随筆「われわれは凄い時代に生きているのかも知れない」

―山辺健太郎・神山茂夫両先輩の思い出―

佐藤勝巳

(2008.11.18)

 

「固有の領土」などない

 山辺健太郎氏(1905~77)は、戦前からの日本共産党員で非転向組である。丸善に勤めているときは英語を、刑務所の中ではドイツ語を独学、出所後、マルクスの資本論をドイツ語で読破したという。またロシア語の翻訳書もあるから、ロシア語も出来たことは間違いない。

 私から見ればこれだけでも大変偉い人である。私より24歳も年上の山辺先輩と知り合ったのは1965年春頃、当時、文京区湯島にあった日本朝鮮研究所ではなかったかと思う。

 山辺先輩は、いつも下駄履きで沢山の本や資料を風呂敷に包んで小脇に抱え、長く白いあご髭をたくわえていた。その異様な風体に、すれ違う人は何者なのかと振り返る。

 二人だけで何度か食事をしながら話したことがあるが、これがすこぶる刺激的で楽しいのだった。

 「佐藤君、固有の領土などないね。日本の固有の領土はどうして決まったか。天照大神が槍の穂先で海をかき回し、しずくが垂れたのが日本列島だ。それが日本固有の領土だという規定だ。嘘だと思ったら調べてみたまえ(資料を教えてもらったが忘れてしまった)。かように固有の領土などいい加減な話なのだ」と、のっけから刺激に満ち満ちた話が始まる。

 そして、ヨーロッパの国境の変遷、バルカン半島の支配・被支配の歴史にともなう国境の移動、中近東の歴史で国境がどう変わって行ったか、と話は次から次へと展開する。まるでマンツーマンで講義を受けているように、3時間でも4時間でもつづく。

 そして、「固有の領土などこの世の中には存在しない。国家と国家の力関係によって決まっていく」と結論するのだ。

 私の目の前で熱弁をふるっている人が、かつての日本共産党中央委員会統制委員(1958年離党)で、日本共産党機関誌「前衛」などに執筆していた、あの有名な山辺健太郎氏である。

 私のような下っ端の党員には雲の上の人である。そんな人から、じかに話を聞いているのだと思うだけでも、興奮した。新潟から東京に出て来て間もない私にとって、到底想像も出来ないことであった。

 想像が出来ないと言えば、新潟では、在日朝鮮人イコール総聯の人たちであった。ところが、東京にはいろいろな立場の韓国・朝鮮人が大勢いた。不思議だったのは、何で食べているのか分からない人たちがたくさんいたことだった。

 私が上京したのは東京オリンピックの直後、1964年11月である。初めて住む東京は、刺激に満ちて魅力的で、同時に不気味さを感じさせる大都会であった。特に新宿歌舞伎町は、戦前の国際都市上海は、こういう雰囲気ではなかったのかと思ったものだ。

 中でも、山辺先輩の話は面白かった。私のような浅学菲才の徒にとっては、限りなく刺激に満ち、ワクワクする思いで話に聞き入った。

 「山健さんに本を貸したら返ってこない」と関係者の間では有名であった。私が出会ったころは、とっくに離党し孤独であったのかも知れない。山辺先輩に離党の理由を聞かなかったが、何となく共産党向きの人でなかったことは、会った瞬間に理解できた。

 共産党は、除名された人には言うまでもなく、離党した人間に対しても、党員たちは近づかない。

 

学問の厳しさを学ぶ

 山辺先輩と知り合ったころ私はまだ党籍があったが、東京の党員で知り合いは殆どいなかった。従って誰の顔色もうかがう必要がなかった。だから、知らないことや疑問を次々と山辺先輩に質問をした。当時、山辺先輩に質問する党員など、多分いなかったと思われる。

 ある研究会で、某大学の教授の研究報告を聞きに行った。山辺先輩も出席しており、あまり面白くなかった。駅まで歩きながら一緒に帰ったのだが「佐藤君、僕も君も大学で勉強しなくてよかったなぁ」と独り言のように親しみをこめて言った言葉が忘れられない。

 すべて独学で山辺先輩は、『日韓併合小史』(岩波新書1966)、『日本統治下の朝鮮』(岩波新書1971)、『社会主義運動半生記』(岩波新書1976)など、沢山の編著書を上梓していた。その背後には、真理の追究への不断の努力の結果である膨大な知識の蓄積があった。私はこの先輩の話を通して、学問の厳しさを徹底的に叩き込まれた。

 

闘わなければ死ぬぞ

 もう一人、晩年の神山茂夫氏(1905~74)からも、たくさんのことを教えて頂いた。私が、どうして神山先輩と知り合いになったのか思い出せないのは残念であるが、多分、寺尾五郎氏(1921~99)の紹介ではないかと思われる。神山氏と寺尾氏は、1950年6月の日本共産党分裂のとき、同じ「国際派」であった。寺尾氏と神山氏との出会いは、数年前の刑務所の中でであった、という話を寺尾氏から直接聞いている。

 敗戦当日の1945年8月15日、寺尾氏は治安維持法違反最後の被疑者として、多摩刑務所に収監された。

 房内に入ると「看守の座る席にどてらを着た人相のよくない男が座っていた。行儀の悪い看守がいるものだと思った」と寺尾氏はいう。まもなく、そのどてら男が神山氏だと知った。神山氏は「牢名主」であったのだ。

 運動の時間に運動場で、寺尾氏と一緒になった神山氏に、「闘わなかったら、君の房の前の〇〇のように栄養失調になってしまうぞ、闘え」と、言われたという。

 房に帰って廊下を挟んだ前の房を注意深く観察した。看守がドアを開けるたびに、白いホコリのようなものが舞い上がる。ホコリの正体が何かわからなかったが、やがてそれが栄養失調で全身がかゆくなって、かきむしった皮膚であることがわかったとき、寺尾氏は「背筋が寒くなり、震えが止まらなかった」という。

 その寺尾氏は、1965年6月の日韓条約締結を契機に「日本は軍国主義になった」とする朝鮮労働党の主張に同調し、共産党中央と対立し、同年冬から翌66年春にかけて、査問を受けていた。

 多分、このころ寺尾氏が、私を神山氏に紹介したものと推定される。私の新潟での共産党の肩書きは地域の一細胞長にしか過ぎない。普通ならそんな兵隊が、いかに除名(1964)されていたとはいえ、24歳も年上の神山先輩に口などを聞ける立場ではなかった。

 神山先輩は、1929年(私が生まれた年)に共産党に入党している。その2年前の1927年から労働運動(自由労働組合)に参加していた。当時の日雇い労働者の組織はヤクザの組織に近く、たえず身に危険が付きまとったと言っていた。その神山先輩は「ヤクザの親分」では、と見紛うほどの凄みを漂わせていた。

 氏の『わが遺書―歴史よ、さらば』(現代評論社・1975年刊)の著作目録によると『天皇制に関する理論的諸問題』(1947)を皮切りに、経済、農業、革命論などなど29冊の著書を著している。驚くべきパワーである。 

 最近の日本共産党は、3代にわたって東大出身者がトップに座っている。悪い意味でも、よい意味でも、現在の日本を象徴していると思って見ている。

 左翼の出版物では「労働者階級」は美しく描かれているが、神山・山辺両先輩から、運動現場はそんな美しいものではないという事例を教えて頂いた。

 二人の先輩は、宮本顕治、不破哲三氏などと肌合いが全く違っていた。「随筆・贖罪意識の犯罪」(本ネット08年11月11日付)で両先輩の話を紹介したが、人間の捉え方がリアルで観念的ではなかった。

 しかし、リアリズムがあればそれでよいのかと言うと、そうでもない。左右を問わず、政治と運動のリーダーは、理論と実践、知性と人格、決断力、カリスマ性などが求められるので、評価は簡単ではない。切り口によって評価がまるで変わってくる。

 60年安保闘争のころは党中央委員で、1959年結成された「安保改定阻止国民会議」の共産党代表であった神山先輩から、「朝鮮情勢はどうなっているのか」などという電話を頂く関係になっていた。

 1970年代、寺尾先輩と酒を飲んだとき、「佐藤、お前は恐いものがないだろう。存在としてヤクザだ」と言われたことがあるが、今になってみると、神山・山辺両先輩と頭の構造を別にすれば、どこか相通じるものがあったのかも知れない。

 前にも触れたが、東京の共産党員の知り合いもほとんどいなかった。だから山辺・神山両先輩の経歴や人脈について、先入観はなかった。幸運にも御2人から虚心坦懐にさまざまなことを御教授いただけたと思っている(合掌)。

 

歴史評価は簡単に決まらない

 しかし、歴史は厳しく非情である。マルクス・レーニン主義が流布され、半世紀も経たないうちに、人民を食わせることが出来ないイデオロギーであることが、全世界に明らかになった。

 ここに名前を挙げた先輩たちは、その思想が正しいと信じ、命をかけて闘って来た人たちであった。私にとっては、たくさんのことを教えて頂いた教師である。

 今、アメリカ発の金融恐慌は、マルクスが指摘した資本主義の矛盾が更に深化している状況なのだが、これから自由競争の経済に、どの程度国家権力が規制を科すのか科さないのか。金融サミットの合意で当面する資本主義の矛盾を本当に解決出来るのか。予測は極めて困難で、誰も予測できないでいる。

 だが、共産主義の再評価という声は、世界のどこからも聞こえてこない。せいぜい日本で小林多喜二の『蟹工船』が売れている程度だ。

 人類は、産業革命によって資本主義を作り出し、それに異議を唱えた共産主義は破滅した。しかし、今、資本主義は抜き差しならない深刻な矛盾に直面し、世界が不安に怯えている。オバマ大統領の前途は容易ではない。

 100~200年単位で歴史を評価したら、何が評価されるのか分からない。われわれは凄い時代に生きているのかも知れない。

更新日:2022年6月24日