繰り返される災害――熊本地震異聞

田中良和

(2016. 4.22)

 熊本地震で被害の出た熊本県八代市に1年前まで3年余、住んでいた。市中心部の高台に建つ鉄筋コンクリート地下1階・地上5階建ての市庁舎にヒビが入り、使用できなくなった。八代市内では、中央部を流れる球磨川河口の中州に豊臣秀吉の家臣、小西行長が築いた麦島城が地震で崩壊してから約400年。今回と同じく活断層帯の活動によるものとみられ、災害の歴史が繰り返された。

現在は住宅地になっている麦島城跡=八代市古城町 [2012年4月](田中良和撮影)


もともと耐震強度が弱かった市庁舎

 4月16日午前1時25分、市役所2階の職場に詰めていた職員は大きな揺れに思わず立ち上がった。パソコンのモニターが倒れないように抑え、逃げ道を目で確認して外に飛び出した。防災訓練で、よく「地震の時は机の下に潜れ」といわれるが、「そんなことはできなかった」という。

 市の発表によると、市庁舎は14日午後9時26分の「前震」で、壁や柱など30カ所以上にヒビが入り、16日の「本震」で広がった。「前震」が震度5弱、「本震」は震度6弱。17日に専門家に診断してもらったところ、「余震で倒壊の可能性が高い」と判断され、封鎖が決まった。市役所各部署は、合併前の旧町役場の二つの支所などに移転、市の機能は大きく損なわれた。

 市庁舎は1972年の建築。もともと耐震基準を示すis値が低く、地震で倒壊する危険性が高かったという。市はすでに2014年に現在の建物の裏手の敷地内に新庁舎を建設する計画を決めていた。

 

小西行長が築いた麦島城も地震で崩壊

 この地震で思い起こされるのが麦島城の崩壊だ。麦島城は九州平定のため八代に滞在した秀吉の意向を受けて、小西行長が1588(天正16)年、山城だった古麓城を廃して、河口に築いた。天然の内海、八代海に臨み、スペイン、ポルトガルとの南蛮貿易の拠点という戦略的価値を持っていた。

 石垣、天守台、鯱瓦を備え、九州最古の近世城郭のひとつといわれる。ところが、1619(元和5年)3月の地震で倒壊した。当時の様子は必ずしも明らかではないが、1996年から7年間に及ぶ市教委の発掘調査の結果、約400㍍四方の城跡から、秀吉の威信を示す金箔鯱瓦や、行長が文禄の役(1592年)の時に釜山から持ち帰った「隆慶二年」の年号のある滴水瓦などが見つかった。現在、麦島城跡は住宅街になっている。

 小西行長は、韓国で「壬辰倭乱」といわれる朝鮮出兵で加藤清正と先陣争いをした武将で、韓国のテレビ大河ドラマや映画によく登場し、「ソソ・ヘンジャン」としておなじみだ。

 その後、現在の市役所西側に八代城が新たに築かれ、八代の街は大きく変貌する。

 

歴史の教訓を学んで

 今回の熊本地震を引き起こしたのは、布田川、日奈久の二つの断層帯の動きだ。布田川断層帯は「阿蘇外輪山の西側斜面から宇土半島の先端に至る活断層帯」、日奈久断層帯は「その北端において布田川断層帯と接し、八代海南部に至る活断層帯」(政府の地震調査研究推進本部)である。もちろん、麦島城倒壊の頃には、日奈久断層帯の存在はわかっていなかったと思うが、八代の歴史に詳しい鳥津亮二・八代市立博物館学芸係長(38)は「同じ地質という地理条件の中で、繰り返し起こる自然現象。その中で災害が繰り返された。麦島城の崩壊も、日奈久断層帯の影響ではなかったのかなといまになって肌に感じる」という。

 市立博物館では、地震の発生翌日の4月15日から「円山応挙展」が開かれる予定だった。京都市の相国寺、金閣寺、銀閣寺が所蔵する、重要文化財2点を含む応挙コレクションの作品26点の展示はすべて終えていた。そこに不意打ちの地震で、博物館の職員約10人は総出で展示品の転倒防止などの措置をとった。このため、16日の本震では被害を受けずにすんだ。展覧会は18日に中止が決まった。

 市庁舎の被害にもかかわらず、八代市内に大きな被害はなく、市民生活は平穏なようだ。トマトを始めとする野菜、畜産、水産物など、食糧の生産地という土地柄もあって、スーパーの店内から生鮮食料品が姿を消すような事態は起きていない。しかしカップラーメン、紙おむつ、粉ミルクなどは品薄になっているという。

 

 東京も大地震がいつ起きるかわからない。高校2年の時、神戸市内で阪神・淡路大震災を経験した鳥津さんは「水がない、電気が通らないという熊本地震のテレビの映像を自分のことだと思ってイメージしてほしい。自分の生活の中で電気とガスと水道がなかったらどうやって生きていくか。それをリアルにイメージしてシミュレーションしているかどうかでその瞬間の対応が決まる。歴史の教訓から学ばないといけない」と訴える。

更新日:2022年6月24日