随筆・実戦なき自衛隊

佐藤勝巳

(2008. 5. 23)

 

 2月19日、海上自衛隊のイージス艦「あたご」が漁船と衝突事故を起こした。漁船の船員が行方不明になっているというニュースをテレビで見たとき私は、「この国は大変なことになっている」と肌が粟立った

 イージス艦は昔の1万トン級の巡洋艦に匹敵する軍艦である。軍艦が漁船と衝突するなどというのは、かつて船員であった私には考えられないことである。だが私には「戦争経験のない自衛隊だから事故が起きたのだ」と直感でわかった。

 私がはじめて米潜水艦の魚雷攻撃を受けたのは、1943年秋頃の、明日はサイゴンに入港するというカムラ湾沖であった。先輩たちが、デッキの上で夕涼みをしながらサイゴンの女性について虚実織り交ぜての「性談」で盛り上がっていた。

 突然、前方でわれわれを護衛していた駆逐艦が大きく傾いた。近くで水柱が上がった。目を凝らすと雷跡(魚雷のスクリュウが出す水の泡)2本が、左舷前方15度方面から本船に迫ってくるのが目に入った。

 瞬間、足がデッキにヘバリつき、動けなくなった。雷跡がぐんぐん近づいてくる。私は、「やられる」と思ってハンドレールを力いっぱい握り締め、目をつむった。しかし、何も起きなかった。慌てて右舷後方を振り返ると、雷跡が本船から遠ざかって行くのがかすかに見えた。その場に座り込んで暫く動けなかった。

 本船が空(から)船なので水深が浅く、魚雷が船の下を潜って、事なきを得たのである。もし積み荷をしていたら私の真下で魚雷2本が命中していたはずだ。

 われわれは、学校で何十回となく「雷跡発見! 左舷25度、距離800メートル」という具合に練習させられてきた。しかし、実際に攻撃を受けるとパニックに陥り、恐怖で足が動かなくなった。

 そのときの見張りの当直は1期先輩のHさんであった。Hさんも雷跡を指差し、「アッアッ……と言うだけで、言葉が出なかった」という。

 当直の二等航海士も、魚雷をかわすのにはこの場合「取り舵」(左に回すこと)を指令しなければならないのに、慌てて反対の「面(おも)舵」を指示し、途中で反対なのに気がつき「取り舵」に切り替えたという。

 先輩も航海士も訓練どおりに行動がとれなかった。つまり、実戦と訓練の間には心理的にこれだけの差があるということが大問題なのだ。

 私は、これを契機に見張りで手を抜くことはなくなった。といっても、あの広い海の中で潜水艦の50センチか1メートル程度の潜望鏡を発見するのが任務なのだが、見つけたこともないし、見つけたという話も聞いたことがない。可能性は限りなくゼロに近い。

 しかし、攻撃を受けて以来、死にたくないから暗闇でも敵の潜望鏡が見えるように努力をした。護衛の駆逐艦から数時間に1回程度、昼は手旗信号で、夜は、無線ではなく電燈を使ったモールス信号で数字だけの、航路を指示する暗号が伝達されてくる。受信を間違えたら大変なことになる。

 手旗信号とモールス信号の送受信ができるためには国家試験(海軍)をパスしなければならない。資格を持っているものは、5000トン級以上の貨物船1隻に2、3人乗っている。時化(しけ)に遭遇すると双眼鏡から信号の明かりがはずれそうになる。風雨のため見えにくいので、必死になって数字を呼称する。その緊張たるや、ただ事ではなかった。

 イージス艦の事故に戻るが、漁船は肉眼とレーダーの双方で確認されていた。それでいて衝突事故を起こすのは、命をかけた戦争をしたことがないからだ。緊張感の欠如以外には考えられない。

 イージス艦が警笛を鳴らして漁船に注意を促していたら、事故は容易に回避できたはずだ。なぜ、警笛を鳴らさなかったのだろう。

 1万トン級の軍艦に近づく漁船など、10トントラックに自転車で突っ込むにも等しい無謀な行為である。一度でもテロに襲われた経験を持つ海軍なら、テロ攻撃か突発事故と判断する事態だ。 

 人間とは悲しいもので、自分の命が脅かされた経験がないと真剣になれないのだ、とテレビを見ながら思った。戦争のないことを願って「自衛隊」と名づけた。そして願いどおりに自衛隊は戦争をせずにすんできた。

 2月の事故は漁船が国際テロ集団のボートという可能性は想定外。想定していたらまず警笛だ。それでも近づいてきたたら、戦闘体制に入るのが軍事力というものだ。弛緩し切った見本である。

 今、自衛官の中で実戦の経験を持つ人は皆無だ。私が魚雷攻撃を受ける前のような人間の集団が、現在の自衛隊である。戦争が始まったら、烏合の衆だ。というより、いかに高度のハイテク兵器を装備していようとも、1発のミサイル攻撃を受けただけで、操作する人間がパニック状態に陥り、機能が麻痺してしまうのは確実だ。そうなれば、何も搭載していないのと同じなのだ。

 実戦を知らない軍隊が使い物にならないことは、私のような素人でも分かる。そんな環境の中で起きたのが防衛庁事務次官の腐敗堕落である。

 国会で、事務次官の非を責めている民主党は、憲法違反を理由にテロ特別措置法を廃案に追い込み、海上自衛隊を「給油」という、実戦ではないが国際テロとの戦いの戦線から撤退せざるを得ない恥ずべき状況を作り出した。

 その民主党に多くの議席を与えたのは選挙民である。この国の防衛問題は、石破茂防衛大臣をいくら責めても解決できるような構造にはなっていないのだ。

 私が内閣総理大臣なら海上自衛隊の主要幹部を官邸に召集、激怒し責任を問うたであろう。今わが国に決定的に欠如しているのは、責任者のこの断固たる態度である。  

 随筆「遭難」で紹介した第3乾安丸が触雷で沈没する数日前の出来事である。韓国の群山港から3000トンのコメを積んで、北九州若松港に向かって航行していた。出港して数時間後、日本の主要都市に焼夷弾を投下した米機B29が頭上に現れ、航行中の船舶に高度1500メートルほどから水平爆撃を始めた。

 本船を警備するために海軍が乗船している。その責任者は見習士官で、その下に善功賞4本(4年に1本付くから16年勤務)の30代後半の兵曹長(下士官)が副責任者で乗船していた。

 水平爆撃が始まると、彼はスルスルとマストの天辺に登り、B29が爆弾を投下する瞬間(爆弾が見える)、本船に命中するかどうかを判断し、伝声管でブリッジに向かって「面舵一杯、取り舵一杯」と指揮をとり、爆弾を避けだした。

 本船すれすれに2発爆弾が落ちた。兵曹長が避けたのか、もともとそれていたのかは定かでないが命中はしなかった。

 私が舌を巻いたのは、彼の沈着冷静な行動であった。聞けば遭難経験7回、文字通り「歴戦の勇士」である。B29は立ち去った。

 すると今度はグラマン戦闘機が攻撃してきた(近くに空母がいるということだ) 。マストすれすれまで急降下してきて機関銃を掃射する。急降下するときは戦闘機を大きく傾け、角度を調整、船に向けて正面から突っ込んでくる。本船に装備してある弾の直径13ミリの機関砲でそれを迎え撃つ。 

 機関砲と機関銃の一騎打ちである。機関砲の射手は、恐いから早く引き金を引く。記憶が確かでないが、距離を測定するため数十発に1発の割合で光を発する曳光弾が含まれている。早く撃つと命中しないし、逆に、敵に距離を測られる。

 下士官が「撃つな! 撃つな!」と絶叫するが、射手は恐怖におののき、大小便垂れ流しで撃つのをやめなかった。

 実戦とはそれほど恐いものなのだ。訓練は、道場で防具をつけて竹刀で稽古をしているようなものだ。真剣を持っての斬り合いはメンタルの部分が大きな比重を占める。

 国家の安全保障は、かつての帝国海軍を支えてきたような、戦いに臨んで沈着冷静な将兵を持つことが出来るかどうかが大きなポイントの一つだ。しかし、このたびのイージス艦の事故は、それが絶望的であることをわれわれに教えた。 

 だが、実戦に通用する軍とは、戦争を経験することである。戦争は、われわれの少年時代のように個人と国家に多大な犠牲を強いる。

 しかし犠牲が伴わなければ、使い物にならない軍を維持し続けていることになる。そして事が起きたときは、国家も個人も取り返しのつかない打撃を受けるであろう、ということが不幸にして予測される。今回のイージス艦の事故は、まるで今の日本を象徴しているような事故であった。

 軍事力は平和が続くと劣化すると、いう宿命を持っている。が、イージス艦「あたご」の事故を通じて、国家の安全は一筋縄ではいかない、どうするのかを改めて考えさせられた深刻な事態であった。

更新日:2022年6月24日