「元帥様」と夫人と絶叫マシーンと

岡林弘志

(2012.7.31)  

「元帥様」はすでに結婚していた。先代の時には考えられなかったが、北のメディアは、夫人の名前を明らかにした。三代目の安定感を印象付ける狙いだろうか、とにかく露出度が高い。それなら被災地へでも行って激励すれば、もっと喜ばれると思うが、なぜか遊園地ばかりが目立つ。

 

すでに結婚、夫人の名前を公表

 

「敬愛する金正恩元帥様におかれましては、夫人李雪主同志とともに、観覧席に姿を現すと、嵐のような“万歳!”の歓呼が場内に響き渡った」(7.26朝鮮中央通信)

北朝鮮は、朝鮮戦争の休戦協定調印の日(7.27)を「戦勝節」として祝っているが、それを前にした、人民軍内の音楽公演の報道だ。

 

金正恩第一書記の夫人の名前が初めて公開されたのは、平壌市内の綾羅人民遊園地の完工式(7.25)の報道だった。それ以前も女性同伴で現地視察に出向いた映像は報道されていたが、この女性は実は夫人だったのである。

 

その翌日、再び夫人の名前を登場させたのである。「ファーストディ」とともに国家運営に励んでいるところを人民に印象付けるということだろう。20代の若さ、経験不足を補うため、身を固めている方が安定感をアピールしやすいという計算もあるかもしれない。

 

余談ながら、日本のメディアは夫人の名前を「李雪主」と表記しているが、「主」は女性に使う漢字としては違和感がある。これは朝鮮中央通信の中国語版、日本語版がそう書いているのに従ったものだ。ちなみに、韓国のメディアは「李雪珠」と表記している。これの方がしっくりくる。

 

それにしても、先代とは大違いだ。金正日総書記は、後継者に内定してからこの世を去るまで40年近く、夫人や子供など家族の存在すら公開せず、人々も関心を持たないように教育されていた。

 

もっとも、先代は父親金日成主席が決めた相手と結婚したが、気に入らず、ほかの女性と結婚、さらに別の女性と…という具合で、公表できなかったのかもしれない。

 

夫人は元歌手、訪韓の経験も

 

ちなみに今回、北のメディアは金正恩夫人の名前は公表したが、そのほか年齢、出身地、経歴などには触れていない。韓国の国家情報院によると、夫人は28歳、2009年に結婚して子供がいる。銀河管弦楽団出身の歌手で、今年1月まで活動していた。その時の公演のビデオが確認され、チマチョゴリで独唱している姿が映っている。

 

また、2005年9月に仁川で開かれた第16回アジア陸上選手権大会の際は、「美女軍団」の一員として、韓国を訪問したことが、当時の写真から確認された。さらには、声楽で中国留学の経験もあるという。親子二代にわたって、美形の芸能人が好みということか。

 

夫人公表も驚きだが、現地視察での夫人の動きも驚かされる。衆人の前でも近寄って行って金正恩に話しかけ、綾羅遊園地では、腕を組んで歩く場面も映し出された。この時の服装は、上が落ち着いた緑、下が黒のツートーンカラーの軽快なワンピース姿だった。しかも、この時の映像では「金日成・金正日バッジ」は見えなかった。

 

祖父の金日成も、外国人と会う際などに二番目の金聖愛夫人を同伴し、記念写真として公開されたが、チマチョゴリ姿が多かったような気がする。それに比べても、正恩夫人はかなり、今風で開放的だ。韓国の中央日報は、ソウルの高級住宅街のマダムスタイルと解説している。

 

メディアは一斉に「元帥様」に

 

一方で、金正恩の呼称が「元帥様(ウォンスニム)」に変わった。「元帥」の称号授与(7.17)の翌日から、北のメディアは一斉に「金正恩元帥様」と呼び始めた。それ以前は「最高司令官」「第一書記」「同志」などと呼んでいたが、これからは「元帥」に統一したようだ。

 

普段からこの呼称を使うのは、初めてだ。金正日の時は「総書記」「最高司令官」「国防委員会委員長」などと呼ばれた。金日成の時は「主席」、時に「ウォンスニム」と呼ばれていた記憶があるが、常時ではなかったと思う。

 

しかし、金正恩については「元帥様」を必ずつけるようだ。李英鎬総参謀長の電撃解任で、軍の動向に関心が集まっているが、あらためて、軍を完全に掌握していることを誇示する狙いか。

 

「元帥様」と絶叫マシーンとのあまりの落差

 

しかし、「元帥様」と絶叫マシーンに興じる姿との落差は大きい。「元帥様」は言うまでもなく軍の最高位、極めていかめしい強面の地位である。片や、綾羅人民遊園地で、最新式の高いところまで昇って大きく揺れる最新遊具に乗り、はしゃぐ姿は、ごく普通の若者だ。

 

余談だが、映像を見ると、この絶叫マシーンには、夫人は乗らなかったが、一人置いて右側は軍服姿の叔母である金敬姫「大将」ではないか。もしそうなら、今年66歳になるはず。一時は病気とも言われた。大丈夫だろうか。

 

宣伝扇動の方針が変わったようだが

 

話を元に戻すと、金正恩の治世になって、最高指導者の露出度が大幅に増えたのは間違いない。もともと、神格化をはじめ、公報などは労働党の宣伝扇動部が行う。ここの責任者が代わったか、金正恩直属の機関が企画立案・演出しているのか。興味をそそられる。

 

それに、このところ目立つのは露出度アップとともに、遊園地や子供関連施設など、いわば軟派系の現地視察が多いことだ。一昨年秋、後継者に決まってから、目立ったのは軍部隊への現地視察だった。金正日死去後の今年初めにも陸海空の精鋭部隊をいくつか回った。「先軍政治」というからには当然のことだ。

 

ところが、最高権力の地位を次々に継承した今年の春以降、軍より子どもや民生関連の施設などの視察が多い。最近では、綾羅人民遊園地完工式(7.25)、ヘルスセンター「柳京院」の完工式(7.27)への参加は大々的に報じられた。

 

夫人と一緒の映像が流された牡丹江楽団の公演(7.7)、平壌市内の幼稚園(7.15)、金日成生誕百年の前後には、記念事業である万寿台地区の超高層タウン、子供専用百貨店や動物園、魚肉類商店などの完工式に参加、万景台遊園地では「なぜ雑草を生やしておく」と叱責した。

 

もっとも、このところ「戦勝節」とあって、軍中心に行事が行われ、金正恩も出席しているが、「参戦老兵との記念写真」(7.30)や「人民軍協奏団公演」(7.26)や「祖国解放戦争勝利記念館視察」(7..9)などで、いずれも軍部隊ではない。

 

さらには、牡丹江楽団の公演(7.6)では、北朝鮮の威勢のいい曲だけでなく、「米帝」や欧州のポピュラー音楽や映像もあった。「ロッキー」の曲に合わせて映像も流された。舞台には、ミッキーマウスやクマのプーさんのぬいぐるみまで現れた。

 

金正恩は「外国のものでも良いものは大胆に取り入れ、われわれのものにすべきだ」と述べたそうだが、確かに大胆だ。もっとも映像やキャラクターグッズには知的財産権が伴う。勝手に「われわれのもの」にしては困るが。

 

ぬぐえないチグハグ感

 

これらの現地指導や演出は、いずれも金正恩が民生、人民生活の向上にいかに関心を払っているかを誇示するのが狙いだろう。その意図はわかるが、食うや食わずの人民にとっては、遊園地に雑草があろうが、動物園に珍しい動物が増えようが、縁のない話だ。

 

それに、今年の春から北朝鮮は、北メディアが報道しているように、天災が続いている。60年ぶりの大干ばつがあったと思ったら、今度は台風や豪雨だ。

 

「(7月)28日現在、全国的に死者は88人、…4800ヘクタールの耕地が流失、埋没、…1190余か所で道路破壊、200余か所の堤防が破壊された」(7.28朝鮮中央通信)

今月に入ってからは、あちこちで水害に襲われている。この後、29,30日にも平安南道で豪雨があり、安州市全体が水浸しになった映像が流された。

 

北朝鮮の水害は恒例行事になっているが、治山治水をおろそかにした失政の結果である。新指導者が民生経済を立て直そうとしたら、まず手をつけるべきはこの部門だ。

 

まずは被災地へ足を運んでは

 

金正恩が、人民生活を第一に思うなら、まず駆け付けるべきは、被災地だろう。被害のひどさを自分の目で確かめて、泥に埋まった田んぼに入っていき、泥まみれになって、復旧作業に手を貸す。そして、治山治水の大号令をかける。これなら、人民は新指導者に歓呼の声を送るに違いない。

 

金正恩の現地視察については、当然どこかがシナリオを描いている。このところの動きをみていると、どうもチグハグ感がぬぐえない。「元帥様」なのに、偉らぶることなく、人民に親しく接してくれる姿を強調したいのかもしれないが、現地視察の対象が偏っている。いずれも人民生活の向上、民生経済の再建の本筋から外れている感がする。

 

権力の掌握に自信を持っていた金正日と違い、三代目は宣伝扇動によって、人民に存在を誇示するしかない。これからも露出度はアップするはずだ。これからも、あの手この手を見ることができそうだ。

更新日:2022年6月24日