新しい政治の嵐――ソウル市長辞任の波紋

洪熒・佐藤勝巳

(2011. 9. 9)

 

ソウル市長辞任

佐藤 日本では殆ど取り上げられなかったのですが、8月24日ソウル市で、学校給食費の無償化問題をめぐって住民の賛否を問う「住民投票」が実施されました。投票者は215万7772人でしたが、有権者総数の3分の1に達しなくて、投票そのものが不成立に終りました。オ・セフン(呉世勳)ソウル市長は、約束どおり市長を辞任(8月26日)しました。

ところが、新しいソウル市長選挙(10月26日)をきっかけに、従来の韓国政治の枠組を根底から変える激動が始まっているようです。学校給食無償化問題が、なぜソウル市長の辞任、そして既存の与野党を一挙に無力化させる「政変」にまで突き進んだのか。どんな政治的背景があり、来年12月の大統領選挙にどういう影響を与えるのか、教えていただければ有り難いです。ところで、呉世勲ソウル市長はどんな経歴の政治家でしょうか。

 

 弁護士から国会議員になって、ソウル市長は2期目でした。国会議員の時は、与党所属でしたが、イデオロギー的にはどちらかと言えばノンポリという印象でした。呉市長が変わったのはソウル市長2期目になってからです。

 

佐藤 契機は何ですか。

 

左翼の福祉ポピュリズムと戦わなければ国が滅びる

 昨年(2010年)6月の地方議会の選挙で、ソウル市議会の70%以上を野党、左派が占めました。左派は、早速、ソウル市の小学校の給食費を税金で負担せよと決議し、市長に実行を迫ったのです。

それに対し呉市長は、現在、既に貧困層の児童の給食費は税金で負担しており、全額負担にしたら、より緊要な教育予算を給食費に転用せざるを得なくなるので、それは出来ないと拒否し、左翼の大衆迎合政策と対立していたのですが、昨年の12月に市議会を掌握している野党は、3分の2の再可決をしたのです。 

呉市長は市議会の要求を拒みつづけたため、市政が麻痺状態になりました。そこで呉市長は、ソウル市民に直接意見を聞きましょうということで、野党・左派の「全面(即時)無償給食」か、市長の「財政状態を見ながら段階的無償給食拡大」かを問う住民投票となったのです。呉市長は行政の現場で、果てしない福祉ポピュリズムと戦わなければ国が滅びると素直に目覚めたのです。

 

佐藤 開票要件である3分の1になぜ届かなかったのですか。

 

選管の非中立

 野党や左翼は、議会の決議が市民の意思の反映だとして、住民投票の必要はないと反対し、投票不参加を決めただけでなく、「悪い投票」への投票拒否を市民に呼びかけました。住民投票法では、有権者の3分の1が投票しないと開票できないことになっています。左傾化した選挙管理委員会は、野党と左翼の投票ボイコットの呼びかけを野放しにしたまま、市長の「投票しましょう」という呼びかけ(「8月24日は住民投票日」写真参照)を「投票誘導に当る選挙法違反だ」として禁止したのです。

今ひとつは、投票日が平日だったことです。投票するためには勤務中に職場を無断で抜け出すことなど出来ず、早退や休暇という手続きを取らなければなりませんでした。投票日の決め方も市長には不利、左翼に有利に働くという著しく公平さを欠いたことも投票が規定数に至らなかった無視できない理由でした。

しかし、もっと重大な問題は、呉市長に反対する左派は投票自体を拒否したため、投票に参加する人たちの大多数が市長の主張の賛成者ですから、投票に行く者は市長への賛成派に見られ、選挙の原則の一つである投票の「秘密」が破壊され、全体主義社会を彷彿させる事実上の公開投票になったことです。その上、投票をボイコットしたはずの野党や左派は投票場に参観人として入って、野党や左翼に反対する有権者を把握、監視したわけです。つまり、「福祉ポピュリズム」に反対する有権者が心理的に圧迫感を感じる中で投票が行なわれたという、極めて問題の多い選挙でした。

今回のソウル市の住民投票は、現象としては「給食費の全面無償実施」か「市の財政を見て段階的に実施する」かというー地方の「給食福祉」をめぐる争いのような受け取り方がありますが、ことはそれほど簡単なものではありませんでした。野党や左翼は来年の選挙政局をいわゆる「福祉」で争点にしようとしたのです。

 

ばらまきは従属への道

佐藤 私の孫は東京都下の市立中学2年生ですが、給食費は月額5000円支払っています。ソウル市議会の給食無償化措置は、民主党の「児童手当」と同じ最も安易な大衆迎合で、カネをばらまき、票を集める愚民政策の最たるものです。

日本の現状は、政権担当者が赤字国債(借金)を発行して、自民党政権時代から国民にカネをばら撒き、有権者もばらまくものに投票して来ました。その累計赤字は900兆円、国民1人当り700万円という天文学的な借金です。借金は返済しなければ国家財政が破綻(はたん)します。返済するためには、景気をよくして税収を増やさなければなりません。その目途は全く立っていません。韓国も例外ではなく、株価が暴落、物価上昇を止めることが出来ないでいます。国家財政はピンチなのです。

日本の国債(赤字)は、日本の金融機関が買っていますから、日本政府は金融機関に対して、一定のコントロールが出来ます。しかし、韓国の国債は中国など外国資本も買いますから、政府のコントロールが効き難いのです。内政のばらまきは、健全な自由民主社会を破壊し、やがては外国資本の発言力を強める深刻な問題を内包しているのです。

 

新しい政治の嵐

 さらに深刻な問題は、左翼は学校給食を税金から賄うことを「給食福祉」と呼んでいるのですが、これは序の口で、これから「無償シリーズ」が爆発しかねないことです。なんでもただみたいなことは、社会主義の真似、北の真似ごとなのです。そもそも社会主義に勝つために拡大させてきた先進国の「福祉」政策路線が、理性を失って大衆迎合になると社会主義そのものになりかねません。

実際、「全教組」(教員組合の全国組織)の核心勢力は、無償学校給食を「小ブルジョア家族制度の撤廃」と位置づけています。そもそもすべての生徒に画一的な食事を強いるのも野蛮ですが、左翼はそれを「福祉」という名で選挙に利用、革命を目論んでいます。

今、指摘があったように左翼の煽動に迎合すると、金融を通じて中国の支配を招く売国の道にも繋がります。「福祉ポピュリズム」を拒否した呉世勲市長の言動は、高く評価できる新しい政治の嵐の前兆と言ってよいでしょう。呉市長の今回の失敗はより大きな前進のための「投資」でした。

 

佐藤 ところで与党ハンナラ党は、このたびのソウル市の住民投票にどんな態度を取ったのでしょうか。与党が首都で動けば、こんなことは起きないと思われるのですが。

 

左翼と同じ朴槿恵氏

 一言でいうと、ほとんど傍観です。特に朴槿恵系は呉ソウル市長を批判しました。理由は、大衆におもねって票を集めるという点で左翼と同じだからです。国家財政がどうなるか、統一のときの資金をどうするかなど全く考えていません。頭にあるのは、来年4月の総選挙で自分が当選できるかどうかだけです。

真実を訴え、左翼の出鱈目さ加減を暴露し、呉ソウル市長のように戦うならば勝利する筈なのに、逆にばらまけば当選できると思っているのです。大統領候補として最も有力視されている朴槿恵氏は、呆れたことに「住民投票はソウル市の問題」であり、われ関せずと言い放ちました。彼女は10年前に北を訪問してから、金正日批判を一切しなくなりました。韓国の愛国保守勢力は、左翼と戦うソウル市長を支援しなかった朴槿恵と与党ハンナラ党に嫌悪を感じ、今まで朴槿恵を支持した多くの人々が彼女から離れました。

 

佐藤 ところで、左翼はいつからソウル市議会を3分の2占めるようになったのですか。

 

金正日独裁政権と戦わない李明博

 ソウル市議会を野党・左翼が席捲したのは、昨年6月2日の統一地方選挙でした。選挙間近の3月に、北側が韓国海軍の「天安艦」を撃沈して47人の海軍兵士を殺したのに、李明博政権は、金正日に断固とした報復もせずにうろたえているうちに、金正日体制を庇ってきた野党や左翼勢力に起死回生のとんでもない煽動を許してしまったのです。

つまり、親北勢力は地方選挙で、南北間にこのような緊張状態を作り出したのはハンナラ党と李明博政権の対北強硬政策にあるのだから、「ハンナラ党候補への投票は戦争に繋がる。左翼への投票は平和への道」と、戦争を恐れる有権者を巧みに組織したのでした。その結果、首都ソウル市の議会を明け渡すことになり、「給食費無償化」という大衆迎合となって現われてきたのです。

要するに、李明博とハンナラ党は執権3年半が過ぎた今日まで、金大中と盧武鉉政権が10年間、反憲法的活動を行なってきた人達を李明博は、言論界なども含めて排除するのではなく、広く登用してきたことです。その結果、左翼は力を温存し、ソウル市議会を占有するまでになりました。

大統領という合法的権力が与えられているのに、その権限を行使せず左翼を野放しにしたことが、逆に左翼にやられるという深刻な事態に直面しているのです。

 

愛国勢力の統一候補に

佐藤 天安艦を撃沈したのは金正日なのだ。左翼の言い分は、李明博政権が金正日の気分を害したから緊張状態が起きた、という「奴隷の平和」論そのものです。こんなインチキな親北左翼の煽動を粉砕できずにソウル市議会を彼らに占拠されたのです。その根本的な理由は、「中道」「国民融和」などという観念論に毒され、左翼と戦う勇気がなかったからです。このような事態を招いたのは、ハンナラ党と李明博大統領の自業自得です。                                  だが、愛国保守勢力にとっては「不幸中の幸い」ということが言えるのではないか。日本ではハンナラ党が韓国の保守勢力と理解している人が多いようですが、それは誤解であることがますますはっきりしたことです。

もう一つ、来年末の大統領選挙で愛国保守勢力は万難を排して呉世勲氏のような候補で一本化すべきではないでしょうか。韓国の愛国保守勢力は大統領ポストを握れるかどうか、天下分け目の戦いになって来ましたね。

 

未来を切り開く「福祉ポピュリズム」との戦い

 非常に厳しい状況です。実は、呉市長が辞任した直後に、呉市長を辞めさせた「無償給食」の張本人である郭魯炫ソウル市教育監(教育長)が、去年6月の教育監選挙で、左派の有力候補をおカネで買収していたことが発覚しました。郭の候補買収はあまりにも重大な選挙犯罪ですから、今週末にも逮捕されると見られています。これは左派には致命的で、ハンナラ党にとって絶好の材料なのに、李明博とハンナラ党は10月26日のソウル市長選挙をめぐって主導権を握れないでいます。逆に、野党でもない朴元淳という骨の髄までの左翼と、ソウル大学融合科学技術大学院長の安哲秀という左翼煽動家に押されています。

メディアや教育、そして「文化権力」を掌握した左派の長期間の組織的な宣伝・煽動によって、普通の有権者や庶民は経済や暮らし向きにばかり関心をもち、「福祉ポピュリズム」を振りかざす左派煽動屋の餌食になり易いのが実態です。

「福祉ポピュリズム」の誘惑を拒否して住民投票に参加した215万人のソウル市民(全有権者の25.7%)に象徴される韓国の健全な愛国勢力が、北韓解放という未完の自由民主主義革命を成し遂げるためにも、反逆的従北勢力はもちろん、現状に安住しようとする一切の既得権勢力の打破のために決起すれば、韓国は未来に向けて前進し続けられると思います。そのための動きが活発化しています。

 

洪熒 桜美林大学客員教授

佐藤勝巳 ネット「現代コリア」主筆

更新日:2022年6月24日