あの騒動はなにか……キムヒョンヒ来日(下)

対談 洪熒・佐藤勝巳

(2010. 7.30)

 

重視すべきは安全と生命だ

 日本社会の一部に、重大な犯罪で有罪を言い渡された外国人の入国を日本の入管法は禁じているのに、元テロリスト・キムヒョンヒの入国を認めたのはけしからんと言う人々もいます。また、キムヒョンヒが日本の旅券法に違反したとの指摘もあります。

 

佐藤 「救う会」の幾つかの組織も、入国許可はけしからんと声明を出していますね。

 

 そういう考え方はおかしいと思います。キムヒョンヒの証言で、日本人・田口八重子氏が拉致されたことが判明、日本人拉致が公然化しました。キムヒョンヒの役割の大きさは誰も否定できないはずです。その彼女が、拉致問題解決のために日本政府が入国を必要とする場合は、今後もありうることですから、特例として閣議決定でもすればよいのではないでしょうか。

 どこの国でも、国家の安全と国民の生命を守ることが最優先です。なぜ形式論で入管法がことさら強調されるのか。主客が転倒している馬鹿げた認識だと思います。

 

佐藤 入管法は、法務大臣に外国人の入国と在留に対して強大な権限を与えています。昔、外国人を「煮て食おうと焼いて食おうと勝手だ」と発言して物議をかもした役人がいましたが、その権限は今も変わりません。彼女だけではなく、拉致解決の過程で、今後も色々の場面が予測されます。法務大臣が当該の人間を入国させることが国益にかなう、と判断すれば、与えられた権限を行使すればよいのです(法務省はこういう事案は事前に首相官邸と打ち合わせをします)。

 前回の対談でホンさんが指摘したように、キムヒョンヒが、金正日の悪魔の正体を暴露するための入国なら、拉致に対する怒りを国民が共有化できるのですから、法務大臣は裁量権を行使し、入国を認めるべきです。こういうときに入管法違反云々など一般論を主張するのは、拉致の解決を真剣に考えている人達とは思われません。

 ただし、今回のように大ブルジョワジーの別荘で手料理を作り会食するために、法務大臣の裁量権行使などナンセンスのー言につきます。

 

洪 そもそも、全体主義や独裁体制による無差別拉致との戦いは、刑事事件ではなく、本質的にはテロリズムとの戦争なのです。自由民主主義や法治主義そのものを否定する「国家権力」や集団に対しては、偏狭な法治主義では対応できません。現に今までテロの首魁(しゅかい)・金正日体制との交渉・協商に成功した例があったでしょうか。日本の拉致救出がいつまでたっても実現できないのが典型例です。

 こういう現実から教訓を学ばず、一般の誘拐・拉致事件を取り扱うような刑事裁判的な感覚で物事を考えると、今後も金正日に勝てません。

 

米・中の熾烈な戦い

佐藤 日本が拉致についてのバカ騒ぎをしているとき、東アジアでは大変なことが起きています。7月25日から、米第七艦隊の空母ジョージ・ワシントンが日本海で韓米合同軍事演習を始めました。元々この軍事演習は西の海、黄海でやることになっていたものですが、中国の激しい挑戦で、演習場が東の海、日本海に移ったという経緯があります。ホンさんはこの事実をどう見ていますか。

 

 中国は北の哨戒艦「天安撃沈事態」を契機に、東アジアは俺の縄張りだ、アメリカに勝手なことはさせない、と宣言しました。中国側の政策(戦略)決定のプロセスはよく分かりませんが、非常に唐突な動きです。国連安保理を強引な外交で「無力化」すると同時に、黄海での空母ジョージ・ワシントンの軍事演習は許さないというだけではなく、中国自身が、先に軍事演習(示威行動)を行ないました。アメリカに対する公然たる挑戦を始めたのです。この地域の新しいルールを自分が決めるという覇権行動です。

 アメリカはこの動きに対して、相当慎重に検討した形跡が見られます。その結果、空母ジョージ・ワシントンの訓練を東に変えました。アメリカの対応を戦略的・戦術的にどう捉えるべきかは、検討の時間が必要でしょう。

 

米200口座をピンポイントで閉鎖

佐藤 その見極めはなかなか難しいところですね。今アメリカが北に対して用意している制裁は、金正日を始めとする高官や、マネーロンダリングの疑いがある200口座をピンポイントで閉鎖させることです。例えばアメリカは、ある国のA銀行のB口座が、北朝鮮の麻薬取引に使用されている疑いがあると判断した場合、当該国に通告、口座閉鎖を要請します。銀行が断れば、非友好的銀行としてアメリカの銀行に取引停止をさせる。バンコ・デルタ・アジアにやった制裁と逆のやり方です。

 このやり方には、他の預金者に迷惑をかけず、北を締め上げることが出来るという利点があり、しかも中国は手も足も出ません。さすが「アメリカ帝国主義」の面目躍如と言う感じです。

 

 アメリカの対応は当然です。平壌側は色んな面でいわゆる「レッドライン」をはるかに越えました。とにかく国連安保理の議長声明は、誰が韓国哨戒艦を撃沈したかも記されていない、文章としても形をなしていないひどいものです。中国の「金正日庇護」でこういうことになったのですが、中国が国連安保理の機能を低下させていますから、アメリカは、独自の行動を選択せざるを得なくなります。もちろん、アメリカの金正日への制裁は、安保理決議1718号と1874号を実行するものです。ただ、私なら制裁の予定・計画を予め公開はしません。

 

金正日中国へ脅迫状

佐藤 中国には、空母ジョージ・ワシントンを黄海に入れて米韓の軍事演習を許したら、面子(メンツ)がつぶれされてしまう上、中国の軍事事情が透けて見えてしまい、金正日政権にも打撃と動揺を与えるという危機感があったのではないのか、と思われます。あのヒステリックな抗議の仕方には、異常なものを感じました。

 他方、北の国防委員会は韓米合同演習に対して7月24日の声明で、3回目の核実験を示唆しました。現在の中朝関係を見ていると、この声明は援助などをむしり取るための中国に対する「脅迫状」ではないかと思います。

 

チャウシェスク崩壊前と酷似

佐藤 中国は、金正日政権は崩壊の危機に面していると思っているのではないか。現在の金正日政権は、ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊の直前と似ています。今までこの政権は、国民の目、口、耳を塞いで奴隷化して支配してきましたが、脱北した人達が、積極的にモノ、携帯電話、放送(ラジオ)、風船、DVDなどを送り続けていることで、北の住民は世界の情報を知り出しました。いうなれば初めて南から北に、攻撃がかけられだしたことです。

 北の住民が金正日などに頼らなくても生きて行けると確信を持ったのは、昨年の「貨幣改革」直後の洪・佐藤の対談(2010年1月15日付「自滅する金正日を助けるな(上)」参照)で触れているように、この15年間、モノの価格を〝市場〟が決定してきたという歴史があるからです。

 北によく行っている在日朝鮮人は、後継者問題をめぐる内ゲバが公然化するのは時間の問題と言っています。これらの情報を総合すると、米韓の軍事演習などで、金正日政権が倒されるか、あるいは3度目の核実験に走るかを、中国が危惧しているような気がしてなりません。

 

拉致解決の政策を示せ

佐藤 米・中はしのぎを削って熾烈な「戦争」を行なっているのに、キムヒョンヒを日本に呼んでのあのバカ騒ぎは、民主党政権がいかに極東情勢に無知であり、自国の安全保障に無責任であるかを天下にさらしました。

 詐欺的な「6者協議」が破綻しました今、拉致対策本部がやらなければならないことは、新しい拉致解決の道を模索することです。また北が核実験を口にしています、核弾頭ミサイルを持つことを前提とした安保の具体的な対策が急がれます。ねじれ国会で目は内向きになりがちですが、安全保障は内政以上に大切です。政治主導で国民の誰にでも分かる拉致と核解決の戦略を示すことです。

 

問題は中国

 気づいて見たら、北の問題は中国の問題になっています。問題は中国です。中国の言動は目に余ります。韓国紙は最近、韓国軍が射程1500キロの巡航ミサイルを配置したと報道しました。すると中国はアメリカが韓国に関連技術を提供したと不満を言ったというのですが、その中国自身は1980年代から核ミサイルを主に平壌などを通じて拡散させてきました。

 国際的に「影響力」を増している中国が、今度の「天安撃沈事件」に見られるように、普遍的価値や常識、科学的事実までを無視し、歪(ゆが)んだ大国主義・覇権主義へと走っています。さらに中国があくまでも野蛮な独裁体制の肩を持つ限り、拉致問題の解決は期待できません。中国共産党は自国民の人権すら尊重しません。「首領の唯一独裁」という悪を中国の都合のいいように利用することばかり考えています。

 このような現実を直視した上で、安保戦略・同盟戦略を冷静に考えねばならないと思います。

更新日:2022年6月24日