レーダー  第3回

―政治家・朴槿恵再考―

 (2014. 7. 4)

 今回のレーダーでは、朴槿恵大統領を改めて俎上に載せ、色々と考えてみたい。2012年12月の大統領選挙で、朴槿恵候補が勝利した時、韓国に関心のある日本人の多くはほっとし、今後の日韓関係はよりスムーズに明るくなっていくのではないかと期待もしたのではなかろうか。筆者もそんな日本人の一人であった。しかし朴大統領が打ち出してきた対日政策は理解も、ましてや共感も全くしにくいものであった。自分自身の不明を恥ずるしかなかった。政治家・朴槿恵の人物研究の必要性に改めて気づかされた。

 その意味で、筆者がかねてから注目していたのが7年前に出版されていた朴槿恵の自叙伝(邦訳『絶望は私を鍛え、希望は私を動かす』、晩声社、2012年2月刊)である。筆者は12年の3月に翻訳本で『自叙伝』を一度読んではいる。この時の印象は良く、「彼女は育ちが良く、大丈夫だろう」という、楽天的なものであった。問題意識が弱かったせいでもあろう。

 今回は、特に二つの点に関心を絞って『自叙伝』を読み直してみた。第一が、朴槿恵の反日的行動の原因はどこにあるのかという点、第二はどうして彼女は「不通(人間関係がぎくしゃくしている)」なのか、である。

 二つの疑問を考察するに当たり、なぜ朴槿恵が55歳で『自叙伝』を書くに至ったのか、その動機・背景をみると同時に、本書の構成・内容ついても紹介しておきたい。

朴槿恵は1952年2月4日、「民族中興の祖」と言われる朴正熙を父に、陸英修を母に大邱で生まれた。現在62歳である。『自叙伝』を書くに至った直接的なきっかけは、06年5月にあった地方議会選挙での応援演説で自分自身がテロに遭い、危うく一命を取り留めるという過酷な体験をしたことにある。「この事件を経験して、これから残った人生は天が私に下さったおまけのようなものだと考えるようになった。…そして生死の境を越えて、ふと私はこれまでの人生を整理したい気持ちになった。新しい人生の出発点に立って過ぎた日を淡々と記録してみたくなった」(p14)としている。22歳で母陸英修を文世光事件で亡くし、ファーストレディー役で父朴正熙大統領を補佐し、5年後にはその父も部下の凶弾に倒れ、さらに27年後には本人自身がテロに遭うという稀有な体験をした人物ならではの感慨でもあったろう。

次に、『自叙伝』の各章の内容と興味深い点を簡単に紹介しておきたい。

第一章「庭の広い家の子どもたち」では、青瓦台(大統領府)での家族水入らずの平和で仲睦ましい、そして質素な生活ぶりが紹介されている。朴槿恵は両親について「お堅い軍人のイメージと違って、父は家族に対して優しい人だった。時間があると詩を書いて母に贈り、絵を描くのも楽しんだ」、「ふだん母は優しい人だが、間違ったことに対しては断固としていて、責任感と慎重さをいつも強調していた。…特に母は私の偶像であった」と書いている。朴槿恵は母親から大きな影響を受けていたのである。

第二章「22歳のファーストレディー」では、1974年8月の文世光事件が朴槿恵の人生を大きく変化させた様子が語られている。母親の不慮の死によりフランス留学を切り上げ帰国した朴は、「母を失い寂しさが募る青瓦台内にぬくもりを吹き込み、国民の愛を一身に受けていった母の代わりをすることが、22歳の私に与えられた宿命であった。私は、過去は封印して、徹底してファーストレディーとして生きていくことを決意した」(p82)との心境を吐露している。朴は青瓦台を仕切りながら父親を補佐することに全力を尽くしたのである。父親の国土視察や産業現場視察への随行、往復の車中での会話、毎朝の新聞を読んでの会話等を通じ、彼女自身も国政全般についての見識を持つようになった。言わば、父親から帝王学を学んだことになる。朴槿恵は意欲的に国政に参与したのである。

 第三章「寂しく長い航海」では、1979年10月に起こった父朴正熙の暗殺事件により、朴槿恵の人生はまたしても大きく変化することになった。葬儀を終えた朴は妹槿令、弟志晩と共に15年住み慣れた青瓦台を後にし、以前住んでいた新堂洞の旧宅に戻った。新しい生活を始めて直面したことは、後継全斗煥政権の中で父親朴正熙に対する罵倒が続いたことである。そのため「朴槿恵3姉弟は、両親の命日を含めどんな公式行事も考えられない状況にあった。結局、何年も父の追悼式を公に行うことが出来ず、家でひっそりと法事を行うほかなかった(国立墓地で初めて追悼式を行ったのは8年後の87年であった)」(p121)。また「父の最も近くにいた人たちさえ、冷たく心変わりしていく現実は、私にとって衝撃だった」(p121)。「私はそんな現実の中で、人の表裏を見るのがどれほど重要なのか今更ながら悟った」(p124)と語っている。

 朴の心を癒したのが読書であった。「そのころ、私は法句経、金剛経など仏教の経典と聖書をもれなく読んだ。東洋哲学関連の本と、『貞観政要』、『明心宝鑑』などは枕元に置き、何回も読んだ。先人の含蓄のある言葉で心に残るものがあると、ノートにメモしておき、考えがまとまらない日に広げてみた」(p130)という。

 さらに「30代後半に入ると、生活の中から喜びが一つ二つと増えた。心に余裕が生まれ、中国語の勉強も始めた。毎日EBS(韓国教育放送公社)の放送を聴き、テープを持ち歩いて時間があると繰り返し聴いた。英語、フランス語、スペイン語の勉強に熱中した経験は、中国語の独学に大いに役立った」(p132)という。

 朴槿恵は青瓦台を出て政界入りするまでの17年間(1979~96年)について、次のように述べている。「今も私は、自分が歩いてきたこの17年という歳月が、隠遁と蟄居と思われるとき、苦笑いしてしまう。そのときも私は大韓民国の空の下で生きていたし、一日一日、一所懸命生きて行く一人の国民だった」(p124)と語っている。

 第四章「野党代表 朴槿恵」では、長い沈黙の後に、朴槿恵は政治家への転身を図るに至る。その切っ掛けは、1997年に起きたIMF事態の惨状である。「連日、報道され財政破綻の危機、大量の失業者と生活苦の記事を見ていると心の底から憤りを感じた。ようやく築き上げたこの国が、こんなにあっけなく崩れてしまうのかと、追い詰められた気持ちになった」(p150)。「新聞やテレビ、どこを見ても責任を取るという政治家はいなかった」(p152)。「国がこんなに揺れ動いているのに、私一人だけが安穏と暮らしていて、後になって自分に後ろめたくないか、死んでから両親に正々堂々と会うことができるだろうか」(p152)と自問自答後、政治家への転身を決めたのである。

 その第一歩が、1997年12月の大統領選挙であった。朴槿恵はハンナラ党の大統領候補である李会昌候補支持を宣言し、本格的な選挙運動に飛び込んだ。国民の反応は極めて良好で、特に大邱の遊説では、市民の反応は想像を超えていた。この時の選挙では金大中候補が当選し、本命の李会昌候補は落選した。逆風が吹く中で行われた、翌98年4月の補欠選挙では朴槿恵は慶尚北道の達城区で立候補し、無事当選した。

2000年4月の総選挙後ハンナラ党は党指導部を刷新するため党大会の準備に入ったが、朴槿恵は副総裁選に出馬し、波紋を投げた。女性枠の指名職副総裁を使わず、選出職副総裁選に立候補したからである。指名職と選出職では重みが違う。「女性政治家」として保護や特恵を受け、女性枠で任命されることは朴の政治信念とも合わなかったからである。

副総裁に選出されて以来、朴槿恵は政治改革と政党改革を主張した。「私は政界に入って二年、我が国の政治の問題点をそれなりに把握できた。それは人の問題ではなく、政治システムの問題であり、誤ったシステムの中心には政党があった。我が国の政治は政党政治だが、与野を問わず政党の総裁一人が公認権をはじめ全てを決定するシステムを持っている。だからいくら優秀な人でも一度政党に入ると順番を待たねばならず、国民より総裁の顔色を窺い、国会より党に忠実になってしまう。これは我が国の政党システムと政治文化の問題である」(p164~165)と語っている。

政治家・朴槿恵の力量を見せつけたのが、2004年4月の総選挙であった。ハンナラ党の支持率が腐敗問題等で底なしに落ち込んでいく中、ハンナラ党の惨敗が予想されていた。そういう状況下で3月に開催されたハンナラ党臨時党大会で朴槿恵は党代表(総裁)に選出された。「沈没寸前のハンナラ号の船長になった」(p179)のである。朴槿恵はテント庁舎への移動、腐敗との決別宣言、国民への謝罪等、ハンナラ党への信頼回復に全力を尽くした。その結果、総選挙でハンナラ党は大いに善戦し、惨敗を免れた。この総選挙以来、朴は選挙に強い政治家とのイメージを持たれるようになった。

第五章「私の信念は世界の舞台で継続する」では、これまで朴槿恵が行った外交活動、それを支える哲学、各国指導者との交流の様子が紹介されている。朴が「外国訪問の日程を決めるとき、原則としていることがある。韓国を助けて下さった方々に感謝の気持ちを伝えることだ」(p237)としている。また「私は北朝鮮の核武装だけは絶対に防がねばならないと考えている。今もその考えに変わりはない。北朝鮮の核は完全に廃棄されるべきだ」(p239)と強い語調で語っている。

本章では、2006年3月にあった日本訪問についての感想や印象が語られている。「私は、訪日中、森喜朗前総理、扇千景参議院議長、河野洋平衆議院議長、安倍晋三

官房長官、麻生太郎外務大臣ら、多くの政治家と会った。一様に日本側の論理で武装した人たちだったが、私は歴史問題を私たちの世代で解決せねばならず、後の世代に負担をかけてはいけないと述べた。面談はすべて予定時間の二倍を大幅に越え、真剣に話し合った。歴史問題さえ除けば、経済、外交、韓日交流など各分野での考えを一致させられた。やはり、歴史問題を解決できなければ、韓日両国は無限の可能性を持ってはいるが、一歩たりとも先に進めないことを証明した場でもあった。特に、小泉総理との対話ではこうした感じをいっそう強くした」(p252~253)としている。

日本との交流の最後に、朴は扇千景参議院議長の「近くても遠い国ではなく、近くて近い国にしましょう」という言葉を紹介し、「私を含め、(それは)韓国国民が望むところである。お互いに頻繁に会い、率直に語り合えば、結果として信頼が積み重なっていくと信じる」(p256~257)で結んでいる。

 

以上、朴槿恵の『自叙伝』の内容を紹介した。内容が多岐にわたったのは、朴槿恵の実像にできるだけ近づけたいという筆者の願望からである。どういう印象を読者は持たれたであろうか。

筆者自身の問いに答える必要があろう。まず第一の疑問、即ち朴槿恵大統領の反日政策の原因はどこにあるのだろうか、について。『自叙伝』の内容からは、はっきりしない敢えて言えば、日本の政界リーダーとの対話で明らかなように、朴槿恵は「日韓の歴史認識は一致すべきである」と思っているのに対し、日本側では「歴史認識は国によって違ってしかるべきである」と思っている人が多かったのではないか。だから朴が期待するような意見の一致が見られなかったのである。それが朴の対日強硬姿勢の原因になっているようだ。

『自叙伝』で興味深かったのは、朴槿恵が英語、フランス語、スペイン語、そして中国語に強い関心を表明しているのに、日本語への関心には全く言及がなかったことである。朴槿恵の反日政策に韓国政府が推進した反日教育の存在が大きな役割をしているという見方があるが、それは間違いないであろう。しかしそういった反日教育を受けた世代でも、60年代、70年代までは日本語への関心は大変高かった。それ故、朴の日本語への関心のなさは逆に興味が注がれるのである。何か日本語に対し、屈折した感情があるのではないか。

第二の疑問点、即ちどうして朴槿恵は「不通(人間関係がぎくしゃくしている)」のか、について。筆者は昨年(2013年)3月、ソウルに現地調査に行った。その折現地で話題になったのが、前年12月にスタートした安倍晋三政権と前月スタートしたばかりの朴槿恵政権の違いであった。安倍政権はデフレ脱却のため果敢な金融緩和政策を推進、その結果円安が推進され、株価も大きく上昇するなど、日本社会には久々の明るいムードが広がっていた。それに対し、“準備された大統領”を標榜する朴槿恵政権は、政権発足当初にあるはずの盛り上がりに大きく欠けていた。この点は筆者にとって意外な点でもあった。その原因の一つとして指摘されたことは、朴槿恵大統領が論功賞人事を一切やっていないことにあった。朴大統領は当選に功労のあった“一等功臣”を全く登用しなかった。朴のシンクタンクと見られていた国家未来研究院からも誰も重要ポストに採

用されなかった。その結果政権発足時の支持率は49%と低く、歴代最低を記録している。

ソウルで聞いた話を総合すると、朴槿恵政権の躓きは彼女の性格から来るという見方が強かった。朴正熙の娘として極めて限られた空間の中で育ち、両親の死の衝撃、孤独、独断専行、協調性に欠ける性格、等が災いしていると見られていた。

筆者にとって、これは大きな驚きでもあった。論功賞人事といった常識的な対応がどうしてできないのであろうか。『自叙伝』を読む限り、そういった印象は弱いのであるが、父親の死後の全斗煥政権の対応、身近な人の裏切り等がトラウマとして朴槿恵大統領には残っているのかも知れない。朝鮮日報の報道では、朴大統領は青瓦台で夕食を一人でとることが多いという。折角優秀な料理人を抱えているはずだから、色々な分野の人をどんどん呼んで交流をすれば良いのにというのが筆者の素朴な感想でもあった。朴大統領はそれをやっていないことが加藤達也のエッセイ「朴槿恵『反日大統領』の深い孤独」(『文藝春秋』2014年4月号)でも言及されている。

朴槿恵の人となりを理解するうえで、興味深い記事がある。それは与党の元老政治家崔秉烈元ハンナラ党党首が、朝鮮日報と行ったインタビュウ記事(2014年6月2日)である。同氏は2012年の大統領選挙では朴槿恵候補を支援する”7人会“(座長金龍煥元財務部長菅)のメンバーでもあった。インタビュウは6月4日の統一地方選挙の直前に報じられた。

「殆ど国政は漂流状態で混沌とした状況のようです」とのインタビュウアーの問いかけに対し、同氏は「その通りです」と同意しながら、「友達と会えば、“大変だ”という言葉だけです」と打ち明ける。「国政の最高責任者が大統領ですから混沌の最終責任は大統領にあるといって良いでしょう。このまま行くと本当に心配な状況に直面することになるでしょうから、大統領や参謀達は腕まくりして出なくてはいけません」と注文を付ける。「(朴槿恵は)大統領になる前は我々と食事も一緒にして気安くジョークも飛ばしながら過ごしましたよ。しかし青瓦台に入って変わってしまいましたね。怖い人です。メンバーの何人かは大統領と会っていません。…大統領自ら雰囲気を変えなければ。外の人たちを呼んで、あれやこれや話をする余裕をちょっとでも持てばと思います。夕食の席に批判的な言論人を呼んで直接話を聞いて見て、そうすれば何か通じることになるのではないか。それが本人の精神衛生にも良いのではないですか」と語る。

セウォル号事件以降、韓国社会を大きく覆っている閉塞感を打破するためには、先ず朴槿恵大統領から変わらなくては駄目というのが、元老政治家の苦言でもある。

<訂正> 「レーダー」第2号で紹介した鈴置高史氏の肩書は、日経新聞の論説委員ではなく、編集委員です。訂正致します。

更新日:2022年6月24日