◎北朝鮮のぞき見⑪完

「生活向上」に難問山積

岡林 弘志

(2012.12.3)

 

 「人民生活の向上」―最優先課題の実現に金正恩第一書記の命運はかかっている。それには、民生経済活性化のため、核・ミサイル開発と神格化事業など非生産部門へのカネを抑えるしかない。また、人々の生き残りの手段となった「市場」の広がりを制度として認めることも避けて通れない。いずれも独裁体制の根幹にかかわる。このかじ取りをどうするか。1週間ほどの北朝鮮旅行を振り返っての最大の関心事だ。

 

 

 「乗馬クラブを人民に」

 

 

 「乗馬クラブを一日も早く現代的に改造して人民に与えよう」

 

 

 金正恩が人民軍534部隊騎馬中隊の訓練場を視察したとこの指示だ(11.19朝鮮中央通信)。軍事用の騎馬の必要は減ったので、勤労者と青少年の体力鍛錬のための乗馬場に整備しようという構想だ。

 

 

 すなわち「乗馬は人々に勇敢さと大胆さを育ませるとてもよい運動であり、労働と国防に寄与することのできる健康な精神と丈夫な体力を身につけることになる」(金正恩)からだ。

 

 

 さらに「幼いときから乗馬教育を受け、乗馬運動を正常にすれば筋肉が発達し、大人になっても腰痛にかからない」「いまコンピューターによる事務処理をはじめ精神労働が多くなることで、事務員病が増えているが、乗馬運動をすれば予防できる」と、具体的な効果まで語って聞かせた。

 

 

 涙がこぼれるではないか。世界広しといえども、最高権力者が人民の腰痛やサラリーマンの精神の病まで心配してくれる国はないだろう。しかし、北朝鮮の表づらだけにしても現状を見た目からは、その前にもっと気を使うべきことがあるだろうと、首をかしげたくなる。

 

 

 金正恩が最高指導者になって最初にして最大の公約である「人民生活の向上」は、まず人民の飢えや食糧不足をなくし、日常生活に支障がないように民生経済を立て直すことだ。ほかの国ではごく一部の余裕のある人たちが楽しむ乗馬は「人民生活」からはるかに遠い。

 

 

 実績のない新指導者の指導力を誇示するためか、何でもいいから恩情を示すためか、生活向上は簡単にできないので目くらませのためか。いずれにしても、乗馬クラブの充実が一般の人々を喜ばせ、「イヨー金正恩元帥!」とはならないだろう。誰のシナリオか不明だが、出来が悪い。

 

 

 予想以上の「市場経済」の広がり

 

 

 今回の訪朝ではっきり見ることはできなかったが、「市場(いちば)」あるいは個人の商売が急速に広がっていることは十分にうかがえた。先に紹介したが、市内の商店数も増えたが、平壌駅前でポッタリチャンサ(風呂敷商売)を何人も見た。駅裏にも路上で商品を売るおばちゃんが並んでいるという。清掃員の腕章を巻いたおばちゃんに追い払われていたから、当然公認ではない。

 

 

 「朝鮮の心臓、平壌」の玄関口である平壌駅周辺は非常に警戒が厳しい。かつて旅行者が単独で行動していて、摘発された例も少なくない。そんなところで、ヤミ商売が公然と行われている。まして警戒の薄い他の場所では、かなり大っぴらに「市場」や個人的なモノの売買が行われているはずだ。平壌から郊外へ行く道路わきでも、リヤカーや風呂敷にトウモロコシやリンゴを並べて売っている女性がいた。われわれの予想以上だろう。

 

 

 表向き「統制」の陰で様々な商売

 

 

 北の経済に詳しい研究者によると、原則として私企業や個人的な事業、商売は禁じられている。しかし、公の機関や事業所の下請けとして個人が商売をするのは、お目こぼしになっている。例えば、トラック一台を軍から借りて、運送業を行い、もうけの半分を軍に収め、残りは自分のもの、というやり方もある。兵隊の食糧のかなりを自前で調達しなければならない軍にとっても実利がある。

 

 

 駅などの公の施設の一角を借りて食堂などの商売をする方法もある。また、公認市場の周囲には、ヤミで商売をする人たちがいて、管轄の役所や担当者が陰でショバ代を取って黙認というケースもある。飢えが人々をたくましくしたのである。

 

 

 戦争などの大混乱の後や国家の統制が厳しいと、ヤミ市がはびこるのは古今東西共通している。北朝鮮でも建国時代、朝鮮戦争の後からヤミ市はあった。90年代後半以降、配給が減り途絶えたのに伴って、市場が増え、金正日総書記はそれを公認せざるを得なかった。それだけでは人々の日常生活の需要供給を賄い切れずに、ヤミ市は増えつつあり、今に至っている。

 

 

 また、公営事業所や工場はそれぞれ品目を特定した生産計画が決められているが、計画外の生産も黙認されているようだ。資材などを「市場」から調達し、「市場」でさばき、利益をあげることができる。これで稼働経費や労賃のしあ払いに充てる。

 

 

 要するに、経済活動のうちのかなりの部分は「市場化」している。「経済の実態はかなり変わっているが、まだ制度としては保障されていない」(研究者)のが実情だ。従って、時に建前によって摘発されるというリスクがある。

 

 

 「市場」と社会主義原則との確執

 

 

 「人民生活の向上」のために、まずは国家が人々の生活の最大の手段である「市場(いちば)経済」を大幅に認める必要があるようだ。市場を否定して人民生活は成り立たないからだ。しかし、経済における私的な活動を公に認めることは、生産手段の私有化を認めない社会主義の原則から外れることになる。ここが最大の問題だ。

 

 

 「6・28措置」―日韓のメディアは、北朝鮮が「新経済管理改善措置」を指示した、と報道した。農業の生産単位を細かく分け、農民の処分割合を増やす、事業所の生産、販売の自由度を広げる…などだ。実態に合わせた仕組みに変えるための改革といってもいいだろう。しかし、われわれが会った北の政府関係者は「措置」そのものを否定した。その後も、これに関する発表はない。

 

 

 先の研究者は「何らかの改善に関する指示はあったと思うが、現実を制度化することができるか、社会主義経済の中でどう理屈付けをするか、についての理論的整理が難航しているのではないか」とみる。

 

 

 確かに、現状を変えようとすれば、既得権益を守ろうとする勢力や社会主義の原則論者は激しく抵抗するに違いない。理論闘争となれば原則派の方が威勢がいいのが通例だ。

 

 

 また、北の経済担当者は我々に「改革・開放」をつよく否定した。確かかのこれまで、北朝鮮は「改善」と言う言葉を使ってきた。不都合なところは代えるということだ。国の在り方の根本にかかわるような改革はしないという意思表示だろう。

 

 

 しかし、現状のままで経済の立て直しができないのも確かだ。金正日総書記の治世17年が証明している。いま、経済における社会主義・独裁体制の維持派と、改革・改善を主張する勢力とのせめぎあいが続いているのだろう。そして、気になるのは「金正日時代にできなかったこうした改革を、今の弱いリーダーシップでできるのか」(研究者)ということだ。金正恩の指導力が試されるところだ

 

 

 「明るさ」へ人々の大きい期待

 

 

 1週間の滞在で見た平壌の印象は、2年前に比べ、住んでいる人たちも含めて明るくなっていた。金正恩・李雪主夫妻の言動やスタイルが大きく影響していることは間違いない。加えて、人々の中に、生活面で明るくなってほしいという強い期待感があるからだろう。

 

 

 東西冷戦終結・社会主義崩壊いらい、人々は「苦難の行軍」を強いられた。それからすでに20数年が経っている。韓国や中国をはじめ東南アジアの国々が大きく発展する中で、北朝鮮だけが大きく取り残されている格好だ。こうした事情も、人々の期待感を高めているに違いない。

 

 

 足を引っ張るインフレ

 

 

 一方で、3年前のデノミの失敗以来、ものすごい勢いでインフレが進み、人々の生活を直撃している。物価高に対応するため、紙幣を大量に印刷し、さらにインフレが進み…と悪循環に陥っているのは間違いない。食糧をはじめとするモノの供給が足りない中では必然だ。

 

 

 これに伴い、現地のウォン安に歯止めがかからない。訪朝した9月、外貨の実勢レートは公定レートの40倍だった。その後もウォン安は進み、今では60倍になっているという。このため、北朝鮮国内でも外貨、特に中国元が広く使われているようだ。ドル、円も十分に通用する。二年前、買い物はユーロでと案内人から言われたが、今回はドルもOK、特に円高のためもあり円は大歓迎だった。

 

 

 このため、外貨を持つ特権階層や貿易や外国と関係を持つ仕事をしている人たちにとっては、普通に暮らすことができる。外貨のない人たちのとっては地獄だ。人々はあらゆる方法で外貨を得ようとしているようだ。

 

 

 インフレ経済の立て直しは容易でない。単純に考えても、モノの供給を増やすため産業を活発にする必要がある。それには産業基盤の整備が欠かせない。巨額の資金が必要だ。北朝鮮の現状をみると、気が遠くなるような話だ。

 

 

 期待にそむけば反動は大きい

 

 

 こうした厳しい経済の中で、金正恩は「生活向上」を実現しなければならない。最高責任者になって、もうじき1年だ。人々は、そういつまでも待ってくれない。崇拝させるためのキャンペーンは急ピッチで行われているが、実績のない29歳を疑心暗鬼で見ているのである。早い機会に「生活向上」の実績を示さなければ、期待が大きいだけに失望も大きい。

 

 

 人々の不満が高じれば、不穏な動きも出てくる。そうした場合、統制を強めれば、人々の不満はさらに強くなる。特に経済で、前回のデノミのように、市場を取り締まったり、強制的にタンス預金を差し出させたり、無効にするような措置を取れば、暴動も起きかねない。市場がはびこった現状を前提に改善を図らざるを得ないのである。

 

 

 この一年、北の経済当局者は、軽工業、農業分野の生産は増加、「人民生活の向上」は進んでいると強調していた。しかし、日用品などはいまだに中国製が大半を占め、インフレを抑えるまでの生産量には程遠い。

 

 

 止まらないミサイル開発と神格化

 

 

 そんな中で、目立ったのは「神格化事業」だ。われわれも金日成、金正日の先代二人の立像や馬に乗った像などを見せられた。街角には二人の大きなモザイク画も登場していた。

 

 

 北朝鮮からの報道では、その後も二人の像とモザイク画は、全国各道や部隊、大きな事業所などで、競うように建てられている。錦繍山太陽宮殿では、金日成とともに金正日の遺体を安置するための作業が行われている。これらの神格化事業には巨額のカネがつぎ込まれ、モノやヒトが動員されている。

 

 

 ここまで書いたら、北朝鮮が「人工衛星」と称する長距離ミサイル打ち上げ予告を発表した(12.1)。北西部の東倉里から12.10~22日の間に南に向けて発射するという。この期間は日本の総選挙(12.16)、韓国大統領選挙(12.19)がある。米国や中国の最高指導者も決まったばかりだ。得意の強面・揺さぶり作戦だ。何ともきな臭い。

 

 

 北朝鮮は、4月の金日成生誕百年を記念して、「人工衛星」を発射し失敗した。年末ぎりぎりの発車は年内にその屈辱を晴らし名誉挽回を図る狙いがありそうだ。また、ことし「強盛大国の大門を開く」大目標を達成したというアリバイ証明にもなる。何よりも、金正恩の威力、指導力を内外に誇示できるのである。

 

 

 もし成功すれば、北にとっては一石何鳥にもなる快挙だ。しかし、周辺国の太陽はさらに厳しくなる。それに、打ち上げに巨額のカネなどが投入されたのは間違いない。

 

 

 これでは神格化と核・ミサイル開発という非生産部門を最優先にした金正日時代の構造と変わらない。民生経済の活性化、人民生活の向上をいくら唱えても絵にかいたモチだ。

 

 

 金正恩支える3人の「権力共同体」

 

 

 韓国の統一問題専門家は、今の金正恩体制は「権力共同体」が支え、動かしているとみる。すなわち「金王朝の宮廷は金敬姫、軍は崔龍海、労働党と政府は張成沢」だ。この3人の顔ぶれや軍の既得権に固執した軍首脳を更迭したことなどから見て、何とか経済立て直しのための改革、改善を進めたいという意向はうかがえる。

 

 

 しかし、話を「乗馬クラブ」に戻すと、金正恩は現地視察の際、整備のために、室内乗馬訓練場、クラブ周辺に人工山、基本走路の真ん中の空き地に散歩道を作るよう指示した。そのうえで、乗馬学校の設置、丈夫な馬をたくさん飼い、飼料を確保、乗馬服など乗馬用品の生産までするよう訓示を垂れたのである。

 

 

 このために、巨額のカネが必要なことは言うまでもないが、それ以上に「なぜ乗馬なのか」が理解できない。「人民生活の向上」につながる話ではない。問題はだれがこうした指示を考え出し、言わせているのかだ。「権力共同体」は何をしているのだろうか。この騎馬中隊の視察には、三人も随行している。理解しがたい。

 

 

 また、ミサイル発射も「権力共同体」の意向なのか。軍部などの強硬派が仕掛けたのか。権力闘争の影もちらちらする。

 

 

 今回の訪朝で見たせっかくの「明るさ」をこれからも持続し、拡散できるか。その後の動きはあまり明るくない。独裁体制を維持しながらの改善にはおのずと限界がある。そんなこともらためて考えさせられた旅だった。  (完)

平壌で最先端の倉田通りギャルか。3人とも携帯を持っている

 

倉田通りに新設された「児童百貨店」

道路整備に動員された人々=平壌中心地

リアカーでリンゴやトウモロコシを売るアジュマ=平壌のはずれの幹線道路わき

金日成生家を訪れた地方からの団体客


更新日:2022年6月24日