随筆・「贖罪意識」の犯罪

佐藤勝巳

(2008.11.11)

 

「贖罪意識」に汚染

 わが国の韓国・朝鮮問題には「贖罪意識」なる亡霊がさまよっていた。

 「贖罪意識」とはキリスト教の「原罪」なる特殊な考えに対置した宗教用語であって、政治用語ではない。

 それが政治用語として使われ出したのは、土井たか子・元社会党委員長が同党中央委員会(だったと記憶している)報告で、「われわれは植民地支配に対する贖罪意識を持って対処しなければならない」と述べていたのを聞いたとき、私は大変驚いたという鮮明な記憶がある。

 1970年頃から、謝罪し償いせよという「贖罪意識」は、雑誌「世界」「朝日新聞」、一部宗教者などをも捉えていった。

 1989年3月、「朝鮮政策の改善を求める会」(世話人、伊藤成彦、宇都宮徳馬、鯨岡兵輔、隅谷三喜男、田英夫、土井たか子、長洲一二、伏見康治、安江良介、和田春樹ら10人) が発足したが、事務局長の和田春樹氏は同会立ち上げの目的を、「謝罪なき日韓関係である」として、「植民地支配に対して謝罪し、補償せよ」とアピールした。「贖罪意識」を前面に出した彼らは典型的な「贖罪派」であった。

 しかしこの種の考え方は、旧社会党や旧左翼だけではなく、戦後世代の新左翼にも浸透していった。殆どのセクトが「われわれは、日本帝国主義の侵略を阻止し得なかった。戦前の清算も済んでいないのに北朝鮮を批判することは出来ない」と考えていると、何人かの活動家から直接聞いて、びっくりしたものである。

 新左翼がこの種の考えに支配されたのは、1970年7月7日「華僑青年闘争委員会」(在日中国人2世青年達で構成された「過激派」運動組織。以下「華青闘」と略す)から、日本の新左翼各党派が入管法反対闘争などで、抑圧民族としての過去を反省することなく、被抑圧アジア人民と同じ視座に立って闘おうとしていたことに対して、みずからの民族の犯した侵略戦争に対し反省が見られない、と批判されてからである。

 「われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧したことを指摘したい。われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がなされてはいないではないか。実践がない限り、連帯などと言ってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討して欲しい。われわれはさらに自らの立場で闘いぬくであろう。このことを宣言して、あるいは決別宣言としたい」(中核派機関紙「前進」1970年7月13日)というもので、これは俗に「華青闘の7・7宣言」と呼ばれた。

 この華青闘の批判を契機として、新左翼に贖罪意識が拡大したと言われている。当時、私のいた日本朝鮮研究所は、一部の新左翼から「反動」として糾弾されていたから、彼らの世界のことは全くわからない。だが、新左翼各派がこの華青闘(集会での)発言によって思想的に大きな打撃を蒙り、周章狼狽したということが、ネットで検索すると沢山あるのには、私のほうが驚いてしまった。

 私に言わせると、当時からそう思っていたが、どっちもどっち、という印象は拭いきれない。それにしても新左翼に限定して言うなら、華青闘に対してはからっきし弱く、中核派・革マル派のうちゲバによる殺人、また、連合赤軍のようなセクト内での殺人はとはどういう内的関連を持っているのか、不気味である。

 それはともかく、新左翼と雑誌「世界」の安江良介編集長が、被抑圧民族に対する態度が同じ立場であったことを知って、妙に感心してしまった。また、この種の考えは、外務官僚の中にも色濃く支配していた。

 阿南惟茂(これしげ)外務省元アジア局長(1997~2000)は、筆者に対して局長就任直後「自民党の幹部の中で、野中広務議員は、唯一贖罪意識を持った人だ」と高く評価していた。

 同じく後輩の田中均・元北東アジア課長(1987~89)も、私が北朝鮮を批判したら、新左翼の活動家と全く同じく「わが国は、朝鮮を植民地支配し、精算も済んでいなのに、批判は如何なものか……」と、態度は穏やかであったが、北東アジア課のあの狭い応接室の中で不満を隠さなかった。

 贖罪意識は、旧左翼の特に戦後共産党に入党した一部党員の中にも存在していた。1960年代の後半頃から、わが国では、このように党派を超えて、特に、日教組の教師たち、雑誌「世界」、朝日新聞などを先頭に、朝鮮植民地支配や中国「侵略」に対し、「贖罪」によって対処しなければならない、との考えが日本社会をコントロールし出した。

 一般に19世紀初頭から第1次世界大戦までを「帝国主義時代」と言われている。国家や民族に対する支配・被支配の関係は、若槻泰雄によれば、1914年時点で地球上の地表面積の84、4%を占めていた(『韓国・朝鮮人と日本人』より)というから、弱肉強食の時代は普遍的に存在したことは周知の事実であったのだ。

 第2次世界大戦後、アジア、アフリカ、ラテンアメリカで多くの国が独立していった。だが、かつての宗主国の国民の中から、植民地支配に対して贖罪に基づく「謝罪と償い」が必要などと言っているのは日本をおいて他に例がない、特殊例外なケースと言える。

 

謝罪は「政治的、外交」問題

 「そもそも植民地支配が、何故謝罪の対象なのか」と、私は機会あるたびに贖罪派に問い続けてきた。

 これに対して、「例がなければ日本が率先して例を作ればよい」と東京大学法学部大沼保昭教授は、朝日新聞に書かれていた。

 2004年4月18日、「北朝鮮とどう向きあうか」(主催“拉致被害者・家族の声をどう受けとめる 在日コリアンと日本人の集い”実行委員会、ラボール・日教済)という集会で、贖罪派の筆頭とも言うべき東京大学和田春樹名誉教授と討論する機会を得た。

 金正日政権の本質をどう捉えるか、ピョンヤン宣言の評価、拉致をどういう手段で解決するか、などなど論点は多岐にわたった。

 私は、上述のように「植民地支配がなぜ謝罪と償いの対象か」と改めてこの集会でも問題提起したところ、和田氏は、

 「植民地支配に対する謝罪と補償ということは(佐藤が指摘するように)世界史上例がないと思います。しかし、これはまさに朝鮮民族と日本の国家関係においてのみ存在する歴史的問題であります。「(北朝鮮と日本が)心を開いて協力していくことはわれわれにとって死活の問題だと思います」「北朝鮮は……将来的には韓国に吸収されるだろうと私は思っています。それ以外の道はありません。(略)民族が挙げてこのこと(謝罪と償い)を問題にしているということに対して、やはり歴史的、政治的に対応するということであって、抽象的な原理・原則の問題とは違うと私は思います。(略)植民地支配の反省・謝罪ということを非常に政治的、外交的に考えています。(略)私は、この問題はやはり朝鮮人と日本人の関係を考える場合根本的な問題であって……」

 と「謝罪と補償」の必要性を強調したのである。

 「謝罪と補償」したら和田氏が言うように本当に友好関係が進むのか、と素朴な疑問は拭えなかった。何故なら、後で詳しく触れるが、私は和田氏とは正反対の「謝罪すればするほど悪くなる両民族関係」という認識を持っていたからだ。

 「植民地支配が謝罪の対象」という考え方は、戦前は言うまでもなく、1960年の安保闘争でも、1965年の日韓条約反対闘争にも殆ど見られなかった。これは、戦後教育を受けた世代が社会に出てきたことと関係がある、と私は推定している。

 

「贖罪意識」と無縁の人たち

  1967年(68年だったかもしれない)、朝鮮史研究会の席上での出来事を紹介しよう。

 「何を馬鹿なことを言っているのか……」と若い研究者の報告を聞きながら、私の隣でつぶやいていた山辺健太郎氏(1905―1977、歴史家、労働運動、日本共産党統制委員、1958年共産党離党)は、質疑応答に入るやいなや立ち上がって発言した。

 「報告者は民族的責任云々と言っていたが、それは事実と違う。朝鮮人の中にも治安維持法違反容疑で逮捕されて転向した人間もいたし、非転向の人もいた。帝国主義の手先になった朝鮮人もいたし、そうでない人もいた。日本人も同じだ。それをどうして[民族]でくくれるのか」

 と、日本の警察官などに協力した朝鮮人の具体的な事象を紹介しながら、反対意見をかなり激しい調子で述べたのである。若い研究者は答えに窮し、立ち往生してしまった。

  また、元共産党中央委員であった神山茂夫氏(1905―1974)からも、同じような話をうかがった。あるとき自宅を訪問した私に、「党内で思想的に転向したものを、否定的に見ている者がいるがそれは正しくない。朴恩哲(敗戦直後日本共産党中央委員候補)は、転向組であった。だが、われわれは、彼によって栄養失調で死なないですんだのだ」とおっしゃる。

 「それはどういうことですか」と尋ねた私に、神山氏は「敗戦当時私は、治安維持法違反で多摩刑務所に収容されていた。朴恩哲は転向していたので、刑務所の外の作業に従事していた。彼は、作業中にどこからかブドウ糖を入手して、私のシンパの看守を通じて、私の独房に届けてくれた。届けられたブドウ糖を、薬を包む紙に折りたたみ、多摩刑務所内の同志に、同じ看守を通じ分配してもらった。お陰でわれわれは栄養失調で死ななくてすんだのだ。転向・非転向で簡単に人を測ってはならない」

 と厳しい顔で語ってくれたのである。

 1945年10月の日本共産党再建時の中央委員候補で、朝鮮人部副部長であったとも言われていた金斗鎔氏は、転向して、敗戦時には刑務所の外にいた。彼は、敗戦と同時に政治犯救援組織を結成、GHQ(連合軍司指令部)などに対して政治犯の釈放を積極的に働きかけた。

 金斗鎔氏の活躍のおかげで、同年10月、非転向組は刑務所から釈放されたのであるが、出迎えたのは在日朝鮮人のみで、日本人はひとりもいなかったという(日本人が治安法違反に問われた政治犯釈放に動いたという事実も、出迎えに行ったという話も知らない)。

 ただ、神山先輩が私に語った「朴恩哲転向」が本当なら刑務所外にいたはずだが、敗戦の混乱で釈放が遅れていた可能性がある(この間の事情は改めて調査の要あり)。

 山辺・神山両先輩に共通していたことは、支配階級に対して日本人の誰が、朝鮮人の誰が戦ったのか、戦わなかったかであった。抽象的な支配・被支配などという観念的なものではなかった。従って、両先輩たちには、支配民族としての「贖罪意識」など微塵も見られなかった。言うところの「階級的観点」で貫かれていた。多分、他の徳田球一、宮本顕治、志賀義男氏ら非転向組も贖罪意識など皆無だったと思われる。 

 

「贖罪意識」は「劣等感」の裏返しか

 さてこの違いは何であるか。第2次世界大戦後の社会では、共産党員は、当然なこととして、非転向組は、支配者に屈せず、獄中とは言え戦い続けたということで(保守層は別にして)、社会民主主義者・進歩派勢力の中で畏敬の念を持って迎えられた。

 当時、共産主義の本家ソ連共産党が、日本で相手にした政党は日本共産党で、社会党などの社会民主主義政党ではなかった。ソ連共産党に相手にされない社会民主主義者と、その系列の文化人たちの間に、帝国主義と戦わなかったという負い目が、劣等感を持つにいたったのではないか (これは大変興味ある問題で若い研究者に研究を託したい)。

 この劣等感の裏返しが「贖罪意識」となったのではないか、という仮説を私は立てている。というのは、贖罪派の人には朝鮮人・朝鮮民族を相対化して見ることが出来ない特徴があるからだ。  

 たとえば、華青闘に批判されたあるセクトは「被抑圧民族無条件支持」という方針を採択している。前述の和田春樹氏の主張も、もって回った言い方をしているが、分かりやすく言うなら、差し当たって相手の要求を受け入れ「謝罪」しておけば関係はうまくいく、という安易さが見え、「無責任」ということでは、新左翼の「被抑圧民族の無条件支持」と同類といえる。また先に紹介した外務官僚も同類である。

 山辺健太郎氏も神山茂夫両氏も、現実を現実として認めた発言で、思い入れなどない。両氏は、戦前朝鮮人と一緒に労働運動・非合法の革命運動をやっている。両氏が朝鮮人と言うとき、具体的な顔が浮かんでおり、抽象的な朝鮮人ではないのだ。

 両氏から革命運動の中での朝鮮人との関係を沢山聞いてきた私も、韓国・朝鮮人を具体的にしか知らない。だから、贖罪意識など持とうとしても持ちようがないのだ。

 戦後教育を受けた新左翼活動家が、華青闘のハッタリとも言える非階級的な批判に右往左往したのは、日本近代史を全否定した第2次世界大戦後の「平和と民主主義教育」の産物ではないのか。

 韓国・朝鮮人たちと一度でもよいから、一緒に運動をしてみるが良い。優れた人もいるし、そうでない人もいる。われわれと変わらない人間の集団であることが容易に理解できる。要するに贖罪派は、韓国・朝鮮人のことを何も知らない、無知なのだ。

 

 1969年(であったと思うが)、私が文京区内で講演をしたとき、朝鮮戦争に言及し、在日韓国人のなかで、祖国防衛のため600名が志願して戦争に参加したが、そのとき日本ではカネへん景気で、くず鉄が値上がりして儲けた在日韓国人がいた。この二つの集団を同じ在日、同じ民族でくくることは出来ない、という趣旨の発言をした。

 講演が終わるやいなや、華青闘の活動家数名に取り囲まれ「抑圧民族である日本人から、被抑圧人民に対して批判される筋合いはない」と抗議された。当時、私も若かったから激しい言い合いとなり、騒然となった。

 だが、あんなに偉そうなことを言っていた華青闘は、「7・7宣言」の2年後1972年には解散してしまった。彼らが支持してやまなかった中国共産党は、現在、事実上マルクス・レーニン主義を放棄したと見てよい。かつての華青闘の諸君が今、どこで何をしているのか、大変興味がある。

 全く同じことが、数年後「民族差別と闘う連絡協議会」の中でも起きた。ある日本人研究者が、会議の席上で在日韓国人が日本社会の決まりを守らないことを指摘し、改善を求めた。すると、在日韓国人リーダーは「抑圧民族である日本人から批判されることはない」と言って聞く耳を持たなかった。

 要するに彼らのいう「抑圧民族云々」または「36年の植民地支配をどう思うか」などは、彼らに対する日本人の批判を封じるための「殺し文句」にしか過ぎないのだ。また、そう言って心理的に優位に立ちたいという皮相なものだったのだ。

 

アジアを駄目にする「贖罪意識」

 彼らの最大の問題点は、日本の支配を声高に糾弾するが、自分たちがなぜ支配されたかについては、全く目が向かないことである。1910年の日韓併合以来、克服すべき課題は依然未解決のまま、現在に至っている。そして韓国人の一部では今もって、和田氏のような贖罪派を指して「良心的日本人」と評価するものが後を絶たない。

 だが、よく考えてみれば、日本の贖罪派の言動は、彼らの未解決課題の克服を妨害しているのであり、例えて言うなら、首を吊る人間の足を引っ張るに等しい行為なのだ。

 つまり、和田春樹氏ら贖罪派のやっていることは、客観的には冷酷非情なのだということに気づかなくていけない。和田氏らの認識に基づいて作った「アジア女性基金」の結果は、成功したのか、失敗したのか、関係者の総括を聞きたいものである。

 和田春樹氏と同じ考えを持つ贖罪派の外務官僚は、中国や北朝鮮・韓国に対してまともな外交などできるはずがない。日本の国益を損なうだけではなく、アジア諸国全体を駄目にしていく犯罪的な考えと言える。

 「謝罪すればするほど悪くなる関係」と言い続けてきた私の意図は、以上のことを指すものである。それにしても、贖罪などと言う妖怪に支配されるこの国はどうなるのだろう。

更新日:2022年6月24日