随筆 遭難

佐藤勝巳

(2008. 5.16)

 

 気が付いたときは、上段のベッドから下段のベッドに落ちていた。丸い窓から海水がものすごい勢いで部屋の中に流れ込んできたのが目に入った。

 瞬間、海の底だと思った。跳ね起きると同時に廊下に向かった。しかし、目の前は真っ白(後で知るのだが蒸気のパイプが破れ蒸気が吹き出していた)で何も見えない。どうやってデッキに出たのか記憶がない。デッキに出た瞬間、右サイドの近くに島が見えた。

 「沈んでいない」と思った。目前の海面に太陽がギラギラ反射して、漁船が絵のように浮かんでいる。音の無い不気味な「静寂」の世界が広がっている。

 デッキには私一人。全く人影がない。何が起きたのか理解できなかった。多分、ベッドを跳ね起きてから、同じ階のデッキに立つまで数秒間の出来事であったと思われる。

  不安でブリッジを見上げた。1等航海士が私に向かって必死に何かを叫んでいるらしいが、全く聞こえない。その時初めて(爆風で)耳が聞こえないことが分かった。

 1等航海士は船のおもて(船首)を指で差しながら、ブレーキを戻すポーズを繰り返していた。

 私は脱兎のごとく、船首に向かって駆けた。錨を止めている大きなブレーキを渾身の力を込めて戻した。轟音を立てて錨が海中に滑り落ちているはずであるが、私の耳には何も聞こえない。だが、確かに鎖が火花を散らしてとび出していくのだけは見えた。

 ブリッジを振り返った。1等航海士が左側のアンカーを指差し、そのブレーキも戻せと合図している。両方の錨が投じられ、船が止まった。

 後で分かるのだが、玄界灘から関門海峡に向かって右側にある「六連(むつれ)灯台」に非常に近い位置であった。近くで漁をしていた漁船が、遭難した2800トンの貨物船第3乾安(けんあん)丸の救助に集まってくるのを見て、 私は、機雷にやられたらしい、とようやく気が付いた。だが、私とブリッジの1等航海士のほかに、だれもいない。

 そのうちエンジンルームから息も絶え絶えの機関員が、後部デッキに這い上がってきた。その彼を抱きかかえ、救助にきた漁船に移したところ、私の両腕には抱きかかえた人間の皮膚がべっとりとへばりついていた。蒸気で全身が火傷し、皮膚が剥がれたのだ。

 火傷した人間を3人ほど漁船に移した。反対側に百数十トンの機帆船(エンジンと帆を使って航行する貨物船)が救助のため接舷した。その頃になってようやく船室から乗組員が這い出してきた。

 私は、負傷者救出のため船室に戻った。右舷の廊下を入ってすぐ左が1等機関士の部屋である。ドアが開いているので飛び込んだ。1等機関士が床に座ってソフォーに顔を埋めている。体を揺すっても応答がない。

 よく観ると、背中一杯にガラスの破片が突き刺さって、大量に出血している。一刻を争うと判断は、チーフエンジニアを肩に担ぎ上げ、救助船まで10メートル程小走りに走った。運んでいる間も、彼の鼻と耳から血が滴り落ちた。

 周辺にいた漁船の話では、「轟音と共に右舷後部に4本の水柱が上がった。そのとき船の煙突より高く舞い上がった人間が見えた」という。

 この話から、4発の機雷は、ほぼ同時に爆発して、3000トンのコメを満載している乾安丸を下から持ち上げたものと推定される。

 1等機関士は窓に背中を向けて立っていた可能性が高い。下から凄まじい圧力で天井に持ち上げられ、頭骸骨を強打したものと思われる。船の窓ガラスは1センチ以上もある厚いものだ。それが破片となって体に突き刺さっている。爆風が尋常でなかったことを物語っている。

 船が機雷に触れた(触雷)瞬間、立っていた人の全ては天井に激突し、頭骸骨骨折で殆どが死亡した。乗組員は40数名いたが、無傷は3名、死亡者20数名、後は全員重軽傷を負った。

 その日私は朝8時に見張りの勤務が終わり、朝食をとり、北九州若松港入港まで1時間もないので作業着のままベッドで仮眠をとっていた。水平に寝ていたのと、戦時標準型の粗製乱造で、ベッドが鉄製でなく木製のため、爆風ですぐバラバラになり、下のベッドに落下した(下のベッドに人が寝ていたかどうか記憶がない)。これが無傷で助かった理由ではなかったかと思われる。

 浸水が進み、デッキが水面に近づいてきた。機帆船の船長が私を指差し、何か大声で叫んで、早く船に乗れと手招きしている。乗り移ろうとした瞬間、ウインチ(貨物を積み降ろしする機械)の間に白いものが目を掠めた。確認に戻ると、血まみれの長身の坂井慶吾1等操舵手が繋ぎの菜っ葉服を着たまま意識を失って倒れている。

 彼を肩に担いで機帆船に乗り移り、機帆船と本船を繋いでいたロープを、腰につけていたバンドナイフで力いっぱい叩き切った。

 機帆船がフルスピードで離れるのと第3乾安丸が、空気を激しく空中に噴き上げながら沈没するのと同時くらいであった。時は1945年(昭和20年)6月、敗戦直前の玄界灘での「遭難」であった。

 重傷の仲間たちを若松市の病院に分散収容したものの、頭骸骨を骨折した者はばたばたと亡くなった。当時、毎日のように触雷で負傷する者が続出し、若松市中の病院は重傷患者で溢れ、死亡者を処理する能力を失っていた。死亡した仲間は、無傷の3名が処理しなければならない。

 しかし棺桶も不足し、何処にどう交渉すればよいのかも分からないという大混乱のなかで、なんとか棺桶を調達した。灯火管制のため暗闇に近い病院の廊下で、昨日まで一緒に仕事をしていた仲間の死体を納棺しているときも、沖合から機雷の爆発音が聞こえてきた。

 人間は、どんなに辛いことでも「忘却」(忘れ去る)することができる。もし、忘れることができなかったら、正常な精神状態は保てない。人間は素晴らしいコントロール装置をもっていると思った。

 戦争の悲惨さを後世に語り継ぐ必要があるという声を聞くたびに、どうやって語り継ぐことが出来るのか、という疑問に捉われる。

 戦争のメカニズムは、個人の戦争体験などで解明できるものでも、「だから戦争に反対」などという単純なものでもない、というのが、私の戦争に対する総括である。

 なぜそう考えたのか。米軍は、広島・長崎に原爆を投下し非戦闘員を殺戮し、目を覆う悲惨な状態を出現させた。また、日本の大都市に焼夷弾の雨を降らせ、大量の非戦闘員を殺戮した。

 米軍が太平洋戦争末期(1945年3月から8月まで)日本近海に爆撃機で投下した機雷総数は、11、277個である。「その内、下関海峡には磁気機雷1、682個、音響機雷1、899個、水圧機雷1、409個である」(『米軍関門海峡+主要港湾機雷投下港湾封鎖作戦 日本飢餓・飢渇作戦の実態』より)。

 関門海峡だけで4、490個投下され、触雷し沈没した商船は関門海峡だけで140隻。損傷した商船は87隻である(出典:『戦史叢書海上護衛戦』)。

 私の乗船していた船も沈没させられた140隻の中の1隻であるが、われわれの遭難と同じ地獄が140回、玄界灘で繰り広げられたのである。非戦闘員の殺戮という点では、大都市爆撃と変わりがない。

 この米軍の作戦を決定した責任者及び実行した指揮官は「人道に反する罪」に当たらないのか。何故に敗戦国に対してのみ「人道に反する罪」が問われ、戦勝国にはそれが問われないのか。

 しかし、昨今のイスラム圏での原理主義者の自爆テロを、戦闘員・非戦闘員のカテゴリーで論ずることは不可能である。不幸にして核戦争になったら、広島・長崎で立証済みの非戦闘員を殺すことが目的であることはいうまでもない。

 戦争を肯定するものは少数であろう。多くの人が戦争を否定している。しかし、現実には地球の何処かで戦争やテロが行われている。

 戦争をしなくとも金正日政権を見るがよい。自らの失政によって、300万人もの国民を餓死させている。周辺国の政治指導者たちは皆その事実を知っている。だが、結果として放置しているではないか。

 政治や戦争のメカニズムが単純でないことは、この一事を以てしても容易に理解できる筈だ。況(いわん)や個人の戦争体験などどんなに語り継いでも無力に近いのではないかと思っている。

 先日(5月13日)の夜、NHKの歌謡コンサートで演歌歌手・氷川きよしが「玄海船歌」を歌っていた。

 ネットの宣伝文句によると「地元・九州の玄海灘をテーマとした楽曲で、海の男を彷彿とさせるどっしりとした仕上がりだ。抜群の歌唱力に加え、スケールの大きな歌声を披露している」とある。

 私にとっての玄界灘は、貨物船のマスト(このへんは水深が浅く沈没した船のマストが海上に現れている)は「墓標」であり、累々たる屍(しかばね)の浮かぶ無念の海である。60数年後の今、歌手・氷川きよしにとっての玄界灘は、「海の男を彷彿させる」のである。

 ――それでいいじゃないか。歴史は変わっている。変わった反応が産まれるのは自然なことなのだ、と思って、私は歌をきいていた。

 しかし、歌唱力があればあるほど、現在、政治に見られる「危うさ」と「軽さ」「頼りなさ」がダブって、「大丈夫か」という不安は消しようがなかった。

 戦争は終わった。自宅待機していた私に、会社から春川丸(1800トン)への乗船命令が届いたのは敗戦の翌月、9月上旬であった。

 神戸港から北九州若松港に向かっての瀬戸内海航行中、夜になり貨物船とすれ違った。

 戦争中は、灯火管制で電灯の明かりは外に漏れないように黒い布で覆われていた。

 すれちがった船の窓から明かりが漏れていた。その明かりの柔らかさを見て「これが平和だ」と思った瞬間、体が震えてきた。私は、このとき初めて戦争の終わったことをこの目で知った。

 私の戦争終結は天皇陛下の詔勅ではなく「船の灯火」であった。心底「俺は生きていたのだ」と自己の生をこのときリアルに確認できた。

 言葉を変えていえば、戦争中潜在意識として、いつ死ぬか分からない死の恐怖と隣り合わせに生きてきたことからの開放であった。

 私の戦後はこうして始まった。

更新日:2022年6月24日