手術の日から歩く決意

佐藤勝巳

(2011. 5.23)

 

早く手術しましょう

私は、東京都健康医療公社T病院(板橋区)外科の主治医から、「脱腸は、早く閉じてしまいましょう」と手術を勧められ、躊躇の末、6月中旬に開腹手術を受けることにした。「それにしても俺はついてないなぁ……」と心の中でつぶやきながら、手術前の血液検査、レントゲン撮影、心電図、肺活量などの検査に向かった。

 

昨年12月24日午前、猛烈な腹痛に襲われた私は、自宅から近いA救急病院に駆け込んだ。盲腸が化膿、破裂し、腹膜炎をおこし、緊急手術で命拾いをした。入院は、3週間近くであったが、傷口が塞がるのに50日かかった。落ちた体力がようやく回復に向かった4月27日、腹膜炎手術の傷口の右側腹部が、痛みもなく突然膨らんできた。

 

脱腸

驚いて、腹膜炎を手術したA病院の救急外来をふたたび訪れた。若い医師は見た瞬間「脱腸ですね」と即断した。昨年末の腹膜炎手術のとき、くっついたはずの筋肉が離れ、腸が腹の中に飛び出し腹部が膨らんでいるというものだ。診察室のベッドに仰向けに寝ると腸が所定の位置に納まり、お腹は平らになる。

私は予想外の出来事に、咄嗟に「また手術か……」と狼狽した。「脱腸でどんな障害が考えられるのか」「処置にどんな方法があるのか」「もし手術なら全身麻酔か」と、矢継ぎ早に質問をした。

 

77歳で、胃ガンの手術で胃の半分を切除。81歳で腹膜炎手術、82歳でまた脱腸の手術か……。普段強気の私も、このときは落ち込んでいくのを止めることは出来なかった。

 

「健康オタク」

私は、昨年末(81歳)の手術の直前まで、毎日平均8000歩以上歩いていた。スクワット(上体を垂直にして屈伸を繰り返す)は1日50回以上。5つのポーズで構成されている「チベット体操」は1日20回を目標に、2年間行って来た。気功も過去に少し休んだ期間もあったが、1日10分から15分、20年間以上継続してきた。

ガンの再発、転移を抑止するため、鍼を使う「自律神経免疫療法」も月3回、2年間治療を受けてきた。玄米を食べ、「高脂肪・高蛋白質」(肉類、牛乳と卵)を極力避け、野菜中心の「食生活習慣」に変えて2年が過ぎた。趣味の社交ダンスも30年ぐらい続いている。娘に「健康オタク」と言われるほど、健康維持にエネルギーを使ってきた。体調はすこぶる順調であった。

だから腹膜炎の手術で多少体力が落ちても、容易に回復出来ると、秘かに自信を持っていた。だが、それがとんでもない勘違いであったことを、現実に教えられるのに時間を必要としなかった。

 

妻も入院

1月上旬、あと4日で退院できると喜んでいた矢先、妻が骨粗鬆症による圧迫骨折で倒れ、私が入院しているA救急病院に入院してきたのだ。1月11日、退院した私は、体力の低下による不快な症状――便秘、目、鼻、耳、喉(無呼吸症候群の悪化)、膀胱炎、睡魔など――に悩まされながら、半病人の身で妻の看病もしなければならなくなった。アッという間に生活のリズムが壊された。

2月上旬、妻が寝たきりに近い状態になった。自宅から病室まで歩いて5分ほどだから、朝昼晩3食を妻の病室に足を運び、食事の介助をした。私は、81歳まで包丁を持ったことがなかった。突然、自分の食事を作り、食べなければならなくなった。スーパーマーケットに行けば何でも売っている。だが、いろいろ考えた結果、出来るだけ「自主的に作り」、不足の物を買って補うことにした。

 

溜まるストレス

ところが、味噌汁を作る手順が分からない。それ以前に、包丁がどこにあり、どの包丁で何を切るのか、ダシ、具、味噌の分量も分からない。どこにどんな食器があるのか見当がつかない。いままで使ったことのない神経を使う。急速にストレスが溜まり、心身ともに余裕を失い、歩くどころの騒ぎではない。

 

夜、ようやく自分の時間になり、テレビをつけると画面がぼやけてはっきり見えない。耳も遠くなり音声もよく聞き取れない。話相手もなく、焦りと不安がつのり出した。寒いせいか鼻水が止まらない。鼻の穴に鼻血を止めるときの要領でちり紙を押し込むと、当然口呼吸となるので、酸欠気味となり、肩で浅い呼吸を繰り返す。最悪の体調の中での病院通いであったが、幸い風邪は引かなかった。風邪を引けば、肺炎の確率は高かったはずだが、免疫療法効果であろう。

 

無呼吸症候群

分からないことだらけの台所仕事も、水道のような鼻水も、なんとか我慢できる。私が最も悩まさられたのは、眠るとき呼吸が止まるような感じがして、十分な睡眠がとれないことであった。安定した睡眠がとれなくなる病気を「無呼吸症候群」と呼ぶのだが、2年程前から私の無呼吸が進み、「経鼻的持続陽圧呼吸療法」を医師に指導され、酸素マスクのような器具を鼻に当てて空気を送り込み、喉の奥を開き、無呼吸状態にならないようにして睡眠をとっていた。

 

眠剤による幻覚

5年程前に胃がんを手術したときは、以前から眠剤を服用していたので、手術前にその旨を医師に伝え、点滴の中に眠剤を混入してもらった。ところが、点滴が開始されてまもなくのことである。ベッドの天井に労働組合のステッカーのようなものが目に入ってきた。どこかで見た風景だ。そうだ、1970年代後半、文京区音羽にあった東大病院分院の労働組合は新左翼系で、労組の主張を病院の壁や天井に貼りめぐらせていたことがあった。それと全く同じ情景だ。私は、とんでもない病院に入院してしまったと後悔をした。

ところが、そのうちに天井に東武東上線大山駅の倉庫のようなところから池袋行き方面のホームが見えた。看護師に「なぜ俺を倉庫に寝かせているのか」とただすと、「ここは病室です」と答えるではないか。

私は初めて、これは自分の意識がおかしいのであって、すべてが〝幻覚症状〟なのだと分かって、愕然とした。そして「どうしよう」と思った瞬間、パニック状態に陥り、輾転反側を繰り返して朝まで熟睡することが出来なかった。

 

さらに進んだ幻覚

昨年末の腹膜炎の手術の直後も、眠剤を点滴に混ぜた結果、幻覚に悩まされた。1960年代後半頃どこかで観た記録映画であろうか、「ベトナム戦争」のとき「べトコン」(ゲリラ)がサイゴンを目ざして南進する画面が延々と続いたかと思うと、金日成のパルチザン(ゲリラ)が旧日本軍を攻撃する場面に切りかわり、いつの間にか、私の知人が、北朝鮮に拉致された日本人被害者を救出するため日本の政界工作をする話に変わっていく。

ようやく幻覚症状が消えたものの、今度は、米軍の沖縄基地撤去を求める反米のラジオ放送が延々と聞こえ出した。厄介なことに、私の脳裡ではこれらの画像は幻覚であり、ラジオは幻聴であると明確に意識している。そんな自分が気味悪くなってきた。術後の睡眠は早期回復のために絶対必要なのだからという脅迫観念にも似た焦りで、ベッドの角度をいろいろ変えてみるが効果がなかった。しまいに「どうとでもなれ」とひらき直ったのが良かったのか、少し眠ることが出来た。

 

安易な眠剤使用

次の点滴から眠剤を中止した。幻覚、幻聴はなくなったが、今度は、熟睡出来なくなった。私は、この際眠剤使用を中止しようと考え、持参した眠剤を飲まなかった。いつも24時に寝て、朝7時ごろ起きていた私にとって、21時から朝6時までの消灯は相当な苦痛を伴った。

 

若い頃は、どんなところでも仮眠ができた。10年ほど前に主治医との雑談の中で「70代になってから寝つきが悪くなって」と言ったら、「眠剤を出しましょうか」ということで安易に眠剤を服用するようになった。この習慣を大手術の後にもつづけた結果が「幻覚・幻聴」を引き起こし、肝腎の熟睡を妨げたのだ。安易な眠剤使用が余病を併発し、大事に至る可能性もあることなど、患者も医師も想像もしていなかった。ストレスからの不眠、眠剤使用、副作用という流れは、立派な現代病(生活習慣病)そのものである。このことから、患者は安易に眠剤に頼らないこと、処方する医師たちは簡単に眠剤を与えないことに留意すべきである。

 

睡魔

眠剤服用を止めたので熟睡できなくなった。退院近くになって、無呼吸を防ぐ器具をつけても、無呼吸になり出した。当然睡眠は浅くなり、病院の待合室で待っているうちに昏睡して、名前を呼ばれても分からないことがときどき起きた。妻の病状も悪化し、1月末から2月上旬にかけて、しばしば不安に取りつかれ動揺するようになった。鬱病にならなかったのは、そのたびに、気功の呼吸法で深呼吸をして、危機を回避したからである。東京都健康長寿医療センター神経内科のA医師は、医学的立場から「精神的不安は、交感神経と副交感神経のバランスが崩れたときに起きる。深呼吸によって、崩れたものを正常化させているからです」と教えてくれた。

 

医師の一言

2月上旬、「危ない」と不安を感じた私は、前から「無呼吸症候群」の治療を受けていた前述の東京都医療公社T病院呼吸器内科の担当医の診察を受けた。そして一連の経過を説明、器具を使用しても効果がない旨報告した。黙って聴いていた担当医は「よく病院から出てこられましたね」と感に堪えぬという表情で私を見詰めた。「でも、この器具が効果なく、無呼吸で死亡したという話は耳にしたことがありません。効果がないと感じたのは気のせいです。そのまま使用してください。まもなく手術前に戻ります」と普段温厚な医師が珍しく断定的に言った。さらに、「眠剤をやめるときは体調のよいときです。体調のよくないときの眠剤中止は、タイミングを間違っています」と浅はかな素人判断も戒めてくれた。

私は、この医師の助言で安心して眠れるようになった。そして「健康オタク」で貯金していた体力と気力、何よりも2人の子供の献身的なサポートが、私と妻の命を救ってくれたと確信している。

 

手術の日から歩く決意

今度の手術は、胃や腸など臓器には一切メスは入らない。腹膜炎の手術の後、裂けた傷口にパッチを当てて縫う処置である。健康なときに1日8000歩歩いていたが、このごろようやく5000歩まで戻ってきていたときだ。残念だが、また、ゼロからの出発となる。自分の経験から、高齢者の無理は禁物である。あくまでも体調の許す範囲内であるが、手術のその日から歩き出そうと、気持ちだけは前を向いていたい。

更新日:2022年6月24日