随筆 戦友

佐藤勝巳

(2008. 4.24)                            

 

 結核療養所の安静時間は、部屋の中で針が落ちても分かるほど静寂である。病棟の入口にある治療室で看護婦さんの一挙手一投足が近くの病室に伝わるほど、静かさが全体を支配する。

 治療室の方から、かすかに低い男のしゃべり声が聞こえてきた。何処かで聞き覚えのある声だ。

 安静時間には誰もが、目の上に手ぬぐいのような布を載せて身じろぎもしない。神経を集中し、男の声を思い出そうとするが、思い出せない。親戚や友人知人なら午後の安静時間に面会に来るはずがない。あれは間違いなく何処かで聞いた声だ。誰だろう……。

 そのうちに治療室から男の声は消え、病棟は元の静けさに戻った。安静時間が終わっても、当直看護婦さんから私に何の話もなかった、記憶違いか。それから何日かが経った。今度は安静時間ではなく、同じ男の声が廊下から声高に聞こえてきた。

 急いでベッドから降りて廊下に出た。「湯浅だ!」。船の学校の同期で同じ川崎汽船のノルウェー丸(5800トン)で、同じ釜の飯を食った戦友だ。私の記憶に誤りはなかった。

 廊下に飛び出し「湯浅ではないか!」と叫んだ。湯浅は、大きな目を見開き「佐藤、生きていたのか、お前は死んだと聞いていた!」と言って二人は人目もはばからず抱き合って、嗚咽した。

 彼と別れたのは1943年末か、44年1月頃の台湾であった。当時ノルウェー丸は陸軍に配属され、御用船として軍の弾薬を満載してマニラに向かう途中台湾の高雄に寄港した。ところが船中で発熱した私は肺結核に冒されていることがわかり、私一人を台湾の高雄の病院に残してノルウェー丸はマニラに向けて出港したのだった。

 敗戦前に聞いた「ノルウェー丸は全滅」という噂に私も、湯浅は死んだものとばかり思っていた。その二人が、1953年(昭和28年)初夏、新潟市郊外の国立内野療養所の7病棟の廊下で再会したのだ。

 抱きついて泣いていた彼が、いきなり私の両肩を力いっぱい握り締め、ボロボロ涙を流しながら大声で「佐藤、死んだら駄目だ、肺病などに負けるな」と肩を揺さぶりながら同じ言葉を何度も繰り返した。

 「佐藤死んだら駄目だ」という奴の腹からの声は、生死を共にしてきた戦友のみが分かりあえる悲痛な体験があったから故の叫びでもあった。同期生は400名いた。敗戦後わかるのであるが、僅か1年半ほどの戦争参加で、同期生の300名もが海の藻屑と消えたのである。4人のうち3人が死亡したのである。

 湯浅と私は、娯楽室に場所を移した。

 「湯浅、お前はどうしてこんなところにいるのだ」

 奴はこともなげに「お前も知っていると思うが、ここの売店の娘と近く結婚するのだ」と得意そうにいった。

 「お前、手込めにでもしたのか」と本気とも冗談ともつかない言葉が口をついて出た。

 療養所の売店の娘さんは、当時、高校生で両親が経営する売店の手伝いに時々来ていた。 スポーツをやっているのか、均整のとれた身体と、朝露に濡れている青いリンゴのような新鮮さと清潔さを漂わせていた。患者たちの注目の的となっていた。彼女が売店に手伝いに来ていることが病棟に伝わると、男性患者が買い物に押しかけるという人気者であった。

 彼女のお父さんと私は、気が合ってよく色々なことを語り合う仲だった。お父さんは零式戦闘機のパイロットで、航空時間7000時間というキャリアの持ち主である。私の記憶に誤りがなければ、先輩は2度撃墜され、負傷して助かっている歴戦の飛行機乗りである。

 その歴戦の強者でも、海上で敵のグラマンなどと空中戦が始まると、一瞬空と海の見分けがつかなくなり、海に突っ込むのではないかという恐怖が走る、のだという。まさに空中戦は一騎撃ちで、真剣勝負なのだ。

 胆力、気力、気迫の勝負だ、と何かを射すくめるようなまなざしで物静かに語る風貌は、生死を越えてきた人間の持つ犯しがたい威厳をただよわせていた。私は、娘さんにも関心はあったが、それ以上にこの先輩のたまらない魅力に惹かれていた。

 「湯浅、お前がどうしてあの娘を……」

 「俺の実家は八百屋だ。父親が体を壊し、仕方なく家業を継ぐことになって船を辞めた。この売店に物を納めている間に……」

 湯浅は170センチ近くあり、骨格逞しく、色白で目鼻立ちがはっきりしている。性格も機知に富んでいた。いまでいうなら〝イケメン〟だ。

 彼の手をしっかり握り締め「おめでとう」と心から祝福した。私は、心の中でお互いに「生きていてよかった」と何度も何度も反芻しながら湯浅の手を離さなかった。

 「湯浅、俺を高雄において出港した後、ノルウェー丸はどうなったのか」

 「高雄港を出た途端に、船団を組む前に魚雷攻撃を受けたが、幸いにも本船は助かり、マニラにたどり着いた。ところが、港内停泊中にグラマンの攻撃を受けて、火災が起きた。火炎に包まれたノルウェー丸には6000トンの弾薬を満載されている。乗組員は陸に避難し、近くにいた船舶も避難した。結局、2昼夜程燃えて爆発した。マニラ市中のガラスというガラスを吹き飛ばして跡形もなく消えたが、乗組員は全員助かった」

 しかし、悲劇は、彼らが日本に帰国するとき起きた。船を失ったノルウェー丸乗組員60数名は、他の船に便乗してフィリピンと台湾の間にあるバシー海峡に近づいた。

 「気が付いたときは真っ暗闇の海のなかだった。魚雷でやられたということだけは分かった。目を凝らすと人がいる。お互いに声を出し合って浮遊物につかまって励まし合った。突然、目前に護衛の駆逐艦が白波を蹴立てて現れた。スクリューに巻き込まれたら輪切りになる。暫くするとその駆逐艦から爆雷投下が始まった。物凄い水圧が腹に伝わってくる。これで殺されると思った」

 と湯浅は、当時を思い出したのであろう、顔が青白く変わった。 

 普通、9隻ぐらいの貨物船で船団を編成し、1隻の駆逐艦が護衛に付く。船団の1隻が魚雷攻撃を受け撃沈されると、投げ出された船員たちが暗闇の海に浮いていることを承知の上で駆逐艦は爆雷を投下する。敵の潜水艦を攻撃しなければ次の船が狙われるからだ。

 遭難者の只中に爆雷が投下されれば、爆発する水深が浅ければ人間の腸が水圧で千切れ死亡する。戦争とはむごく残酷なものである。

 1分以内に沈むのを「轟沈」と呼ぶが、多分、湯浅たちが乗っていた船は轟沈であったと推測される。なぜなら「湯浅、何人助かったのだ」と慌てて聞く私に、彼は沈痛な声で「4人だ」と低く答えた。

 息を呑んだ。同期のあいつも、後輩のこいつも、先輩も、そして尊敬していた1等航海士も……。ボロボロと、とめどなく涙が流れて止まらなかった。

 しばらくして湯浅が「佐藤を含めて生き残ったのは5人だ。佐藤、お前は病気に助けられたのだ。運がよかった」とやや明るい顔で言った。

 太平洋戦争での戦没船員の総数は、60544人である。「軍人の消耗率は、陸軍20%、海軍16%となっているが、船員は43%」と驚くべき死亡率を示している。

 「商船の被害は、……約2500隻、800万総トンとなっている。開戦前、わが国は約600万総トンの船舶を保有し、世界3位であ(った)」という。それが開戦時の船舶のすべてを失っている。急遽「戦時標準型」という粗悪な船舶約400万総トンを建造したが、それの半分200万総トンも失ったのである。

 「財団法人日本殉職船員顕彰会」は「被害によって喪失した船舶は、わが国が世界に誇る優秀な船舶のすべてであり」(以上の引用はネット)と無念を滲ませて書いている。

 私は、この戦時標準型の第3乾安丸で、関門海峡で敗戦直前米軍が投下した機雷に触れ、ノルウェー丸ほどひどい被害ではなかったが、同じような地獄を見てきた。

 船員に、なぜかくも多大の犠牲者が出たか。戦争継続に絶対必要な条件は輸送である。米軍は輸送網(シーライン)の切断を狙い、特に、バシー海峡に潜水艦を配備、日本の貨物船を狙った。そして「わが国の商船隊は太平洋を墓場として壊滅した」(前掲)のである。

 当時われわれは、日本最後の港を出港するとき、爪と髪の毛を切って故郷の父母に送り、「南方方面」に向かった。

 湯浅は「運」と言った。誰が助かり、誰が死ぬかは神も予測できない。当時の少年たちはそういう時代を緊張のなかで生きてきたのだ。

 話し終えた二人は、言葉なく、万感の想いを込めて娯楽室の窓越しに、夕日に映えるスイカ畑を眺め続けていた。

更新日:2022年6月24日