粛清の余震は収まるか
岡林弘志
(2014.3.11)

 

    張成沢粛清の“大激震”は、いまだに尾を引いているようだ。金正恩第一書記は威力を示すと同時に、残酷さも印象付けた。その正当性を人々に納得させるため、思想教育を大々的に始めた。「思想大国」だったはずだが、独裁者の疑心暗鬼はきりがない。果たして“余震”を収めることができるか。

 

「分派を予防できなかった!」

 

    「革命的な思想攻勢によって最後の勝利を早めよう」―金正恩は、労働党第8回思想活動家大会で、こんなタイトルの大演説を行った(2・27)。この大会は、10年ぶりで、もちろん金正恩体制では初めてだ。

 

    金正恩は「党にとって、最も強力な武器は思想であり、唯一の武器も思想だ」と、思想の重要性を強調。そして、この時期、大会を開いた、あるいは開かざるを得なかったのは、「党内における現代版分派の発生を未然に摘発、粉砕することができなかった」からだ。

 

    口にするのもけがらわしいということか、名前は出てこないが、言うまでもなく、昨年末(12・12)に、「国家陰謀転覆行為」の罪で処刑された張成沢のことだ。かつての粛清とは違って、身柄を拘束する場面がテレビで公開され、わずか四日後の処刑も発表され、内外に大きな波紋を広げた。改めて、引締めが必要と判断したのだろう。

 

「ブルジョア文化」に毒されているのは誰?

 

    「分派の正体」とは、「対外的には帝国主義者の圧力に怖じ気づき、体内的にはブルジョア思想・文化に毒された堕落した思想的変質体であるということだ」と説明している。そのいきつく先は「ほかならぬ反党、反革命」と言っているが、罪名だった肝心の「国家転覆」については、触れていない。

 

    それと、「ブルジョア思想・文化」と言えば、金正恩はどうだろう。冬はつやのある見るからに高級そうなコートを着る、ソウル・江南でみるようなファッションの夫人と手をつないで公衆の面前を歩き、スイスのブランド「モバード」のペアの腕時計をする。お気に入りのバンドに米国映画のテーマソングを演奏させ、ディズニーのぬいぐるみを登場させる。西洋の遊具や設備を輸入した遊園地、スキー場、乗馬クラブを次々に…。これぞまさしく「ブルジョア思想・文化」ではないか。毒されているのは本人だ。

 

    「人の振り見て、我が振り直せ」と言いたくなるが、なかなかそうはできないので、このことわざがあるのだろう。まして、早くも“神御一人”の心地よさを知ってしまった権力者が自分を客観的に見ることはできないのも当然か。

 

「分派は目つきで見抜け!」

 

    また、演説では「もともと、勤労人民大衆は、その本性からして黄金万能・弱肉強食を説くブルジョア思想・文化を排斥する」と“卓見”を披露しているが、まさか自分は「勤労人民大衆」ではないとみているのか。独特の用語を羅列した無味乾燥な演説だが、ときどき興味をひかれる部分がある。

 

    「思想攻勢」をいかに展開するかについても、威圧的な言葉の合間に、妙に具体的な表現が出てきて、興味をそそられる。思想活動において、党の路線と政策を知らなくてもかまわないという「特殊化」を許すなという段落。そうした「分派」は、「思想活動家なら、人の眼つきを見ただけで見抜かなければならない」と指導している。これは大変なことだ。活動家は人相学の心得も必要だ。目つきで分派、反党分子と決めつけられるとなると、もともと目つきの悪い人は人前に出られない。

 

    また、「敵が執拗に浸透させる資本主義の毒素」が北朝鮮に入ってこないように「二重、三重の蚊帳を吊る作戦を展開する」という。かつて冷戦時代に「鉄のカーテン」「竹のカーテン」という表現があった。それに比べると、いまどき「蚊帳」を持ち出すというのは、時代遅れ、いまひとつ迫力がない。「資本主義の毒素」を蚊帳程度で防げると思っているようだ。

 

    もう一つ、「思想闘争を強め、不健全な思想、病癖が内部に入り込めないようにすべき」指示した部分では、「たとえて言うなら、飛行場に雪が降るとき放射除雪機で滑走路に雪が積もらないように、吹き飛ばしてしまうのと同じこと」だそうだ。なるほど、わかりやすい。

 

    しかし、そんな簡単に「害毒」を吹き飛ばせるなら、思想活動もたいしたことはない。わざわざ思想活動家大会を開くまでもないだろう。あるいは、金正恩にとっては、張成沢粛清も雪を吹き飛ばす程度のことだったことを思わず吐露したのか。もっとも、北朝鮮で、放射除雪機は飛行場ぐらいにしかないだろう。古びた道具で雪かきをする人々にとっては、重労働だ。

 

「70年代を模範とせよ!」

 

    別な意味で注目したのは、「1970年代の躍動する気性が全国にみなぎるように」と、「1970年代」を模範として強調していることだ。申し訳ないが、70年代がそんなにいい時代だったということは知らなかった。

 


金正恩は、その理由として「人民あげての集団的革新運動によって、社会主義建設の一大全盛期を開いた」という。具体的には、「世界で初めて税制を廃止」「全般的11年制義務教育を実施」「発展途上諸国と戦う人民に莫大な支援を与えた」ことを挙げている。確かに、70年代は、「7カ年計画」「6カ年計画」が実施され、繰り上げ達成が盛んに宣伝され、工業・農業生産は60年代の2-3倍にのびている(「朝鮮を知る事典」)。

 

    「速度戦」の旗を掲げたその熱気は、「朝鮮画報」などを通じて、当時日本にも伝わってきた。しかし、朝鮮戦争の破壊から同時に出発した韓国は、70年代には、北朝鮮を数倍上回る速度で経済を発展させ、60年代までは北朝鮮のほうが上だったともいわれる経済力、国力を逆転させた。北朝鮮の劣勢が歴然としたこの年代がなぜ模範になるのか、よくわからない。

 

実利より「思想」を重視したツケは今も

 

    ただ、74年には、金正日が、全社会の金日成化」のため「唯一指導体制確立のための重大原則」を打ち出し、後継者の地位を獲得、北朝鮮独自の独裁体制が打ち立てられた。ということは、70年代は、実利よりもイデオロギーというか独裁の論理を最優先にする国家運営を確立した時代でもある。これが、北朝鮮の経済に混乱、疲弊をもたらせ、いまに続いている。

 

    また、東西冷戦の真っ最中のこのころは、ソ連を中心とした社会主義諸国からの特恵で、原資材、燃料、日用品などが安く、あるいはただで国内にもたらされ、それがこの国の経済を底支えしてきた。いわば「底上げ経済」だ。今回の金正恩の演説でも「自力更生」が強調されているが、北朝鮮が自力で経済を運営したことは、おそらく一度もない。

 

    金正恩が言う70年代の「社会主義の威力、集団主義の威力」は、むしろ北朝鮮経済を大きくゆがめる作用をしたとしか見えない。演説の締めくくりでも「革新の炎を燃え上がらせた70年代の躍動する雰囲気が全国にみなぎるように」と繰り返している。この演説は、これからも実利は二の次を宣言したものか。

 

「大会場からその足で人民の中へ」

 

    「攻撃精神で思想戦を巻き起こし、全国を革命的大高揚のるつぼとして湧き立たせる」。金正恩は、あらためて思想戦を全国的に展開するよう指示している。具体的には「分派・反革命」「不健全な思想・病癖」「異質の思想潮流と生活様式」「お決まりの話や同じ方法の繰り返し」・・・こうした輩は徹底的に警戒し、なきものとしなければならないのである。

 

    「皆さん(思想活動家)は、大会場を発ったその足で、兵士と人民の中へ入って党中央の意図を知らせ、新たな覚悟をもって、思想攻勢の出発陣地を占めなければならない」――金正恩は、直ちに学習活動を展開せよと命じた。これに伴って、「最終勝利のための思想的砲門をいっせいに開こう」(2・27労働新聞)というキャンペーンが展開されている。

 

    かつて、「強盛国家」の三本柱のうち「軍事大国」とともに、「思想大国」は実現したと宣言したような気がするが、やはり人民に「金日成・正日思想」を浸透させる作業はきりがないのだろう。「市場経済」が生活に浸透する中、人々は、首領様への忠誠より、カネへの忠誠に傾きがちだ。また、今回の粛清で人々の中に生まれた恐怖感は簡単には消し去れない。思想教育も大変だ。

 

基盤固めに妹も登場

 

    一方で、金正恩にとっては都合がよく、最高人民会議の代議員改選(3・9)が巡ってきて、人脈を強化の機会になったはずだ。もう一つ、この選挙で、金正恩の妹の金ヨジョン投票する姿とともに名前が初めて報道された(朝鮮中央通信の中国語版では「金予正」)。

 

    金ヨジョンは「労働党中央委員会責任イルクン(活動家)」と紹介されたことから、韓国では「党の2大部署である組織指導部か宣伝扇動部副部長の肩書をもっている」(聯合通信)と推測している。独裁者にとって肉親は唯一信頼できる存在だ。叔母の金慶姫が姿を消した代わりに「白頭山の血統」として、顕在化させたのだろう。

 

    しかし、金ヨジョンは「兄弟の中で一番頭がいい」(同)ともいわれるが、まだ27歳のようだ。30歳の最高指導者とのコンビは、あまりに若すぎる。事実上のナンバー2の「粛清」という荒業をした後の始末をどうつけるか。重い課題だ。

 

    思想活動家にとって、学習集会をやることは仕事だろうが、残雪の中、これに動員される人々は大変だ。毎週末の学習会に加えて決起集会などもあるだろう。春窮期を前に、腹の足しにならない「思想」にとられる時間は増えそうだ。

更新日:2022年6月24日