総聯の「犯罪」①

佐藤勝巳

(2010. 4. 9)

 

まえがき

 民主党鳩山政権が、外国人に地方参政権を与えるとか、総聯所有の朝鮮高校生の授業料を支援するとか、信じがたいような事を具体化させようとしている。こうした動きに筆者が何故「信じがたい」と言うのかというと、それは民主党をはじめ、自民党も官僚も金正日政権の〝恐さ〟を知らない、いや、知ろうとしていないことに危惧を抱くからである。

 自民党政権時代の2002年春、総聯所有の朝鮮信用組合が破綻したとき、金融庁は「法律に従って」と称して、この信組を1兆4000億円の公的資金(税金)を与えて救済した。だが、この信組は他の金融機関と違って、預金を北朝鮮に運んでいたことで破綻したのだ。違法行為をやっていた金融機関を何故に救済したのかについての答えは、国会においても明らかにされなかった(本欄3月25日掲載の対談「北、100年の植民地からの解放(下)」を参照してほしい)。

 その結果、どうなったか。北朝鮮は核ミサイルの開発に拍車をかけた。日本から運ばれた朝鮮信用組合の預金が核ミサイルの開発につぎ込まれたのではないかと私は見ている。日米秘密協定を問題にするのなら、今一度、朝鮮信用組合の1兆4000億円を再調査の対象にすべきだと言いたい。民主党政権は日本国の利益を守るためにも、北朝鮮の傘下にある朝鮮総聯なる組織がどういう組織であるかをきちんと理解して欲しい。そのためにこれから何回かに分けて述べることにした。

 最初に、ある裁判で元総聯副議長故文東建氏の家族に名誉毀損で訴えられた被告の依頼によって書いた、筆者の意見陳述書を読んでほしい。

 

 

    文東建氏についての意見陳述書        09年1月13日

                          佐藤勝巳

 

Ⅰ 陳述人(佐藤勝巳)と朝鮮総聯の関係

 在日本朝鮮人総聯合会(以下「総聯」と呼ぶ)が、傘下朝鮮人の朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」と呼ぶ)への「帰国」を呼びかけたのは、1958年8月15日からである。1959年12月、帰国第1船が在日朝鮮人数百名を乗せて新潟港から北朝鮮の清津港に向け出航した。帰国事業の開始である。

 当時、総聯新潟県本部の友好団体の一つである民主商工会の渉外部長であった私(以下「陳述人」と記す)は、この帰国運動に積極的に関わっていたので、総聯組織と関係を持つようになった。

 陳述人は、帰国が始まった直後の1960年から64年までの4年間、総聯の日本人側カウンターパートナーであった日朝協会(1955年11月に「日本と朝鮮両民族の理解と友好を深め、相互の繁栄と平和に貢献すること」を目的に設立された団体)新潟支部・新潟県連合会事務局長として帰国事業にかかわった。

 陳述人の仕事は実務であったが、帰国船出港地としての特殊性から、総聯新潟県本部よりも、むしろ総聯中央幹部との接触の方が多かった。また帰国船に乗ってくる朝鮮赤十字代表団という名の労働党幹部にも直接接触できる位置にいた。

 1960年、当時朝鮮青年同盟副委員長であった現・総聯許宗万責任副議長(1993年就任)が、全国の青年活動家を引き連れ、帰国船訪問のため新潟市をしばしば訪問したときも、陳述人は、新潟市内のお寺の本堂など安い宿泊施設や貸布団などを斡旋したことがある。

 また、総聯中央新潟出張所長・李季白副議長(帰国し北朝鮮で死亡)をはじめ、多くの中央幹部活動家と帰国事業推進のため、日朝協会新潟支部と新潟県帰国協力会の2団体は、総聯新潟出張所の活動家と共に帰国事業を推進したのであるが、この新潟時代の4年間で、陳述人は多くの総聯幹部活動家と知り合いになった。

 しかし1964年、陳述人は健康を害し、転地療養のため東京に転居した。幸い健康を取り戻したので、翌65年夏から日本朝鮮研究所の事務局長(1965~84)となり、この間、兼任で東京外国語大学非常勤講師(1975~78)として「朝鮮事情」を教えた。

 1984年4月、日本朝鮮研究所は「現代コリア研究所」と名称を変え、2007年11月閉所するまで陳述人は所長をつとめた。その間兼任で「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(略称「救う会」)会長。1998・10~2008・7)として約10年間、拉致被害者救出運動に関与している。

 陳述人が朝鮮半島問題にかかわって半世紀になる。この間「北朝鮮の統一政策」と「在日朝鮮人の処遇と法的地位問題」の2つを主に研究してきた。新潟時代に交流していたのは総聯の活動家のみで、「朝鮮統一新聞」など在日韓国・朝鮮人の中立系の人たちと知り合うようになったのは、日本朝鮮研究所事務局長になってからである。

 陳述人は1968年「金嬉老事件」の特別弁護人、1970年の「日立就職差別反対闘争」の日本側代表となり、裁判では「特別補佐人」として、1974年春、横浜地裁で全面勝利の判決を得た。

 それ以降は、韓国を支持する在日本大韓民国民団(以下「民団」と呼ぶ)の幹部活動家と関係を持つようになった。同じころ、在日韓国人キリスト教系活動家との交流も始まった。このように在日韓国・朝鮮人各派と広く付き合いを持つ数少ない日本人の一人となった。

 文東建氏についての情報は、新潟時代知り合った総聯中央幹部「Kさん」(ご家族にご迷惑がかかる可能性があるので以下「中央幹部Kさん」と呼ばして頂く)など、その他総聯関係者からも色々なことを教えて頂いた。

 中央幹部Kさんとの付き合いは、陳述人が1978年11月に東洋経済新報社から『わが体験的朝鮮問題』を出版したときからであり、以来、約30年間、毎月1回必ず会って意見交換を行ってきた。その回数は360回に及ぶ。

 関係者周知のように、総聯組織は北朝鮮と同じくきわめて閉鎖的な社会で、日本人に組織内の情報を漏らすことは、昔も今もない。日本人で総聯内の情報を一定程度絶えず知っていたのは、陳述人以外にいなかったと思われる。

 情報をカネで買うことは珍しいことではない。だが、陳述人と中央幹部Kさんとの30年間の付き合いの中で金銭の授受は1銭たりともなかった。オフレコと断られたものは互いに厳守したことは言うまでもない。

 2人を結びつけた最大の理由は、青年時代から信じ、それにすべてをかけてきた社会主義が、個人独裁という醜悪な政治形態を形成しただけではなく、その独裁権力が長男に継承されたこと、さらに人民を餓死(1995~98年の3年間で300万人以上)させるという最悪の事態が進行したことへの絶望であった。

 中央幹部Kさんも陳述人も耐え難い現実を長年見聞するなかで、深い傷を徐々に負っていった。中央幹部Kさんから直接自分の信じたイデオロギーや過去の活動を否定する言葉を聞いたことはなかったが、言葉の端々や態度から苦渋が滲み出ていただけに、逆に負った傷の深さを窺い知ることができた。

 自分自身の否定につながる精神的苦渋は経験したものでなければ、絶対に理解しあえないものがあった。陳述人と中央幹部Kさんとの30年間に及ぶ交流は、国境を越え、同じ戦場で戦い敗れ、生き残った戦友の関係であった、と理解している。(続く)

更新日:2022年6月24日