聞きながら、人間関係がわれわれ日本人とはまるで違うことを知った。これで「印税はいらない」という言葉の意味が漸く分かってきた。

 今はどうなっているか知らないが、1980年代の大阪市生野区猪飼野には、日本人には想像も出来ない「文化」が存在していた。済州島の同じ村出身者が、年に一度総会のような形で集うのだ。その総会では、Kさんは超有名人であり、同村人もKさんを偉い人だと自慢をした。

 この年も(どうしても正確な年が思い出せない)、猪飼野で村の総会が開かれた。総会は親睦が目的であるが、実際は子供たちの結婚相手を見つける場であり、商売の情報交換の広場でもあった。

 この日もKさんは床柱を背中にしてみんなの話を聞き、最後にKさんが内外情勢を一席ぶって終わった。

 

密航の意識なし

 ところが外に出たKさんに、参加者の一人が「先生ところの姪御さんが猪飼野にいますよ」と教えてくれた。驚いたKさんが早速電話をすると、姪は確かにいたが、彼女が密航してきたと知って、私にSOSの電話を深夜にもかかわらずかけてきたのであった。

 私は、法務省入管局に連絡して、大阪入管局に出頭する日を決めた。その前日の夏の暑い日、Kさんと二人で姪御さん夫婦の住む猪飼野に直行した。二人は猪飼野の朝鮮人部落特有の二階建ての長屋の一つで、ヘップサンダルを作っていた。翌日の大阪入管局出頭に備え、打ち合わせというより収監の心配がないことを説明した。

 姪御さんは在日朝鮮人二世と結婚し、小学校入学前の子供が二人いた。二人そろってあどけない顔で昼寝をしていた。

 同じ年頃の男の子が、表からいきなり入ってきて、冷蔵庫の扉を空け、ジュースのようなものを取り出して表に消えた。「親戚の子供さんですか」と聞くと、夫婦は笑いながら「隣の子です」と言った。

 私は、「ああ、猪飼野には済州島の村が息づいている」と咄嗟に思った。私有財産の境界が明確ではない共同体がそこにあった。目の前にいる二人の結婚も、まさに前近代そのものであった。

 姪の夫である青年の母親は済州島の○○村の出身であった。久しぶりに帰国した母親は、同級生に会って話をしているなかで、互いに結婚適齢期の子供がいることが分かり、子供たちの結婚をその場で決めた。

 まもなくして済州島から釜山にわたった姪は、釜山港から密航船に乗って、33名の仲間と日本の何処かに上陸した。大阪までマイクロバスで6時間かかったが、無事に猪飼野にたどり着き、結婚式を挙げたのだという。

 3世紀から6世紀にかけて朝鮮半島から日本にたくさんの人が渡って来たとされている。当時は国境を意識することも、勿論パスポートの必要もなかった。人は自分の意志で自由に移動できた。

 済州島と大阪・猪飼野との間には、そんな古代がまだ生きているかのような臭いがした。正直、驚いた。驚きは更に続いた。

 翌日、密航者の姪御さんとその夫、Kさんと私の4人で大阪入管局に出頭した。Kさんと夫を廊下のベンチに残し、私と彼女は、警備官の取調室に入った。私が出頭に立ち会うのはこれが2度目である。

 氏名、生年月日など形式的な調べが済み、済州島の○○村から来たというと、警備官は立ち上がって、彼女の実家のある村の手書きの地図を持って来て広げた。どの場所かと家の位置を聞いた。彼女はためらわず、実家の位置を指差しただけではなく、地図の誤りも指摘したのである。

 彼女は、聞かれるままにすべてをしゃべった。法律に違反をして取り調べを受けているという意識はまるでなく、実に堂々としていた。

 後で聞くと、廊下で待つKさんと夫は、2人が中に入ったまま3時間も出て来ないので、「このまま収監されるのではないか」と不安におののいていた、と言う。

 壁を挟んで、法律を意識したことのない人と、意識している人とのコントラストが非常に印象的であった。夫は心配して、今後どうなるのか、と私にしきりに尋ねてきた。それなのに姪は、レストランに着くまで鼻歌を歌って歩いていた。

 ともあれ、Kさんの姪御さんは、特別在留を手にすることが出来た。

 

人に語れぬ絆

 Kさんは早稲田大学出身であることに「誇り」を持っていた。「佐藤さんが早稲田大学出身なら、世界一の朝鮮問題専門家になれたのに……」と真面目な顔で残念がっていた。

 「Kさんが早稲田に合格と分かったとき、済州島の村では赤飯を炊いて、提灯行列が行われたのではないですか」と聞くと、「提灯行列はなかったが……」と嬉しそうな顔で答えた。

 植民地下、済州島の海女の息子が宗主国の有名大学に入学したのは、両班の仲間入りが出来たということだろうか。共産主義とも民族主義とも関係ない、素朴な人間的側面がKさんの笑顔にはあった。

 Kさんが亡くなって十数年が経った。Kさんとは別に、月1回25年間会っていた、もう一人の在日朝鮮人Bさんも現役工作員であったが、近年他界した。

 Kさんも、Bさんも、そして私も共産主義に希望を抱いて人生を賭けた。そして無残に打ち砕かれた。

 お互いに口にはしなかったが、Kさん、Bさんと私を結びつけていた絆は、民族を越えて、癒すことの出来ない自分自身に対する苦渋(傷)であったのではないかと思っている。

更新日:2022年6月24日