首相がまた辞任した意味

佐藤勝巳

(2008. 9. 4)

 

 福田首相が辞任したことをテレビで知ったとき、「あぁあぁ……」という言葉が思わず口をついて出た。次の瞬間、これから自民党がどうなるのかではなく、この国はどうなるのか、という不安が募った。

 昨日まで「辞めろ、辞めろ」と言っていた民主党が、「とうとう福田政権を辞任に追い込んだ。次は、総選挙だ」と言うのかと思ったら、鳩山幹事長は「政権を投げ出す自民党政権は怪しからん」とか、元気のない声で「投げ出すのは無責任だ」などとぼそぼそとしゃべっていた。共産党・社民党幹部も似たようなことを口にしていた。

 辞めた方も、辞めさせた方も迫力がまるでない。活力も意欲も感じられない。野党の参議院員議員和10人近く与党に引き抜いていれば、ねじれは解消している。安倍・福田両総理総裁はそれをなぜしなかったのか。

 相手が話し合わないならそれぐらいの仕掛けがどうして出来ないのか。戦う気がないといわれても仕方があるまい。切り崩し工作をしていたら、冒頭指摘したような緊張感のない間抜けなやり取りはないと思う。

 以前から、このような沈滞しきった政治風土がこの国の最大の危機だと思っていたが、このところより深刻になっている。

 自民党総裁選挙では、安倍晋三氏が優勢となると、明らかに考えが違うはずの政治家が安倍支持にまわった。なぜか。支持をしないと閣僚ポストは回ってこないどころか冷や飯を食わされる。それを避けるために理念・政策など関係なく支持にまわる。公より私の利益が優先している。

 福田総裁選出のとき麻生氏は予想外に票を獲得したが、最後には安倍氏選出のときと似た雪崩現象が見られた。

 自民党総裁の選出基準は、誰が一番総理総裁として見識・指導力・能力・実績・胆力があるのかが重要ではない。相も変わらず派閥の利害の上に立った妥協の人事がおこなわれている。だから、政治家個人として気概と迫力が見られない者が選ばれるということにもなる。その結果が情勢に耐えられない総理二人を選出したのではないのか。

 「選挙」によって総裁に選ばれ総理になったものの、厳しい現実に直面すると持ちこたえられず政権を投げ出してしまうのだ。

 私は、「自民党が駄目なら民主党がある」とは思っていない。

 小沢一郎総理大臣は何より品格に欠けるうえ、政策も理念も歴史観もない。論外である。民主党が政権を掌握したら、より酷いことになるのではないかとの強い不安を抱いている。

 なぜなら、民主党は、自民党総裁選に見られるポスト狙いとは無縁の、自己の信念に基づく行動が支配する政党ではないからだ。自民党と五十歩百歩だ、と思っている。

 日本の政界にあって、平沼赳夫氏は信念を貫く稀有の存在である。この人を政治の表舞台に日本国民が出せないとなれば、この国はそれだけのものでしかない。

 しかし、なぜこんな私益が政界を支配するのであろうか。それは、国会議員を選出している選挙民のほとんどが、目先の利益を優先し、国家の運命や社会全体の利益を考えていないからだ。

 昨年、海上自衛隊をインド洋から引き揚げさせたことを思い起こして欲しい。多分、今回の福田氏辞任で、またも民主党や公明党は海上自衛隊をインド洋から引き揚げさせることになろう。

 日本は石油なしでは生存できないはずなのに、中東から日本に輸送されている石油を誰が守るのかは、深く考慮されない。わが国の自殺行為になりかねない事態を引き起こしている張本人は民主党であり、公明党である。昨年の参議院選で民主党を勝たせたのは選挙民である。

 よく国会議員が駄目だという話を耳にするが、国会議員は選挙民の意識の反映以外のなにものでもない。安倍晋三氏と福田康夫氏の総理辞任劇は、われわれ選挙民の民度の具体的な現れであるという現実を見つめることが、今、一番肝要なことであろう。

 それにしても、「民度にふさわしい政治の季節」が、しばらく続きそうだ。

更新日:2022年6月24日