国交正常化交渉、核開発――元外交官の北朝鮮外交「証言」

(2022.6.6)田中良和

 

 1990年から10数年にわたって、対北朝鮮外交に携わった山本栄二さんが著書『北朝鮮外交回顧録』(ちくま新書)を最近、出版した。山本さんは1990年、外務省北東アジア課首席事務官として、自民党の金丸信副総裁らの訪朝に随行したのを始め、1993年から94年の第一次北朝鮮核危機の際には、国連代表部の一等書記官として安全保障理事会をフォロー、さらに小泉純一郎首相の二度にわたる訪朝(2002年、04年)ではそれぞれ、先遣隊の副本部長、本部長として平壌を訪れた。日朝国交正常化交渉と北朝鮮の核開発をめぐる交渉を第一線で担った元外交官である。本書で30余年ぶり明らかにされる「真実」は、ウクライナ戦争で揺れる日本外交にとっても貴重な証言である。

 1989年11月にベルリンの壁が崩壊、90年10月に東西ドイツが統一、12月には米ソ首脳が冷戦終結を宣言、91年9月には南北朝鮮の国連同時加盟が実現、12月にはソ連が消滅した。世界の冷戦集結の波が東アジアにも大きく押し寄せてきたころである。

 90年9月、自民党の金丸副総裁と、社会党の田辺誠副委員長をそれぞれ団長とする訪朝団が北朝鮮を訪問、朝鮮労働党との間で「三党共同宣言」を発表した。宣言には、日朝国交正常化交渉の開始や北朝鮮に対する日本の「戦後45年の償い」が盛り込まれていた。特に「戦後45年の償い」は、自民党内で反発が出るなど大きな政治問題になった。日朝国交正常化交渉は北京での3回の予備会談を経て第1回が平壌、第2回は東京で開かれた。

 1991年3月11日、東京で開かれた第2回日朝国交正常化交渉の冒頭取材を私は 現場で担当した。日本側代表は、北東アジア課長も務めた中平立・日朝国交正常化交渉担当大使、北朝鮮側団長は田仁徹外務省次官だった。外務省会議室で長いテーブルを挟んで向かい合った両国代表団の周囲を動き回りながら、両代表の発言に耳を傾けてメモした記憶がある。「実際、この頃が日朝交渉の歴史の中で最も雰囲気のよい、言わば蜜月期であったような気がする」と著者は振り返る。

 この時期、日本国内で「拉致問題」は「李恩恵」の消息確認問題はあったものの、日朝交渉の主要な議題ではなかった。論議されたのは、北朝鮮の核開発疑惑だった。日本側は核不拡散条約(NPT)加盟国である北朝鮮に対して、国際原子力機関(IAEA)と核保障協定を締結して核関連施設の査察を受けるよう求めた。著者は「当時はいわゆる『拉致事件』に関する情報は極めて限られていたし、日本国内では『李恩恵』問題を除き、政官界、言論界を含め、この問題に対する関心は低かった」と正確に書いている。

 すでに日朝正常化交渉開始から30年以上の年月が経過しているが、山本さんは当時の事実を丹念に確認し、「歴史の証言」として記述している。

 一方、韓国では、民主化で誕生した盧泰愚政権が、中国やソ連など社会主義諸国との国交樹立を目指す「北方政策」を推進していた。しかし、日朝国交正常化交渉には必ずしも好意的、寛容ではなかったと著者は指摘する。これを示す様々なエピソードを伝える筆致は生き生きとしている。

 また、「李恩恵」問題をきっかけに中断した日朝交渉を打開するために著者が1991年7月に平壌を秘密裏に訪問したという事実は初めて明らかにされたのではなかろうか。平壌での金容淳・朝鮮労働党書記、宋日昊・同課長(いずれも当時)、外務省の担当局長とのやりとりは北側の雰囲気を彷彿とさせている。

 日朝交渉はその後、北京を舞台に再開。核問題も北朝鮮は92年1月にIAEAとの保障措置協定に調印して4月に批准、核査察が始まった。しかし、北朝鮮の日朝正常化に対する関心は急速に冷めて行った。正常化交渉は92年11月、北京で開かれた第8回交渉で決裂する。その後、北朝鮮は対米関係改善へ外交の力点を移す。日本国内でも、東京佐川急便による献金5億円事件を受けた金丸自民党副総裁の辞任、田辺誠社会党委員長の辞任など、対北国交正常化を支える国内の政治基盤の変化があった。この辺の記述はシャープで、著者の冷静な目をうかがわせる。

 北朝鮮をめぐる第一次核危機は93年3月、北朝鮮がNPTからの脱退を表明したのをきっかけに起きた。米国は事態打開のため北朝鮮とニューヨークで初の高官協議を開いた。このとき、著者はニューヨークの国連代表部の一等書記官として安全保障理事会の動きを追っていたが、この騒ぎに巻き込まれる。米朝交渉が続けられたジュネーブにも派遣された。

 94年5月、北朝鮮はIAEA監視官の立ち会いなしに、実験用の5千キロワットの原子炉から約8千本の使用済み核燃料棒を取り出し、事態は一気に緊迫化する。カーター元米大統領が急遽、訪朝して金日成主席と会談、危機はいったん収拾された。その直後、金日成主席が急逝し、米朝交渉は暗礁に乗り上げた。

 私はこの時期、たまたま米コロンビア大学に派遣留学中で、連日大きく伝えられるCNNテレビ、ニューヨーク・タイムズ、ウォールストリート・ジャーナルなどの報道を手に汗握る思いで見守っていた。

 米朝交渉は94年10月、「枠組み合意」に調印する。その内容は、著者が適切に要約しているように、「一言でいうと、軽水炉を供与するまでは米国が重油を供給し、その間北朝鮮は核施設を凍結し、やがて解体するという取り組みである」。

 著者はその後も、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)担当企画官として、KEDOの立ち上げなどに関わる。最大の焦点となった軽水炉の経費分担では、欧州共同体(EU)のKEDO加盟や各国のやりとりがビビッドに描かれている。しかし、軽水炉建設事業は2002年10月、ブッシュ米政権の下で北朝鮮のウラン高濃縮計画が発覚して終了に追い込まれる。第二次核危機の始まりである。

 北朝鮮は米国との二国間交渉を求めたが、ブッシュ政権は多国間交渉へ動く。03年4月に米中朝の三者協議、同年8月には南北朝鮮に米中日ロが加わった第一回六者協議が北京で開かれる。同年7~9月に開かれた第四回協議で「共同声明」を発表。北朝鮮は「すべての核兵器および既存の核計画を放棄すること、ならびに、核兵器不拡散条約およびIAEA保障措置に早期に復帰すること」を約束した。同年11月に開かれた第五回六者協議の時に、米国はマカオにあるバンコ・デルタ・アジア(BDA)を資金洗浄懸念のある金融機関と指定して北朝鮮関連口座を凍結する。この金融制裁は北朝鮮を経済的に追い詰めた。

 だが、06年10月3日、北朝鮮は初の核実験の実施を宣言、同9日、実行した。米国は07年にBDAに対する制裁、08年には北朝鮮のテロ支援国家指定を相次いで解除した。著者はブッシュ政権の一貫性のなさを批判、「すべてが拙速であった」という。六者協議は再開されたものの大きな進展がないまま終了した。

 一方、日本国内では1970年代後半に日本海沿岸などで日本人が相次いで行方不明になった「拉致問題」が次第に大きな問題になった。著者は当初、拉致問題について国民の関心が集まるようになったのは、「97年初めに実名で横田めぐみさんの拉致疑惑が報じられるようになってからである」と記している。日朝国交正常化交渉は2000年4月、約7年半ぶりに再開され、02年9月の小泉純一郎首相の訪朝につながっていく。

 著者は02年9月、二度目のニューヨーク勤務中、外務省から呼び出しを受け、小泉訪朝の先遣隊のひとりとして平壌に飛んだ。04年5月の第二次小泉訪朝の際にも外務省からの招集で先遣隊として訪朝する。二度にわたる小泉訪朝の結果、5人の拉致被害者と8人の家族の帰国が実現したものの、残りの被害者らの安否・帰国のめどは全く立っていない。

 米トランプ政権で2018~19年にかけて二度にわたる米朝首脳会談が開かれたものの核問題の解決は失敗に終わった。北朝鮮は今年に入って、すでにミサイル発射実験を17回繰り返し(2022年5月25日現在)、インド太平洋地域の緊張は高まっている。

 著者は終章で、1990年から20年近くにわたる対北朝鮮政策を振り返りながら今後、北朝鮮との交渉をどう進めていけばよいのか七つの教訓を探っている。だが、日本政府が解決を目指してきた「拉致」「核」「ミサイル」の各問題を打開する決め手はないように見える。

 本書は、日朝国交正常化交渉と北朝鮮の核危機がほぼ、交互に登場する構成で読みやすい。筆者は最後に「北朝鮮外交は命がけである」との感想を残している。

 

更新日:2022年6月24日