日本の真価を高めた報道

五味洋治東京新聞編集委員・佐藤勝巳主筆

(2012. 2.20)

 

佐藤 五味さんの著書『父・金正日と私――金正男独占告白』(文藝春秋)が売れているとのこと、ジャーナリスト冥利に尽きますね、おめでとう御座います。

 

五味 関係者の皆さんのお蔭です。ありがとうございます。

 

佐藤 あの本を読んで、私は驚くと同時に教えられたことがあります。金正日が息子たちに権力の世襲を考えていなかった、というくだりです。今までそんなことは考えていませんでしたから、「本当か」と思って調べなおして書いたのが、本ネットの「金正日、権力世襲の意思はなかった」(2月13日付)です。

 

独裁者の動揺

金正日という人物は、権力を掌握後、朝鮮労働党の党大会をはじめ、中央委員会、政治局会議、書記局会議を一度も開催せずに独裁政治を恣にしてきました。特に問題だったのは、党中央委員会より国家国防委員会が、「最高の権力機関」であると位置づけ、そのトップに君臨し、憲法まで改正したことです。

ところが2010年9月28日、党大会に替わる朝鮮労働党代表者会を突然招集し、党中央委員会員、書記局員、政治局員、政治局常務委員を選出しました。しかしここで疑問なのは、なぜ代表者会がこの時期に必要になったのか、ということです。今まであった国家国防委員会と党中央軍事委員会との関係はどうなるのか、新たに選出された政治局と今までの国家国防委員会のどちらが“指導機関”なのか皆目分かりません。独裁者金正日の思いつきでやりたい放題のことをやった結果がこれです。勝手のことをやった独裁者が死亡したのですから後が大変になることは常識です。いま一つ、この代表者会で張成沢が政治局員候補、呉克烈がヒラの中央委員という低い序列に止まったのは何故なのか、その理由が分かりませんでした。

 

五味 なぜか分かりませんでしたね……。

 

佐藤 ところが、五味さんの本の中で正男が「父親は息子たちに権力を世襲させる意思がなかった」と繰り返し発言していることを知って、その謎が解けたような気がしました。五味さんは、金正日が息子を後継者にさせたくなかった理由は、何だったと考えていますか。

息子を後継者にしない金正日の意図

 

五味 ①国際的反発、②子供たちの能力の問題、③親として過酷な仕事をさせるのは忍びない、ということに集約できるのではないかと思います。①ですが、西側から見れば嘲笑の対象ですし、正男氏も言っているように社会主義の理念に合わない。北朝鮮と関係の深い中国も表向きはともかく、本心では歓迎することなどありえない話です。

 

佐藤 中国筋からの伝聞では、金正日は中国に対して、自分が金日成の後継者になったのは長男ということではなく「能力があったからだ」、と説明しているそうです。息子への権力世襲を中国に肯定していないことが分かりますね。正男の発言を見る限り、北の経済的困難を解決するのは「中国式“改革開放”しかない。だが、それをやると体制が維持できない」と極めて常識的なことを言っているのですが、父親とその追随者から見ればとんでもない「反革命分子」の妄言ということです。だから後継者にすることが出来ない、という事情があったと思います。

 

金正日の微妙な心理

五味 そして②ですが、中国の強大な政治、経済、軍事力をバックにした覇権主義に対して、植民地にされないようにしながら、他方、生きるために中国からの援助を手にして個人独裁体制を維持するという、想像を絶するエネルギーが必要だったと思います。また、核ミサイルに対する国連の制裁、プラス米、日の個別の制裁は、相当な圧力です。三男がそれに耐えうる力があるのかという強い懸念を持っていた、と思われます。金正日は脳梗塞で倒れた後、後継問題をめぐり動揺があったような気がします。

佐藤 息子を後継者にしないで、党は書記局、政治は政治局に権力を分散して、集団指導体制でうまく行くか、ということですが、それが出来ないから独裁政治になったのです。文字通り終わりの始まりが進行していると言うことでしょう。ところで本に対してどんな反応がありましたか。

五味 成田空港に来て、不法入国で逮捕され、ものは言っていませんでしたが、日本国民によい印象を与えませんでした。この本を読んで「イメージが変わった」という反応が一番多かったです。次に、それほど数は多くありませんでしたが、「正男はこの本を出版して、北に帰ってトップに座る政治的野心があるのではないか。五味がそれに利用されたのではないか」というものでした。しかし彼は、本の中でも書きましたが、活字化にはびくびくしていました。政治的野心があったら、あんなには臆病ではないと思います。彼は、「自由に、しかも豊かに生きたい」それだけではないかと思っています。

 

政治的野心のない顔

佐藤 この本の表紙に使われている写真は最近のものでしょう。政治的野心のある顔でも体型でもないと思います。アメリカのオバマ大統領に象徴されるように、政治的野心のある人間は、痩せて、豹のように精悍です。あんなに太っていません。糖尿病などの生活習慣病の方が心配です。推理をすれば、活字化に躊躇したのは、本国からの援助が切られたら困るということではないでしょうか。政治向きではないプチブルだと思いますよ。

北朝鮮では、独裁者金正日の長男が「反革命分子」という皮肉なことが起きています。正男は、北朝鮮で行なわれている「学校教育」も受けずに外国で教育を受けています。だから西側の価値観と違わないものを身に着けたのだと思います。それが、父親を始めとするエリート幹部に受け入れられないことなったのです。五味さんの本は、私に、色々なことを考えさせてくれた、有意義なものでした。

 

日本の真価を高めた

また、東アジア、なかんずく北朝鮮に衝撃を与えたと思います。どんな反応が出るのか固唾を呑んで見ています。ご承知のように最近の日本ではよいことは何もありません。しかし、五味さんのこの本は、ワシントン、北京、ソウル、モスクワで日本を見直す契機になったのではないかと思います。それに、藤本料理人を加えると金正日一族の核心の情報を日本人が取ったことです。ポイントは、五味さんが書きたいことを7年間我慢したということですよね。出版社の勘もよかったのですが、日本のために改めて御礼を申し上げます。

五味 こちらこそ、ありがとうございます。佐藤先生からは、北朝鮮という組織を見る上での基本的な視点を教えていただきました。私の本に対しては「金正男のきれい事しか書かれていない」「批判だけして何もしようとしない」という声もあります。しかし、実名で、北朝鮮の抱える問題点をはっきり指摘したことについては、評価すべきだと思います。彼のさまざまな発言が北朝鮮の内部に届き、北朝鮮を中から変える原動力の一つになることを期待しています。

 

「中傷」を糧に

佐藤 人間の世界は嫉妬で成り立っていると言っても過言ではないでしょう。著書が売れ、有名になると何とかの「手先」「陰謀」などとんでもないことが言われ出します。私は本も売れないのに『噂の真相』『サンデー毎日』『週刊新潮』に事実無根の中傷を書かれ、かつての仲間からは、逆恨みと嫉妬で東京地検特捜部に告発されました。取調べ時間は告発に関することは30%程度。残り70%は、自民党某政治家の政治資金の出所でした。10年間ボランティアで拉致救出運動に関わって、拉致被害者家族やそれに関係する人々が、メディアからチャホヤされるとどう変化するのか、つぶさに観察できました。五味さんも体験を糧に、引き続きよい報道に力を注いで下さい、期待しています。

更新日:2022年6月24日