書評 韓国通が書いた日米関係の本

田中良和

(2019.6.6)

 

 米国のトランプ大統領が就任してから2年半、米政局は中間選挙を経て、2020年の大統領選挙へ向けて走り出している。この間、トランプ氏は環太平洋連携協定(TPP)、地球温暖化対策の枠組み「パリ協定」、そしてイランとの核合意から相次いで離脱、国際的に波紋を広げた。関税引き上げによる中国との貿易戦争は、米中覇権争いも絡んで長期化の様相を見せている。この中で、米朝首脳会談は2回開催されたが、北朝鮮の非核化を巡る進展はない。

 トランプ氏の大統領就任を前にした2016年7月、小河内敏朗著『変わらざる合衆国と変われない日本-不条理に屈する日本は輝けない-』(桜美林大学北東アジア総合研究所)が出版された。小河内氏は外務省でも有数の韓国通で、駐リビア大使も歴任した元外交官。東京裁判(極東国際軍事裁判、1946年5月3日~48年11月12日)の意味を改めて問い直すなど、日米関係を歴史に遡って検証している。著者は現在、韓国についての著書を執筆中で、本書はその前触れの意味合いも持つ。

 

なぜ、日米は戦争に至ったのか

 

 著者は第一章で基本的な問題を提起する。「合衆国と連合国はなぜ、日本をむりやり戦争に追い込むような政策をとらなければならなかったのか。合衆国はなぜ、ソ連まで戦争に引き込むような愚かなことをしたのか。合衆国はなぜ、日本の敗北がはっきりしている局面で、数十万人の無辜の市民を犠牲にした都市への空爆を実施したのか。合衆国はなぜ、戦争法規違反が明らかな最新兵器(原爆)を無警告で広島・長崎に投下しなければならなかったのか。合衆国はなぜ、後々、合衆国の名誉を傷つけることになるかもしれない非人道的な作戦まで敢行したのか」(35㌻)。本書は、これらの疑問に対する著者なりの回答である。

 まず、一番大きな問題は日米開戦の原因は何かだ。真珠湾攻撃(1941年12月)に至るローズベルト大統領ら米側の対応を追跡した著者は、「一般的に、あの戦争に対する米国の反省は『パールハーバーを忘れるな』のみに集中し、日本と合衆国がなぜ敵対し武力衝突に至ったかの前節までの説明に対して十分な注意は払われていない。パールハーバーの教訓は『油断禁物』だけであり、日本が置かれていた当時の困難な状況を理解することなどに関心はなく、一方で、ソ連の脅威に対する認識が不適切に甘かったことや、中国に対して感傷的な見方をしてきたことは問題にしていない。日本の技術力に対する理解も注意を欠いていた」(202㌻)と指摘する。

 日米開戦前の歴史を振り返ると、新興の列強としてアジア太平洋地域に登場した米国と日本は満州の権益を巡って鋭く対立、米国は日本封じ込めに執念を燃やしていた。著者は、日米が相克関係に陥る根本原因として、「極東の小さな島国だった日本は、今や、大陸に勢力圏を確保しただけでなく、千島列島、日本列島、沖縄諸島、台湾本島と澎湖諸島を連結し、さらに太平洋における合衆国の海上交通路の真ん中にマリアナ、マーシャル、カロリン諸島を国際連盟の委任統治領として支配下に置き、戦略的には合衆国の東アジアへの接近を阻むような大列島国家となっていた。合衆国からみて、もし大陸における日本の勢力拡大をこのまま放置すれば、やがて米欧列強の権益が脅かされるだけでなく、太平洋地域においても脅威になるとの懸念をもったとしても不思議ではなかった」(173㌻)と分析する。さらに、巨大資本を動員した国際借款団への割り込みなど経済金融面からの執拗な日本牽制の動きを、米国の意図がどこにあったかの例証として挙げている。

 その中で、著者が「日米の衝突を避ける最初で最後のチャンスだった」というのは、米国の鉄道王ハリマンが日露戦争後に日本を訪問、桂太郎首相との間で南満州鉄道の利権を折半する覚書がとりまとめられた時。だが、合意は、小村寿太郎外相が「幾万の生霊を犠牲にして得た権益の実質的部分を外国に手渡すなど国民に説明できない」と強く反対、結局、白紙撤回されてしまう(174~175㌻)。

 

原爆投下は間違い

 

 続いて、著者は米国の原爆投下に厳しい目を向ける。「武器史上最も巨大で過剰な破壊力をもちその上放射能の後遺症を残すという、人類が発明した最も醜悪な兵器による無警告攻撃、それが広島、小倉、新潟、長崎を目標とした原爆投下計画だった」と言い切る(207㌻)。

 「原爆投下は、あの戦争を早期に終結させ不必要な犠牲を回避するために必要だったというのが合衆国の理解だ。日本本土での決戦の必要がなくなることによって五十万人の人命を救うことができたとされている。……だが原爆投下を肯定するのはやはり間違いであり、卑屈であり愚かだ」という(208~209㌻)。

 「広島・長崎への原爆投下については依然論争が続いているが、唯一の被爆国であり核兵器全廃をめざす日本としては原爆投下を肯定するわけにはいかない。原爆投下決定の際の人種的偏見や連続して行われた無警告投下は、原爆を創り出した科学者たちの意図と良心にも反していた。核兵器はその後、冷戦期を通じて最重要実践兵器として定着していった。だが果たして、核兵器に正しい使い方などというものがあるだろうか。そういうことを考えさせられる問題が冷戦終結後の世界に浮上してきた。それが抑止の効かないテロリストによる核兵器テロの脅威だ」と、テロリストによる核兵器使用の脅威にも言及する(349㌻)。外交官としての体験に裏打ちされた現場感覚を持った警告と言える。

 

東京裁判を強く批判

 

 だが、本書で著者が最も力を入れるのは東京裁判批判だ。日本の戦前・戦中の指導者28人の被告を「主要戦争犯罪人」(A級戦犯)としてその責任を追及した東京裁判への批判は、本書全体に通奏低音のように鳴り響いている。「怒りに燃え偏見に満ちた連合国の法廷で勝者が敗者を裁くことは、正義とは何の関係もなかった」(54㌻)とし、その論拠を逐一挙げていく。

 そして、著者は東京裁判判決と、その約1か月に国連総会で承認された世界人権宣言との関係を問題にする。著者は「東京裁判はまちがった裁判だと、全世界が認めるべきだ。本来なら、世界人権宣言が東京裁判の判決より早い1948年10月ごろまでに国連総会で採択されて、東京裁判は否定されなければならなかった。それなのに、連合国は、同じ戦争犯罪をやっていながら、自分たちは全く犯罪を問われずにすべての問題を回避して、日本だけはこういう悪いことをやっていたという秩序を作り上げた。それを否定させないために、1948年12月10日、つまり、同年11月12日の東京裁判判決から約1カ月遅れで世界人権宣言をせざるを得なかった。そういう欺瞞を用いて全部、間違いを覆い隠した」と評者に語った。

 著者は「あの裁判の被告全員を起訴事実の全部について無罪と決定し、さらに起訴事実の全部から免除されるべきと主張した」インド代表判事パルの反対意見書(79㌻)を高く評価、その内容を詳細に紹介している。原爆投下については「もし非戦闘員の生命の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては、この原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の指令および第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものであることを示すだけで、本官の現在の目的のためには十分である」とのパル判決書を引用している(121㌻)。

 その上で、著者は、戦争の勝者と敗者である日米は「けんか両成敗」の考え方に立ち戻って、二十一世紀にふさわしい新たな次元のパートナーシップを構築してほしいとの期待を表明している(130㌻)。

 

「外務省切っての韓国語の使い手」

 

 著者は1983年1月11~12日、ソウルの青瓦台(大統領官邸)で開かれた、日韓関係の修復を目指す中曽根首相と全斗煥大統領の首脳会談の通訳を務めた。当時、サンフランシスコに勤務していたが、「外務省切っての使い手」といわれた韓国語の能力を買われて急遽、ソウルに派遣されたのだ。「青瓦台に着いた時、全斗煥がどういう姿勢で立っていたか、すごい印象に残っている。あれをやれたのは、いろんな意味でおもしろかった」と振り返る

 1969年に外務省入省。1970年から2年間の語学研修の後、在韓大使館に勤務、ソウルに6年間、駐在した。その間、72年7・4南北共同声明、同10月維新体制、73年金大中拉致事件、74年文世光事件など歴史的な事件に遭遇した。ソウルには1986年~1992年と、1996年~99年を合わせて計3回、15年余勤務した。

 1999年9月からは米ランド研究で客員研究員として日米同盟を中心に研究、安全保障問題の研鑽を積んだ。2002年~2006年には瀋陽総領事。2006年3月から2009年9月までは、カダフィ政権時代の駐リビア大使を務めた。本書の第七章で中東情勢がビビッドに描かれているのは、その成果のひとつだろう。

 読者にとって、本書は必ずしも読みやすくないかも知れない。著者と意見を異にする点もいくつかあるだろう。しかし、本書には多数の資料に当たったうえで著者の思考が投入されており、日本外交の基軸とされる日米関係を考え直すうえで貴重な一冊となろう。

 

(写真は著書を手にする小河内氏=2016年7月19日、東京都内で田中良和撮影)

更新日:2022年6月24日