平昌オリンピック劇場 “薄氷の湖”

(2018.2.16)岡林弘志

 

 平昌冬季オリンピックは、開幕から数日の間、さながら北朝鮮のために開かれたようだった。主役は、金正恩・労働党委員長の妹だ。南北首脳会談を持ちかけ、あたかも、南北融和の先頭を走る女神の如く振る舞った。北朝鮮は、国際社会の警告にもかかわらず、核ミサイル開発に突っ走ってきた。ここへ来て、経済制裁の締め付け、米国の軍事攻撃の恐れに悲鳴を上げての窮余の一策と見た方がいいのではないか。韓国内には、融和ムードも漂うが、いつまで続くのか。

 

「早く平壌に来て、後世に名を」

 

 「(金正恩)国務委員長の特命を受けてきました」(2・10)。金与正・党宣伝扇動部第一副部長(30?)は、文在寅・韓国大統領との会談で、こう名乗ったうえで、金正恩からの伝言として「早い時期に面会する用意がある。都合のいい時期に訪朝して欲しい」と述べた。米国の通信社が数日前に予測したように、「訪朝要請」の大ニュースが飛び出た瞬間だ。

 

 金与正は、続けて「これが金正恩委員長の意思です」と、金正恩の親書を手渡した。金一族の直系が訪韓するのは初めてとあって、文政権を喜ばせたが、「特使」であることは事前に韓国側には伝えられていなかった。ところが、金正恩の分身として、訪韓し、会談に臨んでいることを、簡潔明瞭に表明して、文在寅を驚かせ、さらに喜ばせた。

 

 そのうえで、金与正は、「早い時期に平壌でお会いできたらうれしい」「首脳会談をやれば、北南関係が急速に発展できる」「文大統領が統一の新たな扉を開く主役になり、後世に残る跡をとどめることを望む」と、早期の南北首脳会談を促した。いや、いや、えらいものだ。「あんた、歴史に名が残るようなことをしなさいよ」と35歳も年上のおじさんを諭している格好だ。

 

 ついでに、もう一つ言うと、過去2回首脳会談があったが、いずれも平壌だ。朝貢ではあるまいし、普通なら、今度は北朝鮮側がソウルを訪問する番だ。たしか盧武鉉大統領の時、次は金正日総書記が韓国へ行くことになっていたはずだ。一方的に、こっちへ来いというのは、常識では失礼という。

 

 これに対して、文在寅は「今後、条件を整えて実現させよう」と、早期訪朝についての即答は避けたが、満面の笑みを浮かべて、心中大歓迎であることを色濃くにじませた。金与正は3日間の滞在(2・9~11)だったが、この間、文在寅は4回も顔を合わせ、おそらく国賓以上の厚遇ぶりを見せた。

 

 ちなみに、韓国側による食事付きの接待は、ペンス米副大統領が1回、安倍首相は0回。これに比べると、金与正は破格の扱いであることがよくわかる。どちらが同盟国か、連携が強いのか、わからない。これでは足下を見られる。

 

さすが「宣伝扇動」部門のボス

 

 それにしても、金与正はしたたかに「特使」としての役割を演じて見せた。そして、韓国のテレビは、その一挙手一投足を追いかけ、その姿を韓国民に知らしめた。仁川空港に降り立ち、新幹線で平昌五輪の開会式へ向かう際は、いかにも護衛官であることを示すサングラスの屈強な男達に囲まれて移動。背筋を伸ばし、颯爽とした姿を見せた。

 

 一方、文在寅と共に、開会式に参席し、あるいは会談に臨む際には、笑顔を見せて挨拶するなどソフトな振る舞いを見せた。また、晩餐会で韓国側が雑談で、「南北ではイカとタコの呼び方が正反対」というと、「そこから統一しましょう」と即妙の受け答え。頭の回転の良さも見せた。

 

 金正日総書記は生前、「男だったら、後を継がせたい」と言ったというが、訪韓中、終始物怖じすることもなく振る舞い、さもありなんと思わせた。韓国側と対するときは、頭を下げることなく、わずかに顔を上向きにして、卑屈に受け取られるような振る舞いは絶対にしない。また、笑顔を見せても、心の底から笑っている感じはなく、冷徹な計算のもとづいて、という印象を受けざるを得なかった。さすが「宣伝扇動」部門のボスだけのことはある。

 

 ただ、敵対関係にあり、南北関係がかつてなく冷え込み、国際的な包囲網が強化される一方のこの時期に訪韓というのは、度胸のあることだ。韓国には北朝鮮を不倶戴天の敵とみる人たちもいる。まさに敵地に乗り込む心地、命懸けといっても大げさではないだろう。金与正の訪韓は、金正恩が言い出したか、本人が名乗り出たのか、そうでなければ、実現しない。いずれにしても本人が承諾してのことだ。

 

 金与正は、北朝鮮で唯一、金正恩に直言できる人物、他の取り巻きとは段違いに、信頼の厚い肉親だ。従って、いまの金正恩体制のもとで、金与正の特派は、最強の外交カードだろう。後で、触れるが、金正恩にとっては、南北関係の和解・推進は、最重要課題、あるいはそれだけ切羽詰まった状況にあるということだ。

 

美女楽団もあの手この手で

 

 「三池淵管弦楽団」の派遣もその延長線上にある。北朝鮮には金正恩肝いりの「牡丹峰楽団」など、宣伝扇動のための楽団がいくつもあるが、あらためて、韓国派遣のため、特別にあちこちの楽団から選りすぐって結成されたようだ。今回、江陵とソウルで2回公演があった。

 

 スタイルがよく、美形のメンバーは、韓国の特に若い世代の関心を集めた。いくつか、ユーチューブで見たが、驚いたのは北で流行った「駆けていこう、未来へ」だ。軽快なポップ調、楽団をバックに5人の女性が登場、明るいえんじのノースリーブ、黒のレザーの短パン、白のスニーカーという砕けた服装で、マイクを握り歌いながら、手足腰を激しく動かして、舞台一杯踊りまくった。

 

 また、金正日、金正恩が好きな、ギター、ベース、バイオリンなどの電子楽器を使った演奏、そして、80年代韓国で大流行した「Jエゲ(Jへ)」も演目に。北朝鮮でもし、一般の人民がこの歌を歌ったら、直ちに収容所だ。「J」という頭文字の異性が好きになったという歌詞。北から見れば、米国かぶれ、軟弱の典型のような歌である。韓国への大サービスなのだろう。

 

 この楽団の玄松月団長は、かつていくつかの楽団のトップスターだった。今回、事前の打ち合わせにも韓国に来ており、韓国メディアの追いかけを受けた。ソウル・国立劇場での公演では、金与正の近くの席で見ていたが、団員に呼ばれた格好で、舞台に出て、「風邪でのどの調子がよくないが」と言いながら、40代ながら、衰えない声量で、一曲披露した。

 

 曲目は「白頭と漢拏は我が祖国」。南北にある一番高い山を象徴として、一日も早い統一を願うという内容だ。そして、玄松月は、元々の歌詞にはない「独島(竹島)も我が祖国」という文句も入れ、韓国の客席は大喜び。「アンコール」のかけ声まで出た。何が何でも、韓国の民心を取り込もうという意図がありありだ。

 

さらに「南北関係を進めろ!」と指示

 

 「今回のオリンピックを契機に、北と南の和解と対話のよい雰囲気をより消化させ、立派な結果を積んでいくのが重要だ」(1・12朝鮮中央通信)。金正恩は、高官代表団が帰国した翌日、メンバーを呼んで、報告を聞き、訪韓の成果を高く評価し、「満足の意を表し」、ともに記念写真を撮った。

 

 ここでも、金与正は、文在寅らとの「接触状況、活動期間(韓国滞在中)に把握した南側の意中と米国側の動向を詳しく報告」した。そして、金正恩は「今後の北南関係改善の発展方向を具体的に提示し、当該部門の実務的対策の綱領的な指示」をしたのである。何が何でも南北関係を進めろと命令したのである。

 

 今回の代表団訪韓は、金正恩が「新年辞」で、平昌五輪への参加と南北協議に意欲を示したことから始まった。もともと対北融和の傾向が強い文在寅は、これを大歓迎。短い期間に高官会談(1・9)、実務協議(1・15)が行われ、金正恩の提案は、とんとん拍子で実現した。

 

珍しく「じっと、じっと我慢の子」

 

 今回、意外だったのは、従来の南北協議に比べて、北朝鮮のいちゃもんが非常に少なかったことだ。ただ、韓国の提案だった金剛山地区での合同文化行事(2・4)については、韓国のメディアが北の軍事パレード(2・8)を批判したことを理由に中止しただけだった。

 

 韓国内では、突然の女子アイスホッケーの南北合同チームや、開会式での統一旗を掲げての入場行進などについて、金正恩の似顔絵などを燃やしての抗議行動、批判するメディアの報道もあった。これまでなら代表団の派遣中止となるところだ。また、金与正が行く先では、対北非難の集会やデモもあったが、予定を変更することもなかった。

 

 北朝鮮が、最も神経質な米韓合同軍事演習について、マティス米国防長官と宋永武韓国国防省がハワイで会談(1・27)。平昌五輪のあと、直ちに実施を確認という報道もあったが、代表団派遣に影響はなかった。北の芸術団を乗せてきた万景峰号が、韓国側に多量の燃料提供を要請、韓国側が制裁を理由に断ったところ、あっさり引っ込めたという。

 

 また、「三池淵管弦楽団」もだ。公演のリハーサルで、韓国側が金体制礼賛の歌詞を変えるか、他の作品に替えるよう求めると、玄松月団長は、宿舎代わりの「万景峰号」に帰ってしまうということもあったという。しかし、その後は、韓国側の要請を受け入れた。「白頭と漢拏は我が祖国」の歌詞は「太陽民族」という単語がある。「太陽」は、北朝鮮では故金日成主席を指す。この部分は「わが民族」に言い換えた。「牡丹峰」の中の「我々の平壌がよい、社会主義建設がよい」という部分は歌わなかった。(2・13中央日報)。

 

 1昨年12月の中国公演では、中国側から内容にクレームが付けられ、公演開始のわずか3時間前に帰国ということもあった。今回は、それでもじっと我慢の子。おそらく、金正恩にお伺いをたてたところ、とにかく公演をやれという命令が来たのだろう。

 

 オリンピックは、これまでも政治の影響を受け、翻弄されてきた。それでも、今回の北朝鮮のように、あからさまにこの場を利用したのは、珍しいのではないか。

 

包囲網突破、米軍の脅威阻止に必死

 

 こうした経緯を考えると、金正恩がいかに必死で南北対話を望んでいたかがわかる。といっても、地域や朝鮮半島の安定を考えてのことではない。それだけ、経済制裁と米韓演習で誇示される米国の戦略兵器、強いて言えば、米軍の北朝鮮攻撃を恐れているかということだ。

 

 このまま行けば、北朝鮮に「とどめを刺す」とまでは行かないにしても、今年前半、これまでにない困難に直面するはずだ。そのタイミングで、平昌オリンピックが決まっていた。しかも、文在寅は繰り返し話し合いを要請している。北朝鮮にとってこの機会を利用しない理由はない。今回のオリンピックは救いの神だった。

 

 今回の対話攻勢は、韓国をとっかかりに経済制裁に風穴を開け、米軍の脅威が及ばないようにするためだ。そうでないと、金正恩体制は持たない、危機に瀕しているのである。最初から、金与正という“切り札”を出してきたことからもよくわかる。

 

 それと、いかに韓国が与しやすしと見られていることもよくわかる。文在寅は、盧武鉉大統領の秘書として、南北交流、首脳会談にも直接関わってきた。このため、大統領立候補の時から、対北融和を旗印の一つに掲げている。そして、いまの青瓦台のスタッフも、対北融和指向の強い学生運動出身が多い。

 

 今回、北朝鮮の代表団は、政権幹部から、“あこがれの国”から来たVIPとも言えるような扱いを受けたのではないか。応対する青瓦台スタッフの目一杯の笑顔、丁寧な対応がそれを物語っている。金与正らは、韓国は利用するに十分な状況にあること、とりわけ米韓演習中止に向けて米韓にくさびを打ち込み、揺さぶりをかけることができる可能性大と、報告したに違いない。少なくとも、文政権はそう思わせるような対応をしたようにみえる。

 

北朝鮮の核ミサイル堅持に変更なし

 

 金正恩は、すでに南北関係改善の「実務的、綱領的指示」を行った。これから金与正がこの面の実務を束ねることになるのか。また、文在寅も政府に高位級協議などを通じて、次の段階に進むため具体的に詰めるよう指示をした。

 

 しかし、立ち止まって見ると、南北関係の冷え込み、経済制裁、米韓演習の強化などを招いた肝心の北朝鮮の核ミサイル問題は、まだ一歩も動いていないのである。オリンピックの最中ということもあっただろうが、政治向きの話、特に核ミサイルについては全く言及しなかった。もちろん、北の代表団も核ミサイル、米韓軍事演習については触れなかったようだ。

 

 しかし、北朝鮮は平昌五輪開幕のまさに前日(2・8)、これ見よがしに軍事パレードを行った。しかも、この日をわざわざ今年から「人民軍創建記念日」に指定してのことだ。そして、金正恩は閲兵式で「世界的軍事強国の偉容を誇示した」と強調、米国に届くという「火星15」を初め、「火星14」「火星12」などの弾道ミサイルをこれ見よがしに、参加させた。

 

 この演説では「核・ミサイル」「米国への攻撃」などの言葉使わず、恒例のテレビ生中継は行わず、夕方になって録画中継をした。このため、周辺国を刺激しないように配慮したという見方もあるが、「核ミサイルは何があっても手放さないぞ」という決意に変わりはない。韓国への対話攻勢は、決して核ミサイル開発推進の方針変更ではない。窮地を脱するための一策であることがよくわかる。

 

「平昌」後の米韓演習が最初の試金石

 

 問題は平昌オリンピックという“宴”の後だ。最初の試金石は、平昌五輪終了(パラリンピックは3・18まで)後の米韓軍事演習だ。例年2月末から3月にかけて始まるが、今年は米韓の合意で、終了後まで延期されている。米国は、「平昌後に必ず実施」と繰り返している。

 

 北朝鮮がこれに反発するのは必至だ。金正恩は平昌五輪参加を表明した「新年辞」で「南朝鮮当局は、米国の核装備と侵略兵力を引き入れる一切の行為を辞めるべきだ」と述べている。これには当然米韓演習も入る。間近に飛来する米国の最新鋭戦略装備が恐ろしいのである。米韓演習実施となれば、北朝鮮はどう出るか。

 

 米国と韓国への非難を繰り返し、韓国に交流・接触中断を宣告すれば、五輪前と同様、経済制裁は今まで通り継続し、米韓演習も予定に従って、実施される。昨年末に金正恩が感じた極限状態がぶり返すことになる。これまでのように、強持てで、罵詈雑言を浴びせていればいいのか。ここも我慢をするのか。

 

 韓国も舵取りが難しい。文政権としては、米韓演習は無期延期として、できれば米朝接触の橋渡しという役目も果たしながら、南北関係を一層進めたい。それには、米国の同意が不可欠だ。いかに対北融和派であっても、政権を担い、国家国民の安全を最優先で守る立場からは、現実的な選択をせざるを得ない。

 

 しかし、トランプ政権の説得は容易ではない。平昌五輪の開会式に参列したペンス副大統領は、北朝鮮代表団との同席も避けた。韓国側が接触を勧めたが、固辞した。そして、北朝鮮に撃沈された韓国の哨戒艦「天安」の展示場を視察した。北のお為ごかしの対話攻勢にはだまされない意思表示だ。

 

 北朝鮮が核ミサイルにしがみつく中、今回の南北接触をどう展開させていくのか。平昌オリンピックのフィギア競技のように、華麗なステップを踏んでとは行かない。北朝鮮も韓国も、ともに薄氷を踏むような慎重なステップを強いられる。そして、北朝鮮と周辺国との間の熱い氷を溶かすのは容易ではない。

 

 

更新日:2022年6月24日