なんとスキー場が模範とは

岡林 弘志

(2013.6.19)

 

 

 さすがヨーロッパ帰り!――思わず、掛け声をかけそうになった。金正恩第一書記が、乗馬クラブに続いて、今度は世界に誇るスキー場づくりの大号令をかけた。しかも、十年ほどはかかる工事を年内に完了しろと命令し、この速さをすべての分野にも広げようと、スキー場の名をとって「馬息嶺速度」と名付け、大宣伝を始めた。食糧難にあえぐ中、三代目のやり方は、見当が外れている。

 

 

 「馬息嶺速度」アピールで10万人集会

 

 

 「『馬息嶺速度』を創造して、社会主義建設の各部門で新たな全盛期を開いていこう」(6・5)

 

 

 金正恩が新たなスローガンをつくり、すべての軍隊と人民に対するアピールを大々的に発表した。ここに出てくる「馬息嶺速度」は、いまや全国民が高く掲げて進むべき一大政治標語として提示されたのである。

 

 

 これを受けて、金日成広場では各界各層の10万人もが参加する大集会が開かれた(6・14)。なぜかメーンになったのは、江原道の洗浦台地の開墾作業員。「『馬息嶺速度』で社会主義建設の各部門で新たな全盛期を切り開き、共和国創建65周年と戦勝60周年を、勤労の成果で輝かそう!」。全国の労働者に向けた手紙を声高々と朗読した。もちろんいつものように、やらせだ。

 

 

 ここに出てくる「馬息嶺」は江原道元山に近くの山岳地帯、現在スキー場の造成が行われている。金正恩がわざわざアピールを出したのは、規模もさることながら、その造成工事の速度を強調したかったからだ。

 

 

 年内に大スキー場を完成させろ!

 

 

 「他国なら10年かかっても完工できない大工事ではあるが、今年中に世界的なスキー場を建設して、人民と青少年に世の万福を享受させる」

 

 

 金正恩が誇らしげに紹介するこのスキー場の着工は昨年だった。従って、一年半余で完成させろということだ。他の国では10年かかるかどうか知らないが、建設機材が足りない中、人海戦術を展開するのだろうが無茶苦茶だ。金正恩は「不屈の精神力と頑強な突撃戦で」と、例によって根性論でハッパをかける。

 

 

 簡単に馬息嶺スキー場を紹介しよう。アピールによると、「天然岩と険しい山並みを削り、数10万平方㍍の面積に、総延長距離が10余万メートルに及ぶ」コースをつくる。日本で広い方の岩手県安比高原スキー場が約4万4000m(ホームページ)なので、その2倍半以上になる。北朝鮮ではとてつもない規模であることは間違いなく、豪華なホテルも建設される。

 

 

 北朝鮮のメディアは、金正恩が現地を視察する様子を映像つきで報道した。ゲレンデを作るため、山の斜面があちこちで幅広く削られ、さぞ立派なスキー場ができそうだ。しかし、これだけ山を崩すと、大雨が降れば土砂が流れ出し、山麓一帯は大洪水を引き起こすのではないか。人ごとながら心配になる。

 

 

 「速度戦」で煕川発電所は欠陥工事

 

 

 とにかく、突貫工事でスキー場を作れと命令したのである。そのうえで、金正恩は「馬息嶺速度」が「社会主義建設の各部門で、大飛躍、大革新をおこすものと確信する」となる。重ねて工事を早く終える「秘訣は、軍人たちの精神力を総奮起させるところにある」と念押ししている。かくして、「馬息嶺速度」は、全軍人、労働者の最大の指針になったのである。

 

 

 「速度戦」――北朝鮮の津々浦々、特に工場や工事現場へ行くとこのスローガンがいくつも掲げてある。田んぼにも看板が立っている。北朝鮮で働く人たちの指針だ。「早いことはいいことだ」とばかりに、あらゆる機会に「パリパリ(急げ急げ)」を叫び続けてきた。

 

 

 昨年の金日成生誕百周年事業でも、「速度戦」が全国で展開された。とくに有名なのは中朝国境の鴨緑江に建造された煕川発電所だ。年間発電量30万kW、昨年4月5日に完成し、盛大な完工式が行われた。

 

 

 もちろん北朝鮮最大であるが、最も宣伝されたのは、10年かかるところを3年で完成させたことだった。「速度戦の勝利」と、工事関係者5万8000人が表彰された。どうも、北朝鮮は、世界一を誇りたい性癖がある。ところが、経済混迷の中で質や量を誇ることができないため、仕事の速さぐらいしか誇れないのかもしれない。

 

 

 「拙速」という言葉がある。鳴り物入りで敢行した煕川発電所であるが、北朝鮮からは電力事情が改善したという声は聞こえてこない。反対に、ダムのあちこちで水漏れがひどく、稼働していないという情報が漏れてくる。目標の完成日時に間に合わなければ、担当者は忠誠心が足りないと厳罰だ。となれば、手抜きでも粗雑でも、突貫工事をして、間に合わせることが至上命令だ。

 

 

 しかも、工事に当たるのはほとんどが軍人だった。やはり百周年事業だった倉田通りの高層マンション建設でも、記念日に間に合わせるため軍人だけでなく大学生も動員された。いずれも土木工事については素人だ。そのうえ急がせれば、まともな仕事はできない。このため、党や軍の首脳は、軍人や学生労働者が建設したアパートには入らないという話も聞いた。「速度戦」は、結局大きな無駄にしかならない。

 

 

 金正恩も自前の標語がほしい?

 

 

 それにしても、「速度戦」という標語があるのに、おそらくほとんど同じ意味の「馬息嶺速度」という新たな標語をつくって大宣伝する必要があるのか。

 

 

 やはり、ここは金正恩の大号令で新たなスローガンができた。人民のために元帥様は仕事を急がせているというという実績をつくりたいのだろう。北朝鮮はスローガン国家だ。金日成は「速度戦」をはじめ「千里馬精神」、金正日は「先軍政治」「強盛大国」などいくつものスローガンを作り出し、国家運営の指針としてきた。

 

 

 金正恩も、最高権力者となって、スローガンづくりの血が騒ぐようだ。またしても、それにしてもと言いたいが、なぜスキー場建設が模範にならなければいけないのか。先代のスローガンは、いずれも戦場や生産現場を念頭につくられた。遊び場を模範にした例はない。

 

 

 留学経験があだに

 

 

 金正恩については、欧州留学の経験があるので、国家運営においても合理的な判断をするはずという意見もあったが、これまでその期待は完全に裏切られている。欧州留学では、大きな遊園地、特に巨大な乗馬クラブと今回の巨大スキー場が印象に残ったのだろう。それを経済の遅れた国土の狭い北朝鮮にもつくる。

 

 

 「金日成主席と金正日総書記の人民愛を実現し、人民に立派な文化生活を与える壮大な愛国事業

 

 

 金正恩は、馬息嶺スキー場について人民愛を強調したが、最大のスローガンであるはずの「人民生活の向上」はどうした。腹をへらしている人に、乗馬やスキーを楽しめと言っても腹の足しにはならない。むしろ、留学経験があだになっている。

 

 

 どこぞの御姫様だったか、「人々は日々食べるパンがなくて困っている」という話を聞いて、「それならケーキを食べればいいではないか」と答えたという。そのたぐいの話だ。御姫様なら政治に直接関係ないが、国家の最高責任者がこれでは困る。

 

 

 肝心の経済改革は進まず

 

 

 「全人民が経済建設と核武力建設の並進路線を堅持して、国の全般的経済をいっそう活発化し、人民計画経済の遂行に寄与しよう」

 

 

 金正恩はアピール(6・4)をこう締めくくっている。経済立て直しが急務であることには言及している。そのためには経済改革が不可欠だ。しかし、こちらは遅々として進まない。

 

 

 「ウリ式経済管理方法の完成を」(5・17)。在日朝鮮人向けの「朝鮮新報」にこんな見出しの記事が出た。金正恩の「並進路線」の指示に従い、新たな経済管理方法を研究し、完成させる事業が行われているという平壌発の記事だ。

 

 

 「昨年から、工場、企業所、協同農場が内閣の指導のもとで独自に創発的に経営管理を行うための新たな措置が、一部で試験的に実施されている」そうだ。昨年「6・28措置」などと言われ、改革が実施されたともいわれたが、どうもまだテストの段階のようだ。

 

 

 この記事の中で、国家計画委員会の副局長は「内閣は何度も国家的な協議会や討論会を開き、研究を続けている」という。「よい案は試験的に導入され、成果を確認した後、全国に一般化することになっている」そうだ。

 

 

 まず遊び場づくりで「馬息嶺速度」

 

 

 金正恩が人民生活向上のため、内閣主導を言い出して、すでに1年以上が経つが、改革は遅々として進まない。その一方で、遊園地をはじめとする娯楽施設だけは、すでに「馬息嶺速度」を実践している。それに、人民生活の負担になる「核武力建設」と金正恩自らも含めての神格化事業も、人々が休む間もなく、すごい勢いで進んでいく。急ぐべきものを取り違えている。

 

 

 「馬息嶺」というのは、山越えする馬の息が上がるほど険しいということか。それなら何やら実感がある。「馬息嶺速度」は絶妙な標語かもしれない。

更新日:2022年6月24日