クシの歯が抜けるように

岡林弘志

(2016.8.26)

 

 「クシの歯が抜けるように」と言ったら、ちょっと大げさか。北朝鮮の大物外交官ら”核心層”の亡命・脱北が相次いでいる。外国の空気を吸った外交官にとって祖国はあまりに異常だ。それに、外交ならぬ、外貨稼ぎに尻をひっぱたかれる。国際的な経済制裁がそれに拍車をかけている。金正恩・労働党委員長は、頭から湯気を沸騰させて怒り心頭だ。しかし、自らの蒔いたタネだ。

エリートが「多額の国家資金を持って」脱北

 「これまでの脱北外交官では最高位」(8.17)。韓国統一省は、北朝鮮のテ・ヨンホ(太英浩?)公使が妻子とともに、韓国に亡命したと発表した。その後の報道によると、テ公使は、55歳、10年前からロンドンに駐在、数週間前から行方がわからなかった。2001年にベルギーで北朝鮮とEUの人権対話が開かれた際は、北朝鮮代表団の代表を務めた。まさに働き盛りのエリート外交官だ。

 もう一つ、テ・ヨンホは、「抗日パルチザン経験者の一族」という核心層の中でも上の方の特権階級の出身ということだ。韓国紙が一斉に報道したところによると、父親は、故太炳烈・人民軍大将、パルチザン時代、金日成の伝令兵として活躍した。また、妻オ・ソネ(?)(50)もやはりパルチザン出身の故呉白龍・労働党中央軍事委員の一族、父親は、呉琴鉄・人民軍副総参謀長(亡命発覚で降格?)という。

 北朝鮮の外交官は、通常、妻やこどもの一人を「人質」として、平壌に残すことになっている。しかも、任期は3年ほどで交代する。いずれも、「亡命」を防ぐためだ。テ・ヨンホが10年も同じ任地にいられたのは、「出身成分」が格別よく、金正恩のおぼえもよかったからだろう。

 「今回は人間のくずまで引き込んで反共和国謀略宣伝と同族対決に利用している」(8.20朝鮮中央通信)。北朝鮮にしては、珍しく、早々にテ・ヨンホの亡命を認め、韓国を非難した。「人間のくず」なら放っておけばいいものを、無視できなかったのは、いかに衝撃が大きいかの裏返しだ。

 さらに、テ・ヨンホについて「多額の国家資金を横領し、国家機密を売り渡し、未成年強姦犯罪まで働いた」と罪状を並べ、6月に召喚命令を受けていたという。ということは、欧州における秘密資金作りに深く関与していた、あるいは責任者だったことも考えられる。本当なら外貨不足の北朝鮮にとっては、大きな痛手だ。北の非難が、かえって大物であることを裏付けている。

 となれば、召喚に応じて帰国すれば、家族もろとも公開処刑だ。「成文」がいいことを考慮しても、過酷な政治犯収容所送りは免れない。どうせ、殺されるなら逃げた方がいい。罪状はともかく、テ・ヨンホが帰国命令に従わなかったことは間違いない。

北で子供は生きていけない

 「移民型脱北」。亡命の動機について、韓国当局はまだ明らかにしていないが、韓国メディアには、当局者のこんな見方を紹介している。かつての脱北者は、犯罪で捕まりそう、食べていけないなど切羽詰まった動機が多かった。しかし、今回は子供らの将来を考え、より住みやすいところを求めての亡命、という意味だろう。

 その根拠として、子供の事情をあげている。テ・ヨンホの長男、ジュヒョク(26)は、大学で公衆保健の学位をとっており、次男グムヒョク(19)は成績優秀、英国の一流大学への進学が決まっている。しかも、西洋の音楽、アニメ、ゲームなどに親しんでおり、とても、平壌では暮らしていけない。

 特に、次男はデンマークで生まれと言われ、「上御一人」に絶対服従を誓い、ひたすら忠誠を尽くしてやまない、という教育は受けていない。このまま、帰国して、大学に入っても、周囲に溶け込むことは無理だ。親子がそう判断してもおかしくはない。子供が両親に亡命を強く求めたという解説もあった。

 テ・ヨンホ一家の情報については、韓国紙の報道は、かなり微に入り細にわたっている。テ・ヨンホの英国共産党での講演内容や、長男の提出論文のタイトル、次男がゲームマニア、アニメ「ドラゴンボール」のファン、銃を撃つゲーム「カウンターストライク」の累積ゲーム時間は昨年だけで368時間に達した――。韓国の情報機関は長い間、この一家をカバーしてきた、そして、すでに大まかな事情聴取は終えたのだろう。

外交官は外貨稼ぎの使い走り

 テ・ヨンホ一家の亡命が、「移民型」というネーミングが適当かどうかわからないが、一方で、最近の対北経済制裁が背景にあるのは間違いない。本人が「創意的な方式で現金を用意しろと圧力を受ける」と、親しい英国人に漏らしたという報道もある。ずっと以前から、北の外交官の主要任務は、外交活動はさておき、外貨稼ぎ、秘密資金作りだ。

 株式をはじめとした金融商品による金儲け、はてはノータックスの洋酒やたばこを買い入れて、差額をもうける。麻薬売買、運搬など、外交特権を悪用して、外貨稼ぎの使い走りをさせられ、現地や移動先の税関、捜査機関に摘発される例も少なくなかった。

 最近、対北経済制裁が厳しくなったのに伴い、北朝鮮は慢性的な外貨不足だ。外交官や外国駐在員への外貨獲得・上納の圧力は格段と増している。この春、中国の朝鮮レストランの従業員が集団脱北をした(4.8)。これも外貨稼ぎの目標が高すぎて、とうてい実現できず、このままでは本国召還、処刑は間違いなしを恐れてのことだった。レストラン従業員も、出身成分がよく、特に女性は、大学、芸能学校を出て、歌舞音曲に秀でたエリートだ。

増えるエリートの脱北

 「今年前半の外交官の亡命は10人に迫る」「昨年1年で10人だったが、今年はすでに7人を超えた」。韓国のメディアは、今年になって増えた外交官の亡命に注目している。今年初めには、ブルガリアの外交官一家、4~7月にはアジアの3カ国から、7月にはロシアのサンクトペテルブルク駐在など、具体的な例をあげている。韓国当局はほとんど公にしていないが、そのくらいの数にはなりそうだ。

 最近、欧州で労働党資金を管理していた駐在員が行方不明という話もある(8.19聯合ニュース)。「労働党39号室に所属する人物が昨年、いなくなった。この人物は、欧州に20年間生活し、当時、数十億ウォン(数億円)の資金を抱えていたと承知している」という消息筋の話を紹介している。現在、欧州内の国に家族と一緒に滞在中で、現地当局の保護を受けているという。

 香港で7月中旬に開かれた国際数学オリンピックに参加していた北朝鮮の学生(18)が韓国領事館へ駆け込み、亡命を求めた。この学生は他の5人とともに参加していたもので、当然北が誇るべき頭脳の持ち主、エリート中のエリートだ。

外国を知ったエリートのたどる道

 外交官をはじめ外国に駐在できるのは、北朝鮮では恵まれた職業、階層だ。先にも触れたが、成分がよく、思想も志操も堅固でなければならない。北朝鮮は「地上の楽園」と信じているかどうかわからないが、任地では、いかに北朝鮮が優れた指導者を抱き、人民はその懐で、快適に暮らしていることの宣伝マンだ。しかし、今さら、そんなことを信じる国はないし、それでも言い張れば、嘲笑されるだけだ。

 しばらくいれば、北朝鮮がいかに閉鎖的で異常な国かはよくわかる。その家族も同様だ。しかも、主たる仕事は、犯罪まがいのことまでして外貨を稼いで、本国に貢ぐこと。そのカネは、北朝鮮の孤立をさらに招く核・ミサイル開発、あるいは金一族の神格化事業で浪費される。人民の生活はいっこうに向上しない。これでは、何のための外交官か。

 そして、要求通りの外貨稼ぎができなければ、帰国してもいい生活が保障されない、それどころか職務怠慢、忠誠心が足りないと追求され、あるいは問答無用で犯罪者扱い、一家で強制労働、教化所送りとなれば、亡命以外の道はない。かくして、外交官、特に家族も一緒に外国にいるエリート外交官ほど、亡命を目指すということになる。

 それに、金正恩の容赦ない恐怖政治が亡命を促す。北の独裁体制は粛正が伝統の一つだが、金正恩の治世になって、あまりに安易な処刑が増えている。人民軍首脳をはじめ、数多くのエリートが、その犠牲になった。その恐怖のうえに金正恩体制は成り立っている。エリートと言っても安穏としていられない。恐怖におののき続けるか、亡命して恐怖から逃れるか。多くの外国駐在員が選択を迫られているに違いない。

「脱北者は抹殺しろ!!」

 「米国が自分を人権犯罪者扱いしていると言って激怒し、拳銃に実弾を装填して辺りに乱射した」。孫引きで申し訳ないが、聯合ニュースの韓国語版に、うわさとしてこんな話が載っていた(8.22デイリーNK)。赤塚不二夫の漫画だったか、拳銃をやたらぶっ放すお巡りさんが出てくるが、思わずその姿を彷彿させる。

 うわさでは、朝鮮レストランの従業員脱北、最近の外交官脱北に我慢ならず、金正恩は国家安全保衛部、人民保安省の幹部を銃殺させた。真偽のほどはやがてわかるだろうが、さもありなんと思わせてしまうのは、「元帥様」の不徳のいたすところだ。

 「金正恩労働党委員長が、脱北者や韓国人を対象にしたテロ組織の派遣を命じた」(8.23朝日新聞)。韓国政府当局者の話として伝えている。誇り高い独裁者としては、顔に泥を塗られることに我慢がならない。かつて、北朝鮮は、金正日の元妻の甥、李韓永をソウル近郊の自宅近くで殺害した。脱北者の中で最も大物だった黄長燁・元労働党書記を殺害するテロリストを脱北者に紛れ込ませて派遣した。十分にあり得る話だ。

 また、レストラン従業員の集団脱北以来、北朝鮮は、中国を中心に、在住朝鮮人を対象に、査問・調査のプロジェクトチームを複数派遣、工作員も送り込んでいると言われる。締め付けは、一時的には、効果があるだろうが、北がいまの独裁体制を続ける限り、脱北はなくならない。

 金正恩が脱北に怒りまくっている時、恒例ではあるが、米韓合同軍事演習「乙支フリーダムガーディアン」が始まった(8.22~9.2)。北の核・ミサイル施設で攻撃の動きがみえたら、先制攻撃するなどの内容を含む「作戦計画5015」を想定しての演習と言われ、韓国軍5万人、米軍2万5千人が参加している。これもしゃくのタネだ。

「米国の作戦地帯は我々の手中に」

 「わずかな侵略の兆候でもあれば、容赦なく核の先制攻撃を浴びせる」(8.22)。これも恒例ではあるが、人民軍総参謀部は、物騒な警告声明を出した。相手国が軍事演習をやっている最中に、攻撃を仕掛けるのでは、「飛んで火に入る夏の虫」だ。

 それに合わせるように、北朝鮮は潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を発射した(8.24)。約500Kmを飛んで、日本の防空識別圏内に落下した。発射現場を視察した金正恩は「成功中の成功、勝利中の勝利」と大喜び。翌日の「労働新聞」は側近と抱き合って大喜びする金正恩の写真などを大々的に紹介した。

 しかも、「米本土と米国の太平洋における作戦地帯は、すでにわれわれの手中に収められている」。金正恩は、鬱憤を晴らすかのように高揚した談話を発表した。まるで米国と太平洋の制空権、制海権すべてを握ったかのようなはしゃぎようだ。

 確かに、SLBM発射の技術は、格段と進んでいるようだ。韓国国防部は2000km飛行可能と分析している。ただ、やはり合同演習中の韓国の領海、領空などには飛ばさなかった。やぶ蛇になっては大変だからだ。(もっとも、日本は近海に打ち込んでも反撃できないと、見くびられているのはゆゆしきことだ)。

 しかし、これで金正恩は安心かといえば、そうはいかない。軍備拡張にはきりがないからだ。特に米国を相手に有利に立とうとすれば、無限地獄だ。それに、核・ミサイル開発は、亡命防止には何の効き目もない。むしろ外交孤立を招き、亡命を促す。

 金正恩がこれで安心と、ゆっくり寝られる日はなかなかやって来ない。寝苦しい夜が続く。

更新日:2022年6月24日