随筆 古屋貞雄先生

佐藤勝巳

(2008. 8.25)

 

「朝大の学生はどこにいる」

 屋敷の中から古屋貞雄先生の遺体を乗せた霊柩車が出て来て、最後のお別れをするため集まった大勢の告別式参加者の前に、静かに止まった。

 出棺にあたって、最後の読経が始まろうとしたその時であった。

 「佐藤君、朝鮮大学校の学生はどこにいる」

 寺尾五郎氏の大きな声が、司会の私に向かって飛んできた。

 「誰も来ていません」と静かに答えた私に、「そんな馬鹿なことがあるか。永福町の駅からここまで朝大の学生を並べて、先生をお見送りするのが礼儀ではないのか!」と寺尾氏の野太い声が再び響き渡った。

 異様な雰囲気に気づいた参加者は、凍りついたように静まり返った。

 まずい、と判断した私は「すみません。読経をおねがいします」と僧侶を促し、出棺の儀式を執りおこなった。

 1976年1月上旬、東京都杉並区永福町にあった元・山梨県選出社会党代議士・日本朝鮮研究所理事長・弁護士・古屋貞雄先生(1889年(明治22年)12月20日生まれ)のご遺体出棺に際しての「事件」であった。

 

金日成に頼まれたら断れない

 1965年から日本朝鮮研究所の事務局長となった私は、古屋先生の晩年の約10年間、使い走りのような仕事も兼務していた。

 あるとき私は古屋先生に、「1955年に先生が訪朝されたとき、金日成からカネを預かってきたということですが、いったいいくら預かってきたのですか」と訊ねたことがある。

 「信濃町にあった総聯本部の韓君(韓徳銖議長)の部屋で、体に巻いてきた現金を渡した。他人のカネだからいくらあったか数えていないから知らない。ワッハッハッ」と言って先生は豪快に笑いとばした。

 「先生は、当時現職の国会議員ですよね……。危険を感じませんでしたか」尋ねる私に「金日成に、大学を建てるカネだ、持って行って欲しいと言われたら、断ることは出来ないだろう」と、さらりと答えた。

 北朝鮮の国会に当たる最高人民会議李英議長の招待で、日本国会議員団団長として先生は、1955年10月18日から20日までの3日間、平壌を訪問している。

 金日成首相(当時)や南日外相にも会っている。このとき、現金の移送を直接依頼されたものと推定された。なぜなら朝鮮大学校が東京都小平市小川町に校舎を建設するのが1959年であるからだ。

 「プロレタリ〒ア国際連帯のためにカネを運搬する」と先生は考えられていたと類推するが、しかし当時、いかに左翼思想が充満していたとはいえ、朝鮮大学校が総聯の幹部活動家養成機関となったことを考えると、笑って済まされることではなかった。

 古屋先生は深くモノを考えるタイプの人ではなかった。どちらかといえば「人生意気に感ず」という型の人であったから、こんな危険なことが出来たのだと思う。

 ただ、先生は1957年12月9日の衆議院本会議で日本社会党を代表して「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」で次のような賛成演説をしている。

 戦争が残虐であることを前提に考えるなら、敗戦国のみに責任を求めるのは、正義、人権尊重、公平の観点から絶対に承服できない。世界残虐史の中で新しいページを記した長崎・広島の原爆投下を忘れることが出来ない。戦勝国にも責任があると言い切って、戦犯の早期釈放を求めている。

 こんな発言をこの時代にしている国会議員がいたことを、全部の国会議員に知って欲しい。見事の一言に尽きる。

 この随筆を書くに当たってネットを徘徊して、古屋先生が国会でこんな発言をしているのを始めて知った。日本男児ここにありなのである。

 それはともかく、古屋先生の侠気を考えれば、先生は朝鮮総聯にとって大恩人のはずである。にもかかわらず「朝鮮大学校の学生」たちは誰一人先生の葬儀に顔を見せなかった。だから、寺尾氏の怒りが噴出したのである。だが寺尾発言には次のような政治的背景があった。

 

寺尾五郎氏と北朝鮮

 『38度線の北』は、1958年8月北朝鮮の建国10周年記念に、日朝協会(畑中政春理事長)は慶祝使節団を訪朝させた。寺尾氏はメンバーのひとりであったが、氏だけが他の人たちとは別に1カ月間(計2カ月間)特別に滞在を許され、「北朝鮮のすみからすみまで歩いて」(あとがき)記したのが、この北朝鮮ルポルタージュである。

 なぜ、寺尾氏だけが取材を許されたのか。それには次のような経緯があった。

 寺尾氏は、朝鮮戦争(1950~53年)が始まった1950年、日本共産党から国際派(宮本憲治氏の秘書)として除名されていた。やることがなかったので、毎日、日比谷図書館に通って、朝鮮戦争の推移を克明にトレースしたものを吉武要三というペンネームで『アメリカ敗れたり――軍事的に見た朝鮮戦争』として発表した。

 この著書が、風見章(第一次近衛内閣書記官長、戦後日本社会党代議士) 氏の手を経て北朝鮮に届けられ、朝鮮労働党幹部や軍の幹部に読まれていたのである。

 吉武要三が寺尾氏であることがわかって、前述したように氏は、日朝協会のメンバーの一人として北朝鮮に招待されたのであった。訪朝した氏は、自分の著書の表紙が手垢にまみれ、ボロボロに擦り切れていたのを見て、驚いたという。

 寺尾氏は、工場などに共産党のビラまきに行って守衛とすぐ仲良くなる。汽車で同じボックスに乗り合わせると、どんな人でもすぐ親しくなるという、「人誑(ひとたら)し」とも言うべき長所を持っていた。人の話を聞くことに優れた才能を有し、インテリでありながら天性の組織者でもあった。話は、プロの噺家より上手かった。

 寺尾氏は抜群の行動力で中国・北朝鮮を往来し、貴重な情報を絶えず入手していた。氏は、1965年、日韓会談(日本と韓国との国交正常化交渉)が妥結した直後、平壌に滞在していた。氏はある集会に参加して、労働党内の中国派、金萬哲政治局員に誰も言葉をかけないのを見て、「佐藤、朝中関係に何かが起きているぞ」と喝破した。

 翌年の1966年10月の朝鮮労働党第一回全国活動者会議で、(中国)の「内政干渉」という表現で朝中関係の対立が公然化した。

 また、労働党・統一戦線部は寺尾氏をホテルに2日間缶詰にして、総聯が北朝鮮に送った日韓会談反対の活動報告の真偽を点検して欲しいと要請されている。総聯は統一戦線部に「日韓会談の妥結などあり得ない」と報告していた。だが、妥結した。

 総聯が、自己の活動を如何に針小棒大に報告をしているかを、この時寺尾氏を通じて知った。

 私は,いままで沢山の日本人の訪朝報告を聞いているが、寺尾氏の報告を超えるものを今でも知らない。要するに北朝鮮の権力構造が解からないと、情報の位置づけが出来ない。また、文献もさることながら人を見る目がなかったら分析はできない。その意味で、氏の分析力は端倪すべからざるものがあり、多くのことを教えてもらった。

 古屋貞雄先生と寺尾氏に共通していたのは、迫力があり、オーラがあったことだ。

 

『38度線の北』の罪

 この本の中身は左翼思想の観点から、北朝鮮を素晴らしい発展の可能性を秘めた国家として近未来「日本を追い越す」国として描いた。今ともなれば予見はすべて間違っていたことは多言を要しない。

 しかし、当時、在日朝鮮人一世たちは、社会主義幻想もふくめ、韓国・朝鮮人の書くものより日本人の書くものを信用する傾向が強かった。

 特に『38度戦の北』はルポであるから「説得力」があった。結果として在日朝鮮人が騙されることとなった。

 北朝鮮から見た日本朝鮮研究所の理事長は、朝鮮大学校設立の協力者、専務理事は帰国運動の協力者、という「実績」があった。だから1963年古屋先生を団長とする日本朝鮮研究所独自の訪朝団派遣が実現したのである。 

 当時を生きてきた人間でないと分からないことであるが、社会主義北朝鮮から招待されることは、左翼の世界では大きなステータスを確保することであった。

 日本人拉致が確認された現在、北朝鮮と往来しているだけでも胡散臭く見られるのだが、日本社会の北朝鮮認識は本当に変わった。

 それはともかく、総聯結成は1955年5月。古屋先生が金日成に頼まれてカネを日本に運ぶのが同年10月である。

 私が、後になって調べて分かったのだが、総聯結成直前は、韓徳銖氏を代表とする朝鮮労働の指導下に入るべきだという「民族派」(ピョンヤンコネクションとも呼ばれていた)と、朴恩哲氏を代表とする「民対派」(日本共産党内にあった民族対策部の略。このグループは一国一党の原則に基づき、朝鮮労働党の指導下に入ることに反対していた)が、深刻な路線対立を抱え、内ゲバがあったといわれている。

 実は、朝鮮大学校建設と帰国運動は、「民族派」が金日成と組んで推し進めた「民対派」潰しという「陰謀」が裏にあったのだ。そして「民対派」はパージされていった。

 古屋・寺尾両先輩はこの事実を承知していたのかどうか確認していないので分からないが、金日成・韓徳銖に利用されたことは間違いなかった。歴史の裏面は美しくない。

 ところが、1966年中国にプロレタリア文化大革命が起きると古屋貞雄・寺尾五郎両先輩は、プロ文革支持という政治的立場に立ち、プロ文革を否定する北朝鮮・総聯と疎遠となった。

 私は、古屋先生の葬儀に総聯がどんな態度をとるのか、強い関心を持って見守っていた。通夜に韓徳銖議長が1万円ほどの生花と5万円の香典を持って訪れただけで、総聯関係の花輪は全く見当たらなかった。

 大きな屋敷の周りは、在日華僑(古屋先生は後述する朝鮮人共産主義者の弁護が終わり、日本に帰ると、自由法曹団からの要請で、1930年ごろから台湾の共産主義者の弁護のため敗戦まで台北で活動を続けてきた)の人達の物凄い数の花輪で埋め尽くされた。

 

朝鮮共産党を弁護した唯一の弁護士

 政治の厳しさ、非情さを知らなかったわけではないが、しかし、どうしても私の中では韓徳銖議長はじめ総聯の態度に釈然としないものが残った。

 古屋先生は、朝鮮大学校の建設資金移送問題だけではなく、1920年代後半、朝鮮人が共産党を結成し、治安維持法違反で逮捕された「朝鮮共産党事件」(1925年の第一次から1928年の第四次まで)を当時の京城・現ソウルに赴き、長期間弁護した日本人唯一の弁護士と言ってよい。

 1925年実施された「治安維持法」は、「第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」というもので、「治安法維持法」は、1928年実施された普通選挙と抱き合わせで施行されたものだという。

 この法律は1928年最高刑が死刑と改正されたのであるが、この改正に国会で、後述の労農党の山本宣治議員一人が反対しテロにあったと言われている。

 第一次朝鮮共産党事件は「治安維持法」実施と同じ年である。古屋先生は、日本で治安維持法違反事件を弁護した最初の弁護士の可能性が高い。

 同じ自由法曹団に所属していた布施辰治弁護士も朝鮮共産党事件で弁護していたというのを知った私は、あるとき先生に「布施さんはどんな弁護士でしたか」と訊ねたことがあった。

 「彼がソウルで朝鮮共産党の弁護活動に参加したのは一週間ほどだ。すぐ日本に帰った。治安維持法違反事件で弁護料をとるのを、ブル弁(ブルジョワ弁護士の意味)というのだ」(布施弁護士は資料によると治安維持法違反弁護のため、2回京城を訪問している)。予想外の先生の厳しい反応に、私は驚いたことを鮮明に記憶している。

 

暴漢に襲撃される

 1920年代後半、朝鮮人共産党員の弁護をする日本人弁護士がいたこと自体が驚くべきことであった。果たせるかな、「国賊」として古屋先生は福岡にあった「七星義団」という右翼に命を狙われた。

 暴漢の一人が先生の宿泊している旅館を訪れ、先生の眉間を斬りつけるという事件が起きた。当時の日本警察は、治安維持法違反の被告を弁護する弁護士などの身辺を警護する気は、最初からなかったという。

 したがって自衛しかなかった。先生は「知らない人が訪ねてきたら、必ずテーブルを間におき、相手を先に座らせ、後から自分が座る。ソウルで襲われたときも雰囲気が変だと気づき座らないでいたら、いきなりドスを抜いて飛びかかってきたので、テーブルを蹴り上げ防御したから殺されないですんだ」

 「先生が一人で取り押さえたのですか」

 「隣の部屋にいた私を護衛していた朝鮮人の青年たちだ」

 翌日、先生は額を包帯で巻き、法廷に立った。朴憲永・金在鳳らの被告たちは「先生にテロを加えたテロリストを裁け」と裁判長に要求して騒然となった。結局、法廷は維持できなくなり、休廷されたという。

 当時、右から左に対するテロルが吹き荒れていた。全国農民組合大会で「今や階級的立場を守るのはただひとり山宣一人孤塁を守る! だが僕は淋しくない。背後には多くの大衆が支持しているからだ」の演説で有名な労農党山本宣治代議士が、古屋先生を襲った同じ「七星義団」の暴漢に襲われて死亡したのが1929 年3月5日である。

 先生は、「山宣が俺の教えに反して、神田の旅館で先に座ったから暴漢に刺されたのだ。残念でならない」と述懐していたことがあった。

 

脈打つ恩義

 共産主義が破綻した現在、今の価値観で先生の弁護活動を評価すれば、ナンセンスの一言で切り捨てることができるかもしれない。だが、人間社会はそんな単純なものではなかった。

 1974年の年末も押し迫ったころ、突然、先生が「30万円の地代を払わないと、ここに住めなくなる」と言い出した。

 そこで私は当時親友であった「統一朝鮮新聞」(現『統一日報』前紙)李承牧編集長に事情を話し、30万円の用立てを頼んだ。彼は、李英根社長と相談して、気持ち良く用立ててくれた。

 お陰で地代を払うことが出来、無事に新年を迎えることができた。私は、李英根社長に会って御礼を述べ、古屋先生の借用書を差し出した。  

 李社長は「われわれ朝鮮人にとって、古屋先生には足を向けて寝ることの出来ない大恩人です。借用書などとんでもない」と言って、借用書を受け取らなかった。

 そして13ヵ月後、先生は亡くなった。だが、30万円のおかげで確保できた地上権を処分することで、すべての借金を返済することができただけではなく、未亡人の老後も保障できたのである。

 葬式が終わって1ヵ月後ぐらいと記憶しているが、知らない人から私に会いたいという電話があった。名前を聞くと「会えば分かる」という。総聯幹部だと思った。JR新宿南口で落ち合ったが、お互いにすぐ分かった。現在の総聯議長・責任副議長などの大先輩に当たる人であった。

 その幹部は「われわれ朝鮮人にとって古屋先生は大恩人です。当時、朝鮮人共産主義者などだれも相手にしてくれなかった。先生は命がけでわれわれの先輩たちを弁護してくれた唯一の日本人です。未亡人の生活はどうなっているか。出来ることは何でもする、言って欲しい」と私に言った。         

 「有難う御座います。総聯の中にもあなたのように先生のことを忘れないでいてくれた人がいたのですね……」と口にした瞬間、言葉がつまり、人前もはばからず涙がとめどなく流れた。

 寺尾五郎著『朝鮮・その北と南』(新日本出版)にも氏が敗戦直後、多摩刑務所を出所したとき見ず知らずの朝鮮人がどのように温かく迎えてくれたかを熱をこめて書いている。「斬れば血が出る」関係がそこに見られた。

 日本人と朝鮮人の間には、相互に「人生意気に感じ」「恩義」が、「思想」が息づいていた時代があったのだ。

 大きな歴史の流れからすれば、マルクス・レーニン主義はわずか1世紀も保たなかった。そして古屋・寺尾・佐藤と明治・大正・昭和3代にわたって翻弄された。

 しかもすべて幻想に終わったのだが、生き方として古屋先生には信念があり、度胸があった。

 寺尾氏に対して、朝鮮問題で反省していないという批判はあるが、戦前からの共産主義者で、最後の治安維持法違反者である。戦前は朝鮮人と共に「支配階級」と、戦後は「アメリカ帝国主義」と戦ってきた歴史がある。

 

 

何も見えない

 北京オリンピックが終わった。今、わが国にはどんな思想が、どんな信念が、どんな歴史観が、そしてどんな気概があるのだろう。不透明で何も見えない、不気味である。

更新日:2022年6月24日