金日成―正日主義の「純粋培養」

岡林弘志

(2012.6.8)

 

北朝鮮を実験場にして、金日成‐金正日主義を「純粋培養」するとどうなるか――。金正恩体制が始まって、もうじき半年になるが、こんな実験を始めたような気がする。しかし、実利を無視し、神格化を柱とする主義や理屈を優先させれば、民の腹を満たすことはできない。若い新指導者にとって、「威光統治」しかないのだろうが、先代、先々代の「負の遺産」を解消するのは難しい。

 

権力世襲に水を差す50年ぶり大干ばつ

 

「4月末から今まで、朝鮮の北部内陸地方を除いた大部分の地方でひどい日照りが続いている」(6・2朝鮮中央通信)。北朝鮮のメディアは、干からびたトウモロコシの映像とともに、「50年ぶり」の干ばつを繰り返し報道している。

 

例年ならこの季節は、低気圧と高気圧が激しく行き来して雨を降らせるのだが、今年は高気圧が朝鮮半島北部に停滞、高温が続いている。長年の食糧不足がさらに深刻になるのは間違いない。

 

さらに、今年の春窮期、黄海南道や咸鏡南・北道などで、万単位の餓死者が出たという情報もある。昨年夏の水害で収穫が減り、そこに今年初めの例年にない寒波が加わったためだ。

 

4月15日の金日成主席生誕百周年前後を機に、名実ともに最高権力者になった金正恩にとって、弾道ミサイル発射の失敗に加えて、出鼻をくじかれた格好だ。

 

北朝鮮は、よく自然現象を最高指導者の威光を示すものとして利用する。大行事の直前に、二重の虹が出た、雨が上がり太陽がさんさんと輝きだした……。こうした関連性を信じるとすれば、金正恩が後継体制を整えたこの時期の大干ばつは、天が権力世襲に警告を与えたことになる。

 

先代の交代時にも

 

そういえば、金日成が死去し、金正日の治世となった翌年と翌々年(1995‐6)、北朝鮮は大水害に襲われた。このため餓死などで2百万人が死んだといわれ、金正日も「苦難の行軍」と言わざるを得なかった。

 

かつて中国では、大水害などの天変地異は為政者に対する「天罰」とみて、易姓革命すなわち権力交代の大きな理由になった。

いまは、気象学の発達によって、異常気象も説明がつく。北朝鮮の後継者に天罰が下ったなどとは言わないが結果として、後継者に対する厳しい試練であることは間違いない。

 

“神様”が一人から二人に

 

この半年、金正恩が最高権力の座につく過程で、もっとも驚いたのは、ここまでやるかというほどの金日成―金正日の神格化だ。先代が進めた父親の神格化の延長線上にあるが、“神様”が一人から二人になったことで、2倍になったというより、2乗された感がある。

 

「朝鮮労働党は、金日成‐金正日主義を指導思想とし、その実現のために闘争する金日成‐金正日主義党である」

金正恩が党中央委の責任幹部との会合(4・6)で行った演説の一節だ。この文言は、その後の党代表者会(4・11)で採択された改定労働党規約の前文にそのまま明記されている。

 

党規約は、北朝鮮の最高法規だ。それに次ぐ憲法の修正(4・13)も行われ、「金日成‐金正日憲法」に変わった。

前文には「社会主義朝鮮の始祖である金日成同志を永遠なる主席、不敗・不滅の国家建設の業績を残した金正日同志を永遠なる国防委員会委員長として戴く」との趣旨を明記してある。

 

これまで、社会主義国はいくつもあったが、マルクス・レーニンはともかく、最高法規にこれほど個人の名前が出てくる例は見たことがない。しかも両法規とも、前文のほとんどは、二人の業績に対する賛美で占められている。

 

その上、党規約は、「金正恩同志は労働党と人民の偉大な領導者である」と、現在の指導者にまで言及している。要するに、この国は三代にわたる金一族のものと内外に宣言したのである。個人崇拝というより、国そのものが私物化されたと言った方がふさわしい。「金王朝」としか言いようがない。

 

金正日の「経済大国失敗」を認定

 

これも驚かされたが、修正憲法の金正日の業績を讃える部分にも注目したい。

「わが祖国を不敗の政治思想強国、核保有国、無敵の軍事強国に変え、強盛国家建設の輝かしい大道を開いた」(前文)

 

 この部分は、北朝鮮が「核保有国」になったことを誇示するためと、日韓のメディアは紹介した。ただ、裏読みすると、金正日が目指した「強盛国家」のうち、軍事大国、政治思想大国は実現したが、「経済大国」はできなかったことを認めているとも受け取れる。

 

確かに、17年にわたる金正日の治世を一言でいうと、父親の神格化(政治思想大国)と軍事大国のために、カネ、ヒト、モノをつぎ込み、民生経済を低迷させ、外交孤立を招いた。ということだろう。

独裁体制は強化されたが、人民は腹をへらしたままだ。

 

金正日はもちろん、深刻な食糧問題は知っていた。数年前から、「人民生活の向上」を重点目標に掲げ、号令も掛け、民生経済を扱う事業所や農村、漁村にも現地指導に出かけた。しかし、成果はあがっていない。

 

大きな原因の一つは、金正日が国家運営の理屈として打ち出した「先軍政治」と神格化事業にある。非生産部門である軍事と神格化事業をすべてに優先させる。しかも財源は乏しい。これで民生経済の立て直しは、絵に描いたモチだ。

17年間ではっきりしたのは、軍事・思想大国と経済大国とは二律背反、両立しないということだ。

 

輪をかけた「遺訓統治」

 

金正恩は、後継者となって、金正日路線の忠実なる継承、「遺訓統治」を繰り返し強調している。というより、金正日路線に輪をかけて、政治思想大国・軍事大国を目指す方針であり、すでに大々的に展開している。

 

金正日の追悼行事をはじめとする偶像化、神格化、加えて金日成生誕百周年の記念行事、事業、それに弾道ミサイル打ち上げ……。おそらく、北朝鮮の一年間の国家予算にも匹敵するほどの資金がつぎ込まれたに違いない。韓国政府当局は、生誕記念だけでも総経費は20億ドルと推定した。(ちなみに昨年の予算は57億ドル)

 

「思想大国」の面では、さらに「金日成主義」に「金正日主義」を合わせて、唯一指導思想と位置付けた。

この「主義」はよくわからない。金日成のチュチェ思想は、もともと「人民大衆中心に、自主、自立、自衛の社会主義国家を強化、発展」(修正憲法前文)させるための理念のようだ。

 

すでに「主義」偏重で多くの犠牲者

 

しかし、金正日は独裁体制の下における、革命の首脳部を死守する指導体系に変えた。さらに「先軍政治」という独裁体制を維持強化するための理屈を考え出した。

この結果が、思想政治大国、軍事大国である。金正恩は、これを踏襲、発展させようというのである。いわば、主義や理屈によって、この国を「純粋培養」する実験をしているかのようだ。

 

実は、この実験は金正日の時代に始まり、今度はその純度をさらに上げようということか。しかし、この国には、2千万を越える生身の人間が住んでいる。すでに、「主義」偏重の国家運営によって、100万単位あの命が失われ、多くの人たちは慢性的な飢えに苦しんでいる。

 

国家の運営は実験室のように、理屈通りにはいかない。純粋培養をしようとしても、天変地異があり、国際環境に左右されるなど複雑な条件がからむ。おさめられる国民には感情があり、命令通りには動かないからだ。哀れなのは、モルモット役を強いられる人民だ。

 

「思想大国」「軍事大国」に満点はない

 

一方で、思想や主義には、これで満点ということはない。独裁者は、独裁が進めば進むほど疑心暗鬼に駆られ、さらなる神格化を進め、より完全な主義、忠誠を求める。キリがないのである。

 

もう一つの「軍事」も同じだ。北朝鮮が脅威を感じる米国はケタ違いの核を保有している。韓国は核こそ持たないが、装備の近代化、ハイテク化を着実に進めている。軍事面も、北が優位に立ち、安心できる時は来ない。やはりきりがない。

 

 従って、北は思想・軍事大国は実現したというが、これで満足ということにならない。この大国を掲げる以上、無限にカネ・モノ・ヒトの投入を続けるしかない。金正恩のいくつかの演説に現れている。となれば、民生経済はどうなる。

 

「人民生活向上」とはいうが

 

「人民生活向上と経済強国の建設において決定的転換をしなければならない!」。金正恩は、4・6談話で「人民生活の向上」に取り組む決意を表明した。

内閣に対して「経済司令部」として「経済全般を統一的に指導、管理するための活動を主体的に推進すべきだ」と指示している。すべての部門、単位に対しても「内閣の決定、指示を寸分の狂いなく執行すべき」と命令した。

 

問題は、内閣が「主体的」に指導できるかだ。これまで民生経済は、資金、資材を十分に調達、供給できなかった。経済の仕組みとして、神格化、軍需や労働党の事業を優先したからだ。この構造を手直しすることなく、民生経済の立て直しはできない。こうした改革への意向は示されていない。

 

国土管理でも、神格化が最優先

 

金正恩が経済に関して出した指示をみるとよくわかる。

5月8日、国土管理総動員運動熱誠者大会が開かれた。参加者には金正恩が党・国家経済機関、勤労者団体の責任者幹部と行った会合(4・27)での演説を冊子にまとめた「綱領的著作」が配られた。

 

「国土管理は、国の富強・繁栄のための万年大計の愛国事業であり、人民に立派な生活条件を与えるための崇高な事業だ」

続いて金日成、金正日の業績をたたえ「国のいたるところに万年大計の記念碑的建造物が数多く建設され、町と村が社会主義の理想郷に転換した」という。

 

何のことはない。「人民の立派な生活条件」と言いながら、先代の神格化事業を第一に称賛している。特に、平壌については「革命的領袖観が確立した都市だけでなく、先軍文化の中心、手本になるよう立派に整えなければならない」と強調する。

 

さらに、先代、先々代の遺体が安置されている「錦繍山太陽宮殿地区をチュチェの最高の聖地として、崇高により立派に整えなければならない」という。「金日成‐金正日主義」のショーウインドウ都市、純粋培養の見本市にしようということだ。

 

もちろん、土地の管理と保護、干拓地開墾、耕地整理、山林造成、ダムや道路、鉄道などにも触れているが、課題の羅列に終わっている。

これまでのやり方を変える兆候はうかがえない。食糧増産のため、中国がやった「生産請負制」への転換など「改革」に手をつける意思はうかがえない。

 

三代目は積極的に演説

 

この半年の金正恩の活動で、金正日と最も異なるのは、自ら言葉を発し公にしていることだ。

 

「朝鮮革命隊伍の陣頭には、永遠に金日成主席と金正日総書記の太陽旗がはためき、我々を新たな勝利へと鼓舞、激励するであろう!」

4・15の祝賀演説で、金正恩は20分ほど、兵士や群衆を前に演説した。人民が聞いた初めての肉声だ。

 

続いて、朝鮮少年団の創立66周年記念の全国連合団体大会(6・6)でも、少年団のシンボルである赤いマフラーをして、祝賀演説を行った。「先軍時代の親の少年革命家、少年近衛兵になるべきだ!」。この模様はテレビで全国に中継された。

 

また、先にもふれたが、施政方針である4・6労働党責任幹部との談話は、労働新聞(4・19)に掲載された。国土管理の指針である4・27談話は、印刷され配布された。

積極的に人民の前に姿を現し、親しく手をとり、意思表示をする。この面では、カリスマ性があった金日成のやり方を見本にしているようだ。

 

民のかまどを満たせるか

 

しかし、スタイルの変化は宣伝効果はあっても、「主義」は腹の足しにはならない。人々は、かつてと違い、配給がほとんど期待できない中で、公営やヤミの「市場」を通じて、自ら食べ生き残る術を身につけつつある。それに比例して権力に対する忠誠心が薄れるのは必然だ。

 

まして、血筋以外何の実績もない指導者に対する忠誠心には、いかに宣伝しても限りがある。金正恩が子どもを含めたさまざまな行事に出かけていくのは、人心掌握が喫緊の課題だからだ。

 

はっきりしているのは、現実を踏まえ、実利を求める政策に転換しない限り、民のかまどを満たすことはできないということだ。権力継承の華やかな行事は一段落し、人々は日々の生活に戻る。いつまでも実験場のモルモットではいられない。

更新日:2022年6月24日