「里帰り」した田中明さんの蔵書

田中良和

(2016. 3.21)

 

ソウル大へ蔵書発送

 2010年12月に84歳で逝去された田中明さんの自宅に残された蔵書のうち一部がソウルの研究機関に送られた。3月15日にその箱詰めと発送作業があったが、天国の明さんは、蔵書がソウルに送られることをどのように見ただろうか。

 ソウルに送られた蔵書は、朝鮮・韓国関係はもとより、日本の歴史、文学など幅広い分野。「資治通鑑」など朝日新聞社刊の「中国文明選」シリーズもあり、教養の厚みを感じさせた。

 蔵書の発送は、アジア諸国への本の寄贈を続けているNPO法人アジア図書館ネットワーク(岩崎輝行代表)のメンバーら5人が、藤沢市の自宅を訪れ、本箱の蔵書を次々と段ボール箱に詰めた。

 NPOの花房征夫副代表(77)によると、3LDKのマンションには約6000冊の蔵書が残された。その後、マンションを訪れた人が持ち帰るなどしたため、最終的に残ったのは約4500冊。うち、ソウル大学の日本研究所とアジア文明学部に約600冊ずつ計約1200冊を送ることにした。リスト作成や輸送費にパチンコ大手マルハンの支援を受けたという。

ソウルは、明さんが多感な小中学校時代を過ごしたところ。人間形成に大きな影響を与えたと思う。韓国への関心は生涯衰えることがなかった。蔵書はソウルへ「里帰り」した。

 

韓国・朝鮮問題の師

 私が田中明さんと初めて会ったのは1977年の8月。勤務していた朝日新聞社から韓国への語学留学を命じられ、西部本社社会部福岡総局から東京本社外報部に移った時だった。明さんのお名前は、当時の外報部長から教えられたと思う。本社のあった有楽町の小料理店で一杯やりながら、いろいろなお話をお聞きした。これがその後、何十年と続く明さんとのおつきあいの始まりだった。

 明さんは会社の先輩であるが、同時に韓国・朝鮮問題の師であった。私は1985年10月から90年1月まで、ソウル支局長を務めたが、ものの見方で大きな過ちがなかったとすれば、ひとえに明さんの薫陶のたまものである。

 ソウルから帰任後は、定期的に池袋で落ち合い、昼食をとりながらお話を伺うのが通例だった。社内事情、日本の韓国報道、韓国の政治……。話の内容は多岐にわたった。私にとって、明さんは何でも話のできる数少ない一人だった。

 2008年ごろ、私が九州の西部本社管内の支局に単身赴任することになった。明さんは「惜しいねぇ」としきりに残念がってくれた。明さんは私の九州赴任に反対だった。たまの休みで、東京で帰ってきても明さんとは電話で言葉を交わすのが精いっぱいだった。

 昨年5月、約8年間の単身赴任を終えて東京に帰ってきたが、真っ先に帰京を報告すべき明さんはすでに亡かった。胸に大きな空洞が開いた思いだ。

 

韓国へ深い愛着

 明さんは最後の著作になった「遠ざかる韓国-冬扇房独語」(2010年1月、晩聲社)で自らの朝鮮研究の歩みを振り返って次のように率直に述べている。

 「自分の韓国・北朝鮮に対する関心は、知的なモチベーションによるものではなく、全く私情によるものだった」

 「私は小中学校時代を戦前の京城(現ソウル)で過ごしたり、戦後は新聞社に勤務したおかげで、上質の韓国人に多く巡り合うことができた。だから、そういう人々の国が発展して良い国になってほしいと思った。『あんないい人たちの国だから、ぜひ良くなってほしい』と願ったのである。あの国に事故や混乱が起こると、『あの人たち』の心情を思い、胃が痛くなった。どう見ても私の朝鮮研究は冷徹な『研究者』のそれではなかった。」(245ページ)

 「つまらぬ老書生の心情を連ねて恐縮だが、それでも隣国の多幸を念ずる気持ちはいまも変わらぬ、とつけ加えて擱筆する。二〇〇九年一一月」(246ページ)

確かに田中明さんの韓国に対する見方はいつも厳しかった。しかし、その底には深い愛着と暖かい心情があった。だから、韓国の現状に対して「これではならじ」という気持ちが働き、しばしば「激語」を発することにもなった。だが、明さんはいつも韓国と向き合うことで日本を考え、自らを鍛え上げられたのではないかと思う。

 明さんの蔵書をながめていると、まだ、明さんがご存命のように思われる。そして、会う時間の約束をする時の「じゃーねぇ、○時に」という声が耳に蘇る。明さんの言葉は私にとって、いつも怠惰な自らを叱咤する言葉だった。(以上)

 

「田中明さんの蔵書を箱に詰めるNPO会員ら」(田中良和撮影)

更新日:2022年6月24日