レーダー 第8回

  ―李健熙会長の心の師は徳川家康?―

 

 前回のレーダーでは、張相秀・片山修著『サムスン・クライシス』文芸春秋、2015年1月、を取り上げ、二人の真摯な対談を通して見たサムスン電子の強みと弱み、さらに直面している問題点等について検討した。対談は、敏腕の日本人経済ジャーナリストがサムスン経済研究所の専務(人事組織室長)にまで昇進した人物を相手にサムスンの経営戦略の内実を厳しく追究したもので、これまで日本で刊行された数多くのサムスン解説本の中でも、最も質の高い内容となっている。

それと共に、本書は評者にとって個人的な関心を刺激してくれる本でもあった。評者はかねてから、李健熙会長が徳川家康に極めて強い関心を持っているのではないかと思っていた。今回本書の精読を通して、李会長にとって徳川家康が企業経営上の大きな指針になっているのに留まらず、人生の心の師(メンター)的役割をして来たのではないかという思いを強くした。このことは、サムスンの躍進が、単なる二番手商法の結果ではなく、日本人の経営者には失われた戦国時代の武将のエトス(アニマル・スピリットと言ってもよい)を李健熙が体現した結果でもあったということを意味しているのではないか。この点が今回のエッセーのポイントでもある。

評者の個人的な関心の由来について、以下簡単に紹介しておきたい。評者は地域研究者の端くれとして、特に韓国のダイナミックな経済発展に関心を持ち、その方面の研究にエネルギーを注いで来た。当然サムスンの発展にも強い関心があり、また李健熙会長が同い年(李会長は1942年1月9日生まれ)であり、しかも同じ大学で学んだということもあって親近感を持ち、李会長の動静をフォローしていた。

そんな評者の李健熙会長に対する関心が一層深まったのは、今から3年半前(2011年11月)に李慶植著『李健熙―サムスンの孤独な帝王―』東洋経済新報社、11年5月を読んだことにある。この本で、李健熙会長の日本滞在が大学時代の4年間だけでなく、それ以前小学校5年生から中学校1年生の3年間にもあったということを知り、驚きでもあった。今回その本を一部読み直し、李会長の徳川家康への思い入れが評者が想像していた以上に強いことが分かった。

同書によると、「日本語も分からず、友人もできなかった」健熙少年が持った関心の一つに映画があった。「とてつもない数の映画を見た。少年・健熙が日本で過ごした三年間で見た映画の数を合わせると、1200~1300本になるという。…このときの経験は、健熙にとって重要な訓練だった。…これは前に触れた『人間研究』延長戦でもある(注1)」。        李健熙が日本で見た映画の数は、大変なものである。一か月に平均にすると、33から36本の映画を見たことになる。しかもその映画の中身については、「私は日本にいたとき、日本の歴史を知るために45分の時代劇を45本、数十回も見た。徳川家康は30回以上、豊臣秀吉は10回以上、織田信長は5、6回見た」と発言し、誰よりも日本の歴史をよく知っていると公言したほどだ(注2)。

この事実も評者にとっては驚きであった。著者李慶植は「日本の戦国時代を揺るがした三人の英雄のうち誰が好きかで、その好みは分かれる。健熙は誰を好み、誰を自分のモデルとするだろうか。それは、家康ではないか(注3)」と推測する。そしてその根拠として「(健熙は)乳飲み子のときに両親と別れて祖母の家で三年間、人質としてとらえられた。小学五年生を終えた後、中学一年生まで日本で三年間、また人質となった。大学でも日本と米国で過ごして時が来るのを待った。さらに再び一年を米国で待ち、帰国してからは二人の兄が、父の下であったとはいえ、グループ経営の一線で指揮する姿を見つめながら、もう一度待った。そうして果実が熟し、自ずと木から落ちてくるのをじっと待ち続けた自分の姿が、(天下取りに…評者注)48年待ち続けた家康と似ていると考えたのではないか(注4)」と述べている。祖母の下に3年、少年期の3年を“人質”と見做すのは言い過ぎではないかと思うが、孤独な生活を李健熙が強いられたという点では、家康と共通していたとも言えよう。

上述のような李健熙の少年期と青年期は日本人の目から見て特異な点があるかも知れないが、評者にとっては特に多感な少年期に日本の戦国時代を扱った映画に李が心酔していたこと、徳川家康の映画を見る回数が多いことから窺えるように、李が徳川家康の生き様に強く魅せられていたことは想像に難くない。そのため李はその後の多難な人生行路で、折に触れて「徳川家康ならどう考え、どう対処しただろうか」を反芻していたのではなかろうか。その結果、李健熙は戦国武将的エトスを持った経営者として成長していったのではないか、即ち、日本企業を徹底的にベンチマーキングをし、必要ならライバル企業から技術者を金に糸目をつけずスカウトし競争を制していく、という荒っぽいやり方を追求していったのではないか。

今回『サムスン・クライシス』の書評を書きながら、同書を読み直していた折、面白い新聞記事を見つけた。産経新聞掲載の企業広告の中に、複数の会社が自社の経営哲学を紹介するものがあったが、その中で徳川家康の人生訓を紹介する会社があった。その人生訓は、以下の通りである。

 「我未だ志を得ざるとき、忍耐の二字を守れり。我正に志を得んとするとき、大胆不敵の四字を守れり。我やがて志を得たる後は、油断大敵の四字を守れり」

 この徳川家康の人生訓を見た折の評者の第一印象は、「正に李健熙の生き方だ」というものであった。評者には徳川家康と李健熙の生涯がオーバーラップして見えたのである。

 李健熙は1987年11月、父李秉喆の死去によりサムスングループの会長に就任した。事業の継承は二代目の李にとって“針の筵”に座るようなものであった。創業者と違い、経験も実績もなかったため、幹部から疑いの目で見られた。その結果、「創業者で父の李秉喆氏の側近集団との間に確執があり、大変苦労したといわれています。創業者の家臣のような人たちの中に、李健熙の足を引っ張る人がいたんです(注5)」と張相秀は証言する。張相秀はさらに李健熙が名実ともにヘゲモニーを確立するのに五年以上もかかったと証言している(注6)。

 この間の李健熙会長の状況を証言する貴重な記録があるので紹介しておきたい。証言者は日本鋼管でCADシステム開発に携わり、その後サムスンにスカウトされ、サムスンのCADシステム開発に携わった吉川良三氏である。以下多少長くなるが、紹介したい。

 「私が李健熙会長にはじめて会ったのは1987年で、次に再会したのが1993年でした。…これは、IMF危機を迎える前に『フランクフルト宣言』にもとづく改革を進めた頃にあたります。初めて会ったときと比べれば、別人のような顔つきになっていたことには驚かされました。

初対面のときにはオーナーの風格が漂う鷹揚な人でしたが、再会したときには顔じゅうに吹き出物が出ていて憔悴しきったようになっていたのです。

その当時、李健熙会長は五十代に入ったばかりでしたが、七十過ぎの老人のようにも見えました。それは少しも大げさな表現ではありません。あとから秘書に聞いてみると、三か月間ほとんど寝てないとのことだったので、その疲れが顔に出ていてもおかしくはなかったのです。

日本の経営者がこんな姿になるまで会社のことを考え、時間を費やすことはまずないはずです。李健熙会長はただの経営者ではなく、韓国トップクラスの財閥のオーナーだったのですから、なおさら信じ難いことでした(注7)」。

この時期は、創業者である父の死による会長職の継承(1987年)から「新経営宣言」(93年)による権力の確立に至る間の時期の状況である。徳川家康の人生訓では「我未だ志を得ざるとき、忍耐の二字を守れり」の時期に該当しよう。

権力を確立した93年以降は、半導体事業への果敢な投資、日本人技術者の大量スカウト等により、「半導体生産において瞬く間に世界一の座に就いた。サムスンは、半導体事業での勝ちパターンを、他の事業でも踏襲する。テレビ事業でも、半導体と同様、日本企業をしっかりベンチマーキングしたうえで、事業戦略を立てた。

まずは、液晶パネル事業から攻めた。…2000年以降、日系の液晶パネルメーカーが厳しい状況に置かれ、投資を縮小させたのを横目で見ながら、継続的な大型投資を進めた。競争相手が手を緩めたすきに投資を加速するのは、サムスンの常套手段といえる。

液晶パネル市場が回復したとき、サムスンは高品質、高歩留まりを実現できる最新鋭設備を手に入れていた。

部材の調達体制を整えたサムスンは、02年、本格的に液晶テレビ市場に参入した。03年には、湯井に液晶パネル工場を建設するとともに、関連メーカーを集約して、液晶テレビの一貫生産を行う一大集積地をつくり上げた。04年、サムスンは液晶パネル市場を制した。半導体と同じ構図である(注8)。

この時期は、正にサムスンの快進撃の時期である。徳川家康の人生訓では、「我正に志を得んとするとき、大胆不敵の四字を守れり」の時期に相当しよう。李は正に「大胆不敵」な企業経営を展開したのである。

最後に「油断大敵」の時期、即ち「我やがて志を得たる後は、油断大敵の四字を守れり」の時期はいつから始まったのであろうか。評者は2007年1月の全経聯(注9)での会合の折記者団に語った「サンドウィッチ論」が嚆矢とも言うべきであろうと考える。この年はどういう訳か「慎重居士」で鳴る李会長が評者が把握しただけでも3回の公的発言をしていて、注目された。これらの主張のポイントは「韓国は日本と中国に挟まれたサンドウィッチ状況にあり、これを克服していかなければ苦労を沢山することになる。それが韓半島の地政学的な位置である。そのため画一的な教育政策を改め、人材を天才化させ、規制緩和を攻撃的に実施する等、実践していく必要がある」というものであった。

 これらの発言の背景として見逃せないのが、韓国経済の「ドル箱」と認識されていた韓国の対中貿易黒字が2007年から減り始めていたことがある。問題は対中貿易黒字の減少が一時的な現象ではなく、構造的な現象であると受け止められていたことである。即ち、中国の部品・素材の国産代替化の進展で、韓国の対中黒字は今後減りこそすれ、増えていくことはないとの見方が強まっていたのである(注10)。  

 中国企業がものすごい勢いで成長していることを実感している李健熙会長としては、中国経済の追い上げが急である状況を放置している訳にはいかなかった。それが「サンドウィッチ論」の背景であり、「サムスンが世界一の電機メーカーになったあとも、『今後10年以内にサムスンを代表する事業や製品は大部分なくなる』といって、社員の危機感を煽り続けてきた(注11)」来た背景でもあった。正に「油断大敵」の実践である。

 それと同時に李健熙会長が心がけていることは、自分がいなくなった後もサムスングループがたとえ凡庸な後継者であっても企業が100年も200年も存続できるようにしたいという思いであったろう。そのため「自分が不在であってもグループの経営が滞りなく進むよう集団経営のシステムを築き上げた(注12)」。また権力移行期に自分が経験したような苦労を息子にさせないため、「会長就任以来、人事権を厳しく行使して、足を引っ張る人が出てこないようなシステムを構築してきた(注13)」。

また長期政権への地盤固めとして参考にしていると思われるのが、徳川家康が残した幕藩体制であろう。後継者が15代も続いた幕藩体制には、様々な知恵が詰まっているものと思われる。「深謀遠慮」型経営者である李健熙は、この問題についてかなり以前から対応を考えており、例えば「財産分割や相続税の対策は、すでに終わっているはずです(注14)」と張相秀は証言する。張相秀がサムスン経営の特徴について挙げている6点も、企業の長期存続との関連で注目する必要があろう。それらを列挙すると、①語録(会長)経営、②グローバル長期経営、③グループ最適経営、④将軍経営、⑤両立志向経営、⑥創造経営である(注15)」。

この内、徳川家康と関連があると思われる④の将軍経営については、以下のように記述されている。「江戸時代の統治システムが明確に決められていた。将軍はグループのオーナー経営者(創業家会長)、大名は各会社の専門経営者(雇われ社長、COO)といえる。(将軍経営は…評者追加)絶対的な権力を持つオーナー会長と、限定的な権力と多くの経営責任を背負っている多数のサラリーマン社長で成り立っている(注16)」。

 サムスンの経営の実態は、正に「将軍経営」である。他の特徴と徳川幕藩体制との関連性については、深い関連性が考えられるが、現在の評者には論ずる力がない。他日を期したいと思う。

 以上、李健熙サムスン会長が日本の戦国武将的エトスを持った経営者であり、それがサムスン躍進の原動力ではなかったのかと言うのがこのエッセーのポイントでもある。この点について、今後とも追究していきたいと思う。

 

<注>

1.      李慶植『李健熙―サムスンの孤独な帝王―』東洋経済新報社、2011年5月。             p46。

2.      1と同じ。p97。

3.      1と同じ。p100~101。

4.      3と同じ。

5.      張相秀・片山修『サムスン・クライシス』文芸春秋、2015年1月、p25。

6.      『サムスン・クライシス』p26。

7.      吉川良三『サムスンの決定はなぜ世界一速いのか』角川oneテーマ21、201     1年4月、p107~108。

8.      『サムスン・クライシス』p100。

9.      全経聯(全国経済人聯合会)は、韓国版経団連である。

10.   拙稿「中国依存の高度成長に陰り」、『東洋経済日報』2008年5月23日。

11.   『サムスン・クライシス』p88。

12.   『サムスン・クライシス』p26。

13.   『サムスン・クライシス』p25。

14.   『サムスン・クライシス』p23。

15.   『サムスン・クライシス』p209~210。

16.   『サムスン・クライシス』p210。

更新日:2022年6月24日