韓国古書と向き合った六〇年文古堂店主朴贊益氏

 

花房征夫

(2016.5.9)

 

朴贊益さんとの出会い

 

 韓国の古書店「文古堂」店主・(パク)(チャン)(イク)さん(以下、パクさん)との交遊歴は半世紀となった。きっかけは一九六八年一月の「経済、産業、金融、統計など図書の韓国現地調査」という出張命令であった。

 

六〇年代半ばの日韓関係は一大転換期を迎えていた。両国は一九六五年六月、二〇年近くに及んだ日韓会談を終了させ、韓国経済再建に不可欠な対韓請求権問題では日本政府は無償三億ドル、有償二億ドルの外貨資金を約束した。日本の外貨黒字総額一八億ドル、韓国国家予算三億ドルという時代の日韓基本条約締結は韓国経済発展、つまり「漢江の奇蹟」の一大起爆剤となって両国の貿易、金融、人的交流などを急拡大させた。

 

当時のアジ研図書館は韓国の最新情報を収集できる数少ない拠点であった。政治、経済などの最新ニュースを伝える新聞、経済誌などは航空便で収集され、閲覧者はそれら資料を配架棚から自由に取り出して閲覧し複写もできた。こうして韓国の最新経済情報を求める商社員、メーカー社員、マスコミ関係者などがアジ研図書館に日参し、彼らは研究所が保持していない韓国政府内部資料まで求めるようになった。韓国関係図書館サービスは収集から始まった抜本的対策が不可避であった。

 

一九六八年一月のソウル初訪問は緊張を強いた。外気は刺すような寒さで震えあがったから氷点下一〇度程度で、そんな金浦空港にパクさんがジャンバー姿で現れた。そして「自分は花房さん図書調査の案内者で、首都ソウルの本町書店街で働いてきたから韓国語図書の調査には自信がある」と語った。パクさんの年齢は三〇代半ばとも四〇代にもみえたが日本語がよくできた。ちなみに筆者は訪韓前、東京の韓国書専門店「髙麗書林」の朴光洙社長にソウル出張中の私を助けてくれる韓国人の推薦をお願いしていたが、その方がパクさんであった。こうして私はソウル繁華街明洞のメトロホテルに旅装を解いて早速、日程調整や(イン)()(ドン)古本街の調査で意見交換した。

 

このときの問題のひとつはアジ研図書館の収集課長の決裁手続きと日銀外貨使用許可をクリアすることであった。そこで発掘資料は改めて東京の高麗書店『韓国書目録』として提出し、その目録作成はパクさんにお願いした。この目録は帰国後一カ月ほどで到着し、収集課長はリストを肯定的に評価して大方蔵書になった。これらの図書はアジ研では所蔵していない経済白書、経済開発書、金融資料、統計書などで一〇〇〇冊近くに達した。価格は一冊五~六〇〇円程度で現在もアジ研図書館の韓国語基本書として重用されている。

 

 この韓国語図書調査は終盤、凍りつく恐怖のなかで進行した。そのひとつが一九六八年一月二一日の韓国大統領官邸付近で起きた南北軍人銃撃事件である。その時は学生の街・新村の古本屋を訪ねて夕食は西大門付近の焼肉店で取ったが午後八時半頃パーン、パーンという銃声が響いた。しかし全貌は翌日夕方まで待たねばならなかった。その日の訪問は韓国中央図書館(敷地は現在ロッテ百貨店)を予定していたが同行のパクさんは午後になっても現れず、代わりに兵士満載のトラックが疾走し空からは途切れることのない爆音が響いた。そんな夕方の午後四時頃、汗を流したパクさんが飛び込んできた。「昨夜数十名の北朝鮮特殊部隊が韓国KCIA部員に偽装して大統領官邸に近づき、最後の関門で地元警察官に見破られて銃撃戦となって北朝鮮兵士は四方に逃亡中」と語った。軍事衝突場所は昨夜の焼肉屋から四~五〇〇メートルの距離であった。

 

 南北銃撃戦の緊張冷めやらぬ二日後の一月二三日、今度は北朝鮮東部の主要港元山の沖合でアメリカ情報収集艦プエブロ号が北朝鮮人民軍に拿捕された。その時佐世保港には空母エンタープライズが寄港中で、プエブロ号乗務員八〇名の救助のため「米空母、日本海北上中」と韓国ラジオは報じていた。米軍の実力と過去の軍事行動からみて「朝鮮戦争」再来を覚悟せざるを得なかったが、対応手段は新聞、ラジオなどで情勢を知るパクさんに頼るしかなかった。こうして私の韓国現地調査は、最後は逃げるように金浦空港から台湾へ離陸した。その後、筆者は香港に出て小島(れい)(いつ)研究員と合流して中国書の収集事務を分担した。業者は遠東という古書店で、混乱のなかから持ち出された文革資料を専門的に扱っていた。

 

古本屋街・仁寺洞

 

ソウル到着翌日から筆者は古本屋が数多く集まる仁寺洞に出て図書調査を開始した。仁寺洞は現在、古美術店、ギャラリー、伝統工芸品店、土産物店などが密集するソウル屈指の文化観光地域であるが、筆者が足を踏み入れた半世紀前の仁寺洞は古本屋街で、零細古書店など含めれば二〇軒程度が営業していた。私は連日この仁寺洞古本屋街を訪ねて、パクさんの案内で現代韓国の経済、産業、統計、社会、政治等の基本書を調査しメモを作成した。そして分かったのは肝心の韓国書はほとんど韓国政府や韓国銀行などの公的刊行物で、古本屋の書棚にはあまり配架されていなかった。そこで二回目からは政府刊行物に絞って再調査した。

 

パクさんに通訳していただいて驚いたことは古本に対する大変な知識と素早い判断力であった。古本屋訪問ごとに私の関心書を明快に説明し、店主が「もたもた」すると他人の古書店でも「そこだ、あそこだ」と指さした。後日判明したのだが、パクさんは学者、文化人、古書コレクター、図書輸出業者などから古本収集委託を引き受け、雑誌や年鑑などのバックナンバー欠号補充を得意としていた。したがって仁寺洞古書店めぐりは日課であり、仁寺洞の古本商品はほとんど把握していた。そのため古書店主や従業員などの誰もがパクさんの実力を認め敬意を表していた。

 

当時、仁寺洞で良書を数多く所蔵する古書店は現在も営業中の「通文館」「承文閣」の二店で、店主の図書知識が抜きん出ていた。通文館は一九三四年創立の老舗古書店で八〇年以上の歴史があり、承文閣は七〇年代半ばまで「鶏林」名で営業し、仁寺洞きっての古本良書所蔵店であった。

 

仁寺洞古本街は日本人が集まる明治町(現在の明洞)隣の本町に対抗して形成された韓国・朝鮮人相手の書店街で、昭和の一時期は「京城(ソウル)の神田」ともいわれる賑わいがあったという。主な商品は中古教科書、受験参考書、法律全集、見切り処分図書などという記録が残されている。

 

  さて韓国古本屋のルーツは日本植民地時代の「本町」に遡るようだ。その場所は京城繁華街の明治町(明洞)と昭和通り(現退渓路)に挟まれた一帯で、日系本屋が古書店も含めて多数営業したので町名が本町になったという。この本町書店街(七〇年代初に完全消滅)は独立後、忠武路と改称されたが書店、古本屋、図書流通業、出版業などの機能は継続して、パクさんも朝鮮戦争休戦直後の一九五四年、いち早く故郷の慶尚北道醴泉から上京して古書店員になり一時は出版業にも関係したという。パクさんの生年は一九二九年であるから古本知識や商売ノウハウなどは二〇代後半からの一〇年以上働いた本町での経験が大と思われる。ちなみにパクさんは一〇代後半、郷里に近い大邱(テグ)の書店で働いている。

 

  数年前『植民地時代の古本屋たち』の労作が刊行され、戦前期京城の古書店事情が明らかになった。この本によると本町には被植民地後間もなく日系古本屋が進出し、昭和初では一〇軒以上の古書店が営業して一九四〇年頃は大小一〇〇軒の古書店が存在したとみられている(『京城古書籍商組合名簿』)。そんななかで京城には大手の大阪屋号書店、丸善京城店、巌松堂京城店などが進出して新刊書店と古本業を兼営し、満州国の大連、瀋陽、新京だけでなく中国の北京、上海などの日系古書店ともネットワークを形成して古本業を展開している。

 

  筆者は一九七〇年三月末から二年間、高麗大学アジア問題研究所に長期派遣された。ご縁は一九六六年に金俊燁所長が東南アジア経済資料収集で来所され「韓国に来ることがあれば」と誘って頂いたことによる。しかしこの時期も韓国は激動期でその最初は「よど号」ハイジャック事件であった。私は別送の生活品を引き取るため金浦空港に来ていたが、その時九人の赤軍派が日航機「よど号」の機長などを脅して金浦空港に強制着陸させ、その後北朝鮮行きを強要したので日韓間の一大事件となった。筆者は異様な軍人、警察官らの雰囲気を察して急いで空港を後にしたが帰路の検問は厳しかった。この荷物引き取りは、最後はパクさんにお願いした。その時初めて「急行料金」(確か一〇ドル)という言葉を覚えた。以降、パクさんには書物の世界だけでなくアパート契約などの生活全般でも助けていただいた。

 

  長期間派遣を認めてくれた高麗大学アジア問題研究所はビジネスライクで何の問題もなかったが、問題は朴正煕権力と激突する学生デモであった。高麗大の学生デモは李承晩政権を倒した「四・一九学生革命(六〇年)」や学生逮捕者一〇〇〇名以上を出した六四年の日韓国交反対デモ(六三事態)などの主力部隊であったため朴正煕政権との対決は熾烈であった。それだけに朴政権は高麗大学生デモを厳しく取り締まって少人数デモでも学外に出れば催涙弾を打ち込んだ。筆者はぜんそく症があったので学生デモ日は大学を敬遠し、仁寺洞古書店、当時の大型書店(チョン)()書籍センター、日本の経団連にあたる全経連の図書室(当時は朝興銀行本店ビル)などを廻って過ごした。そしてパクさんともしばしば面談して仁寺洞古本の内情などを聞いた。

 

 パクさんの七〇年代前半は学者や海外図書輸出業者などからの「委託収集」に加えて、アメリカや欧州などの有名大学図書館との新規取引にも成功した。日本古本業者とも提携ができて多数の朝鮮総督府関係図書を神田に送った。あるとき日本業者の手紙をみせてくれたが、そこには「幾らでも買い入れる」と書かれていた。パクさんはこの時期、李氏朝鮮王朝の官僚やその子孫などで構成される(ヤン)(バン)の続柄・経歴・事績などを書き連ねる族譜資料の収集にも手を染めたが、これは他店主が追従できない漢字読解力が追い風になった。漢字は子ども時代、郷里の伯父が運営する書堂(韓国式寺子屋のこと)での漢籍素読(内容理解は二の次で文字だけを声にして読むこと)や習字などを学んだためといわれたが、漢字を学んだ公的組織は小学校だけで独学が基本であった。日本語もそうであるが短い期間で漢字読解力を習得したパクさんの明晰な頭脳と集中力が偲ばれる。七〇年代前半のパクさんは仁寺洞での古書店創業に向け全力疾走していた。

 

開店そして廃業

 

 一九七五年、パクさん念願の古書店「文古堂」が仁寺洞に開業した。写真は開店間もない時期の文古堂と店主朴贊益氏(左)の雄姿である。この時は誰しもが文古堂の前途を楽観し、事実一〇年程度はそれなりの活況を呈した。しか し八〇年代後半から文古堂を含めて仁寺洞古本景気が急低下し、いつの間にか仁寺洞の古書店数は半減した。韓国古書店はどれもが構造不況業種になった。九〇 年代半ば、筆者は渡韓して文古堂に立ち寄ったが店内は閉店後のように閑散としていた。聞くと今日の客は数人とかで最近は若者や中年層が古書店に姿をみせな いと嘆いた。そしてパクさんは突然声を荒げて「韓国人は漢字を捨てたので祖父や父が残した書物、記録が読めなくなった。韓国人の伝統的図書文化は崩壊し た」と述べて漢字廃止が古本業基盤を奪ってしまったと力説した。

 

 漢字を使わない「ハングル専用」国語政策は一九四八年の大韓民国成立とともに始まった。しかしこの時、政府はマスコミなどの漢字使用は禁止せず、制限した のは学校教育の漢字のみで新聞、雑誌、図書などは継続して漢字を使用した。しかし朴正煕大統領は一九七〇年、国語表記に関して「ハングルに純化せよ」と訓 示し、漢字は以降、外国文字となって学校から消えた。加えて八〇年代後半には、政府提唱のハングル表記、つまり漢字廃止に抵抗してきた『朝鮮日報』『東亜 日報』などの主要新聞が相次いで漢字廃止に転じて漢字とハングルを併用させる「國漢混用文」主張は力を失った。こうしていまや漢字を知らない韓国人が韓国 社会の大勢となった。

 

 この結果、漢字読解力は衝撃的に低下した。ソウル大学国文学科・宋基中教授の調査によると「韓国では高校や大学で正規教育を受けた者でも漢字読解が急減し た結果、一世代前の自国新聞や雑誌などの記事、見出しも読めなくなった。学位論文を書く院生でも二〇年前の恩師、先輩の論文を理解できない」と慨嘆し、韓 国の学問や文化、発展において漢字廃止が根本的破壊要因になったと批判した(『朝鮮日報』一九九九年二月一〇日)。しかし韓国の言語ナショナリズムは強靱 で漢字問題で譲歩する兆しはみられない。

 

 一九九九年三月、筆者はアジ研を定年退職して渡韓し、何時もと同様、仁寺洞の文古堂を訪ねたが、店主パクさんは持病の糖尿病が悪化したのか生彩がなかった。 そして「文古堂を近いうちに閉める」と切り出して「近頃は終日開店しても利益は幾らにもならない。昨今の収入程度ならば古書店を止めて骨董店に賃貸すれば 確保できる」と語った。筆者はうなずくしか答えがなかった。

 

●二冊の本

 

話題は変わるが、六〇年代末から七〇年代末にかけてアジ研図書館が収集した韓国書はパクさんの適切な後押しもあって五〇〇〇冊を超えた。それらの内容は『朝鮮語所蔵目録一九五九~一九七七』(アジア経済研究所、一九七八年) で把握できるが、貴重図書も結構多いので以下の二冊を代表として取り上げて韓国書初期コレクションの一端を紹介する。

 

(キム)()(ペク)(ボン)(イル)()』 (国土院、一九四八年)。本書は韓国の代表的抗日独立運動家金九の自叙伝で初版本だ。この書の裏表紙には白凡(金九雅号)が知友に贈呈したときの「真筆」 が刻されている。韓国人にとって金九『白凡逸志』は特別な書であるが、刊行は一九四八年なので初版本は非常に珍しい。いわんや真筆本は文字どおりの稀覯本 である。その貴重書がアジ研では一般書と一緒に書架に配架されているのに驚いたのか、韓国のジャーナリストは本書に触れてアジ研図書館を何回も紹介してく れた。この『白凡逸志』収蔵を勧めた韓国人はパクさんで二〇〇〇円弱で購入した記憶がある。

 

二 冊目は『請求権資金白書』(経済企画院、一九七六年)である。前述したように一九六五年の日韓基本条約で日本は無償三億ドル、有償二億ドルの対韓請求権資 金を供与したが、韓国政府はこれら外貨資金を「農水産業近代化、中小企業育成、浦項総合製鉄所建設、多目的ダム、科学技術部門、高速道路、港湾、電力」な どあらゆる基盤的インフラ建設に重点投入した。本書はその日本の対韓請求権資金が一九六六年から一九七六年までの一〇年間にどう使用され、如何なる経済効 果を挙げたかを韓国政府が詳細に分析した白書で、日本請求権資金を肯定的に評価した点で類書のない図書である。この書物もパクさんの文古堂でみつけて一〇 〇〇円弱で購入した。

 

二〇〇〇年の文古堂廃業後、パクさんからの音信が途絶えた。そこで確か二〇〇一年に「温泉でも入って富士山でもみませんか」とオープン航空券を送った。筆者は定年後、奥秩父山脈の山梨塩山側奥の無人農家を山荘にして春の連休、夏を過ごしたが、そこから登る(けん)(とく)(さん)(標 高二〇三一メートル)は富士山眺望の名所であった。パクさんとの乾徳山ハイキング企画はかつてのアジ研同僚の谷浦孝雄氏(当時共栄大学教授)、野副伸 一氏(前亜細亜大学教授)が賛同し合流した。晴れわたった四月末の午前、パクさんを成田空港から乗せてきた谷浦さん運転の車が山荘に到着した。頂上麓まで は林道が通じたので山頂までの登山コースは二〇〇メートル程度であったが、パクさんの体調は悪く頂上には到達できなかった。そしてこの日の夕方、われわれ は樹齢九〇年というしだれ桜の下で野外バーベキューを開き、書物で培ってきたこれまでの友誼を回顧し、今後の 健康を祈った。翌日午前、谷浦さん運転の車が成田空港に向け出発した。その時手を振ったパクさんの姿が生前最後の別れとなった。後日、風の便りでパクさん が二〇〇七年、他界されたのを知った。享年七八であった。

 

(はなぶさ ゆきお/NPO法人アジア図書館ネットワーク副会長)

 

《参考文献》

沖田信越『植民地時代の古本屋たち』寿郎社、二〇〇七年。

呉善花『漢字廃止で韓国に何が起きたか』PHP、二〇〇八年

 

アジ研ワールド・トレンド No.247(2016. 5)より転載

 

 

 

更新日:2022年6月24日