1年経っても制裁の足かせは緩まない

(2019.6.18)岡林弘志

 

 世界中の注目を集めたシンガポールでの米朝首脳会談から1年--。はっきりしているのは、北朝鮮の非核化は進まず、北朝鮮への経済制裁もそのままということだ。北朝鮮にとっては、経済再生のカギを握る経済制裁の継続は、きついきつい足かせとなって、金正恩国務委員長のスローガンである「人民生活向上」へ第一歩を踏み出せないでいる。ストレスは募る一方だ。

 

「美しい手紙」とトランプはご機嫌だが

 

 「美しい手紙を受け取った」「とても温かい、とてもナイスな手紙だった。感謝している。前向きなことが起こるだろう」(6・11)。トランプ米大統領は、金正恩から親書を受け取ったことを紹介して、ご機嫌だった。具体的内容はわからないが、とにかくトランプの機嫌をよくするような内容だったらしい。

 

 シンガポール会談から1年(6・12)に際して、送ってきたのだろう。肝心の「北朝鮮の非核化」に言及しているか、内容は明らかにされていない。ただ、トランプは「関係はとてもよい。この間、人質も遺骨も返された。核実験も長距離ミサイル実験もない。(金正恩は)約束を守っている」と、この1年の成果を羅列して見せた。

 

 しかし、北朝鮮から見ると、米韓合同軍事演習中止の他は、何の成果も上がっていない。過去2回の会談で、強く求めた「体制保証」「経済制裁解除」は、全く進展がない。トランプの側近や実務レベルでは、後に述べるように、対北包囲網を厳しくする方向に動いている。金正恩としては、トランプの機嫌をとって、なんとか閉塞状態に風穴を開けようとしているのだろう。

 

 第3回の首脳会談について、トランプは急いでいない。2回会談で求めたように「ビッグ・ディール」を北が受け入れるのでなければ、これからの最大関心事である来年の大統領選再選に向けて、プラスにはならない。3回目をやっても進展がなければ、むしろマイナスと考えているのだろう。金正恩の思惑は、簡単には通じそうにない。

 

イライラを募らせ、マスゲーム中止

 

 「敬愛する最高指導者は、大マスゲームの創造メンバーを呼びつけて、誤った創作・創造気風、無責任な働きぶりについて深刻に批判した」(6・4朝鮮中央通信)。金正恩は、平壌のメーデー・スタジアムで始まったばかりの大マスゲーム・芸術公演「人民の国」を鑑賞して、「深刻に批判」したのだから大変だ。銃殺もいとわない指導者だ。公演担当者は顔を真っ青にしてふるえたに違いない。

 

 大マスゲームは、言ってみれば北朝鮮名物。毎年行われるわけではないが、なんと今年は、始まったばかりで中止になってしまった。中国の旅行社には、北朝鮮側から「公演の内容を調整するため、数週間中止」という連絡があった。「金正恩氏の不満」のためのようだという。マスゲームは、制裁中の北朝鮮にとって大きな外貨獲得手段になってきた。それでも中止というのは、よほど金正恩のカンに触ったのだろう。それとも、怒りっぽくなっているのか。

 

 金正恩の機嫌はよくない。マスゲーム前には、北西部に位置する慈江道の江界市と満浦市の都市建設を視察(6・1)、「なんの計算もなく雑多に展開して、建物が無秩序に配置されている」と叱咤。続いて視察した平南機械総合工場(6・2)でも、「工場を近代化した結果が製品に現れなければならない」と批判した。

 

 金正恩としては、首脳会談が失敗し制裁が継続するなかで、「自立更生」を繰り返し指示している。それなのに、現場は、オレの気持ちをわからずに、相も変わらず、のんべんだらりと働いている。と言いたいのだろう。元をただせば、ミサイル・核にうつつを抜かして、民生経済を二の次、三の次にしてきたためだ。原材料と電力・燃料がなければ、どうにもならない。そのうえ、経済制裁が効いているのだから、何をかいわんや。現場の担当者は哀れだ。

 

会談失敗の責任はとらなければならない

 

 もう一つ、今回の首脳会談の失敗の責任を誰がとらされるか。注目していたところ、朝鮮日報(5・31)が、金革哲・国務委員会米国担当特別代表は銃殺、金英哲・労働党副委員長は強制労働と思想教育、金正恩の妹、金与正・党扇動部第一副部長は謹慎、通訳らは政治犯収容所送り――と、特ダネ風に報じた。このころ、粛正についての様々な情報が飛び交った。

 

 うまくいかない度に、担当者を処罰していたら、いくら人材がいても足りなくなるのでは、などと思っていたら、なんと、金正恩が軍部隊の芸術公演鑑賞の際(6・2)、金英哲も一緒に鑑賞、朝鮮中央通信がその写真を配信した。また、金正恩の大マスゲーム鑑賞(6・3)では、李雪柱夫人の隣に金与正が座り、金英哲も拍手をしていた。

 

 要するに、朝鮮日報の粛正報道は「ガセネタ」と世界に恥をかかせたということだろう。これまでもよくあった。韓国メディアが粛正などの報道をすると、数日して「南の報道はでたらめ」と揶揄せんばかりに、その人物を北朝鮮メディアに登場させる。情報が閉ざされていることの副作用だ。

 

 しかし、完全に誤報だったかというと、どうも怪しい。金英哲は、姿を見せたのだから、粛正はされず、「党中央委員会幹部」であることは間違いないが、「党統一戦線部長」は解任されたという情報がある。また、金革哲は、いまだ姿を見せず、拘束されて取り調べを受けているとも言われる。もし、韓国の報道がなかったら、処刑されていたかもしれない。

 

 朝鮮日報は誤報だったが、関係者が全く無傷だったわけではなさそうだ。金英哲は、「ハノイからの帰国の列車の中でずっと『席藁待罪(ソッコテジュ)』していた」という情報が平壌で流れているという(6・13東京新聞)。「席藁待罪とは、朝鮮王朝時代、大罪を犯した人物がむしろのうえにひれ伏して、王による処罰を待つ行為」だ。

 

 ハノイ会談が失敗に終わったことの責任を追及したのは間違いない。人民にも期待を抱かせた以上、責任を誰かに押しつけないと、金正恩の責任になる。「神御一人」を守るためには、生け贄が必要だ。独裁体制の宿痾である。その後、対米関係は、党ではなく、崔善姫・第一外務次官を中心とした外務省に移ったという情報もある。しかし、それでうまくいくというものでもないだろう。

 

「瀬取り許すな」「ならず者国家」とさらに締め付け

 

 それにしても、金正恩にとって1年前はよかった。”太っ腹”な所を見せて、最大の敵対国であり世界の超大国、米国の大統領と直接会談できる。それだけでも、大変なことだった。しかも、トランプは金正恩を気に入っている。相手も太っ腹なところを見せて、木っ端役人、取り巻きがなんと言おうと、経済制裁はすっぱり解除するに違いない。必ず解除させてみせる。

 

 しかし今、そんな昂揚した雰囲気は全くない。厳しい経済制裁が、重い足かせとしてかかったままだからだ。中国、ロシア、そして韓国の文在寅政権はなんとか解除したいと思っているが、米国が一歩も譲る気配はない。北との取り引きがばれた企業は制裁の対象に指定する方針を続けている。どうにもならない。

 

 「ならず者国家」(6・1)―。しばらくぶりでこの言葉を聞いた。米国務省が発表した「2019年インド太平洋戦略報告書」に出てくる。台湾の独立性が主なテーマと思っていたら、北朝鮮外務省の軍縮・平和研究所所長が「言いがかりを付けた」と非難していたので知った。安全保障上問題があり、武力行使も止むえない国家に対する用語だ。北朝鮮にとっては大事だ。

 

 そして、「瀬取りを見逃すな」―。米国国連代表部は、25カ国の連名で安保理北朝鮮制裁委員会に報告書を提出した(6・11)。海上で北朝鮮の船が石油精製品を密輸入したのは79回に上り、決議による年間の上限50万バレルを越えたという。合わせて、シャナハン米国防長官代行は、中国の魏鳳和国防相と会談(5月末、シンガポール)した際、瀬取りの証拠写真32枚を手渡した(AP通信)。瀬取りは中国沖で、相手はほとんど中国船籍だ。ちゃんと取り締まれという圧力だ。

 

 米国では、ハノイ会談の前後から、対北強硬派が存在をましてきた。過去の対北交渉の教訓として、核開発の芽を残しておくと、元の木阿弥になる。段階的に見返りを与える「サラミ戦術」に乗ってはいけない。完全な非核化がなるまで締め付けを緩めてはならない。制裁は、緩むどころか、さらに厳しくなっている。

 

トランプの「深情け」に動きがとれず

 

 いつもの北朝鮮なら、ここでケツをまくるところだ。しかし、始末が悪いのはトランプだ。「金正恩委員長は信頼できる」と言い続けている。これでは、北朝鮮の有力な外交手段である「脅し」が出来ない。米国が、首脳会談に応じたのは、北朝鮮が数年にわたって核ミサイルで脅した成果でもある。しかし、いま軍事的な脅しは使えない。

 

 もし、やったら、北朝鮮は再び「米帝」の圧倒的軍事力の恐怖に怯えなければならなくなる。トランプは予測不可能だ。もし、北朝鮮が再び核・長距離誘導ミサイルの実験をやれば、トランプのメンツは丸つぶれ。これまで以上の強攻策に打って出る恐れが強い。それこそ「ならず者国家」を消滅させる所まで行くかもしれない。金正恩にはそこまでやる度胸はなさそうだ。

 

 といって、静かにしていれば、なんとかなるわけでもない。とにかく経済制裁は効いたままというのがなんともならない。じわじわとクビを絞められているようなものだ。いわば、八方ふさがり。なんとも奇妙な立場に置かれてしまった。

 

 「米国が対朝鮮敵視政策に執着するなら、6・12朝米共同声明の運命は約束されない。我々の忍耐心にも限界がある」(6・4)。北朝鮮外務省スポークスマンは米国を非難。翌日には、先に触れた外務省軍縮・平和研究所長が「ならず者国家」というのは「力で我々を屈服させようとする侵略的意図がある」と、立て続けに非難。

 

 しかし、先に金正恩が「忍耐にも限界がある」「今年末までは米国の勇断を待つ」(4・12施政演説)と、通告した範囲内だ。おそらく国内の忠誠ごっこの一環として、アリバイ証明のようなものだろう。金正恩が年末まで待つと言った以上、下っ端が何を言おうと対外的には意味がない。

 

 いまの北朝鮮の言い分は、「わが政府は6・12共同声明以来、朝鮮半島の非核化実現のため努力を傾注、実践的措置を主導的にとるなどできる限りの努力を尽くした」(6・4外務省談話)というところにある。豊渓里の核実験場の爆破や寧辺の核施設廃棄の提案など、実際に核廃棄に向けて努力をしているじゃないか。今度は、米国が体制保証、制裁解除に努力しろということだ。

 

 しかし、米国の不信感は強い。1990年代、2000年代の北の「核放棄」にだまされた苦い経験があるからだ。北朝鮮が本気で「完全な核放棄」をする気があるかどうか疑問だからだ。もっと言えば、金正恩独裁体制は、核なしで存続できると確証を持つ所まで決断すると見ていないからだ。

 

「制裁」だけが続いていく

 

 金正恩にとっては、最も悩ましいところだ。これまで、体制の”守護神”として核に突っ走ってきた。このため周辺国の敵視を招いた。それをテコに外からの恐怖を煽り、メシの食えない人民を押さえつけてきた。核は、独裁体制維持と表裏一体切っても切れないものになっている。

 

 さらに、基本的疑問は、核を放棄して体制維持が出来るかだ。金正恩が教訓としていると言われるように、核を放棄したリビアのカダフィは殺された。つい最近は、核放棄を約束したイランに対して、トランプは信用できないと、前政権が締結した合意を破棄し、経済制裁を課している。「体制保証」を約束されても信用できるか。「丸裸」になったとたん、「独裁はダメ」と言うのではないか。疑心暗鬼はぬぐえない。

 

 金正恩は、トランプが相手なら、北朝鮮を核保有国として認めさせ、さまざまな取り引きが出来ると確信、首脳会談を提案した可能性が高い。1年前のシンガポール会談は、その思惑通りに進んだ。共同声明では、「北朝鮮の非核化」でなく「朝鮮半島の非核化」という北の長年の主張が明記されたことによく現れている。

 

 しかし今や、小手先のテクニックやトランプをおだてれば、なんとかなるというというレベルの話ではなくなった。米国は「北朝鮮の完全な非核化」を求めて、一歩も引かない。この1年でより明確になってきた。金正恩は、進むも思うようにならず、後退も出来ない。ただ、制裁継続で足元はおぼつかなくなっていく。「年末まで待つ」と米国の変化を促しているが、金正恩がどうするのかを周辺国は注目している。

 

更新日:2022年6月24日