金門橋

佐藤勝巳

(2008. 3.25)

 

竜宮城

 サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)がぐんぐん近づいてくる。船のマストが引っかかるのではないかと思ったが、真下に行ったら橋は意外に高かった。

 18歳の軍国少年であった私が、米貨物船(7000トン)の乗組員として、米西海岸のサンフランシスコに入港したのは1948年(昭和23年)5月頃であった。

 思えば、横浜を出港したのが1月上旬。世界一周航路や南米航路に就航した経験を持つ先輩たちも、5ヶ月間も上陸せず航海をした経験は初めてであったと思われる。

 今、ようやく目的地サンフランシスコ港外から、ゴールデン・ゲートを静かにくぐりサンフランシスコ湾に入っていく。

 入港時の決まりであるが、船の先端(おもて)には一等航海士が立ち、甲板長を先頭に、われわれ十数人の甲板員は何が、いつ起きても対応できるよう陸地に向かって横一列に並んでいる。

 吊橋をつっているワイヤーの太さと自動車のボディーが、ほぼ同じに見えた。

 ゴールデン・ゲートの下をくぐると、右手にサンフランシスコの街並みが徐々に徐々に目に入って来た。想像もできなかった世界が、目に飛び込んできた。港の後ろに街並みが連なり、街並みの背後に丘陵が続き、20階ほどのビルが丘陵の斜面にマッチ箱を立てたような形で立ち並んでいる。

 焼野が原になった横浜港を、いや日本全土が米軍の爆撃で焦土と化した日本を後にした少年には、想像したこともない、現在の新宿西口のようなビルの風景を見て、ショックで茫然自失、息を呑んだ。

 デッキからシスコの市街地を眺めただけでも、国力の差は一目瞭然である。「日本はこんな国を相手にして勝てるはずがない。なんという無謀な戦争をしたのか」と何度も何度も心の中でつぶやいたことを今でも鮮明に記憶している。

 シスコの港の沖には「アルカトラズ島」(面積0・076平方キロ)、俗に「監獄島」が浮かんでいる。かの有名な暗黒街の帝王・シカゴのアル・カポネなど矯正不可能と見なされた犯罪者が主に服役していた島である(1963年に監獄は閉鎖され、現在は観光地)。

 その監獄島から北に数千メートルの湾内に本船は投錨した。翌日だったと思うが、私は、ブリッジに上がり、大きな双眼鏡で監獄島を観察した。3階建ての建物があり、監獄だというのに柵も塀も見当たらない。広場で囚人たちはボールをけって遊んでいる。ラウドスピーカーから物凄い音量のジャズが風に乗って途切れ途切れにわれわれの耳にも伝わってくる。

 柵も塀もないのは、湾の出口が狭いため流れが速いのと、寒流なので今まで脱出に成功した例がないからだ、と先輩が教えてくれた。後にフリー百科事典で調べてみると、脱獄者は34名いたが、7名が射殺、2名が溺死、5名が行方不明(死亡扱)、残りは全て再逮捕されている。先輩たちの話は正しかったのである。

 それにしても監獄だというのに、ジャンジャン音楽が聞こえてきたり、囚人たちが楽しそうにボールをけって遊んでいたりすることに、まず驚いた。

 投錨地の北には、普通の橋であるが距離4キロメートルのサンフランシスコ・アンド・オークランドゲートが架かっている。夜になるとゲートに電灯がともる。電力不足の日本から行った私は、霧に霞むゲートの灯は、まるで夢か、竜宮城の世界に連れて行かれたような感じがした。

 ゴールデン・ゲートの夜景はつとに有名であったが、記憶に全くない。本船の投錨位置から監獄島が邪魔をして、ゴールデン・ゲートが見えなかったのではないかと思われる。 

 

リバティーV075

 1948年春、何故私がこの船でサンフランシスコに1ヶ月以上も停泊することになったのか。日本は戦争によって大量の船舶を失った(1945年敗戦時の船舶保有量は、1941年に比較し僅か4年間で3分の1に減少した)。そのため海外在住の日本人引き揚げ用船舶が不足し、引き揚げは困難を極めていた。

 そこで1946年(昭和21年)、緊急措置として米国より3000トンのLST(大型上陸用舟艇、1000 人収容)85隻、リバティー型(戦時標準船、5000~10000トン)貨物船100隻、そして病院船6隻を貸与されたのである。これらの船舶を使用し、この1年でおよそ500万人(最終的には引き揚げは600万人に達する)の日本人が海外から引き揚げた。

 当時は分からなかったが、戦勝国が、敗戦国の国民の引き揚げに、余剰船舶があったとはいえ(アメリカは、1940年から2600隻のリバティを建造した)、大量の船舶を日本に貸与し、引き揚げという人道主義に協力したのだ。アメリカという国の凄いところである。 

 私は、この中の7000トンのリバティー型V075に乗船し、旧満州からの引き揚げに従事していたが、引き揚げが終わったので、船をアメリカに返すためシスコに入港したのである。

 1948年1月8日、横浜港を出港したV075はグアム島で米海軍の小型上陸用舟艇を10隻ほどデッキに積んだ後ニューギニアに行き、解体した米海軍の浮きドック(4000トンほどの部分)を曳航して、太平洋の北東に位置するハワイのパールハーバーを目指して航行した。ニューギニアからハワイまでの所要時間は、なんと39昼夜という前代未聞の長い航海となった。

 

個人授業

 太平洋のど真ん中を走ると鳥がいなくなることを知った。鳥が現れるときは近くに島があるときだ。来る日も来る日も、見えるのは海と空だけ。ニュースも十分に入ってこないので、友達同士でも話題がなくなった。ストレスが溜まる十分な要件を満たしていた。

 ただし私だけは例外であった。操舵手(コーターマスター)のT氏に個人授業を受けていたのである。T先輩は日本共産党員で、非番のとき私を食堂やデッキに呼び出し、マルクス・レーニン主義についてレクチュアーしてくれたのだ。

 「階級」「搾取」「剰余価値」「唯物論」「観念論」「唯物史観」「支配階級」など、初めて聞く言葉に、私は遠慮なく質問をした。T先輩は丁寧に答えてくれた。T先輩との出会いには次のような経緯があった。

 私がV075号に乗船したのは、1947年夏ごろ長崎三菱造船所のドックの中だったように記憶する。挨拶が終わったので、市内に映画を観に行った。映画が始まる直前、一人の男が突然舞台に上がり、「日本海員組合が賃上げと待遇改善を要求し、ストライキに突入するのでご支援を」と演説したのである。

 映画館の中でストライキを訴えるなど、2年前(戦争中)には想像も出来ないことであった。元気の良い仲間がいるものだ、と感心したのと同時に、時代が変わっていくのを皮膚で感じた。

 この映画館でアメリカ映画「銀嶺の果て」を観た。俳優たちのプロポーションのよさに圧倒された。つい2年前までわれわれは「鬼畜米英」と叫び、戦って、多くの仲間が海の藻屑となって消えていった。今観たアメリカ映画とは余りにも距離がありすぎる。頭が混乱し、船の食堂で一人遅い晩飯を食べていた。

 誰かが私の前に座った。顔を上げると映画館で演説していた「あの男」だ。思わず「さっき映画館で……」と言いかけると、「あのとき君はいたのか」ということで仲良くなった。それがT先輩である。かくして共産主義の授業を受けることになったのである。 

 

ストレス

 食事は米海軍のものが供与された。珍しかったのは最初の1日か2日だけ。たまらなく味噌汁、沢庵、コメの飯が欲しくなってきた。しかし、太平洋上にそんなものがあるはずがない。

 数日を待たずして、最初は美味しい美味しいと食べていたコンビーフやソーセージなど誰も見向きもしなくなった。

 私が、今でもハンバーグやケチャップを好まないのは、このときの後遺症ではないかと思っている。しかし良くしたもので、食べ物の好き嫌いなど、空腹を前にしたら容易に変わる。いつの間にか、コメの飯と味噌汁への飢餓感は消え、ハワイに着く頃は、何でも抵抗なく喉に通るようになっていた。

 私が、アメリカの食べ物と日本の食べ物は違うと思ったのは、アメリカの食事になって1週間ほどたったころ、それまでの大便は便器の水に浮いていたのが、沈み出したのだ。これには驚いた。カロリーが沢山あるからだ。日米間に排泄物に差があることを知った。

 日本船には法律で女性の乗組員は禁じている。船の中は男性のみで実に殺伐としたものである。男だけで同じ顔ぶれで1週間過ごすだけで退屈してくる。二等操舵手と倉庫番が喧嘩を始めた。二人ともバンドナイフなどの刃物を身に付けている。切り合って作業着が切り裂かれているが、誰も止めない。食堂で二人がわめきあっていても、皆は知らん顔して食事をしている。

 女性がいたら様子は一変したであろう。上陸できず、女性に接することが出来ない。今流の表現で言う〝ストレス〟が全員にたまっている。喧嘩が始まったら最後止まらない。刃物を振り回しての喧嘩でも関心の対象にならなくなる。「死にたかったら勝手に死ね」というような異常な心理状況が醸し出されるのだ。

 そのときはわからなかったが、後になって考えると、この社会は男と女の二種類しかいないのだ。どちらか一方に絶対会えないという状況が生じたとき、人はストレスでどんな反応を示すかということを、私はこのとき目の当たりにしたのであった。

 

 

「日本は本当に負けたのか」

 ハワイのワイキキ海岸の沖合いで、浮きドックを米軍に引き渡した。勿論国交がないから、上陸は許されない。ホノルルは世界3大夜景のひとつである。昼のホノルルの街は緑で覆われ、建物が殆ど見えなかった。ところが夜になると、街は針の先の隙間もないほど明かりで埋まった。40日間の長い航海を終えて、この夜景に遭遇したとき、誰もが「上陸したい」という抑えようのない衝動に駆り立てられた。

 しかし、敗戦国のわれわれに与えられた自由は、ブリッジの双眼鏡からワイキキの浜辺で泳ぐ若い女性たちの水着姿を眺めるだけであった。

 ある日の早朝、小船がわれわれの船に近づいてきた。当直だった私は当直航海士に報告をした。小船には3人乗っていた。その中の一人が日本語で「あなた方は日本人か」と尋ねた。

 航海士が「そうだ」と答えた。

 「日本から来たのか」と問うた。

 「1月に横浜を出港し、南太平洋を回ってきた」と誰かが答えた。

 「日本は本当に負けたのか」と、意外な質問が飛んできた。

 「昭和20年8月に降伏した」と誰かが答えた。

 「それは本当か」と咳き込むように畳みかけてきた。

 何人かが「間違いない」と答えた。

 船の上から「なぜそんなことを聞くのか」と逆に質問が飛んだ。

 すると「今、ハワイでは、日本が本当に負けたという人達と、負けていないという人達と別かれている。それで直接聞きにきた」との答えが初老の1世から返ってきた。

 瞬時に事情が呑み込めた船上のわれわれは一斉に言葉を失った。

 この船で中国の葫盧島(ころとう)から、敗戦によって満州から引き揚げる日本人を博多までピストン輸送した。その中で敗戦というものがどんなに悲惨なものか、数々の話を耳にし、目撃してきた。

 しかし、ハワイに来て、あの表現の仕様もないほど美しい夜景の裏側で在米1世たちが、小船にのって敗戦を確認にくるなど考えてもいなかった。その日からなぜか夜景が美しいと思わなくなった。

 飲料水や新鮮な食糧を積み込むため1週間近くワイキキの沖に投錨したあと、われわれは同じ7000トンのリバティー型を曳航し、16昼夜かけてサンフランシスコ沖まで運び米軍に渡した。デッキに積んである上陸用舟艇をカリフォルニアのメキシコ国境にあるサンディエゴ軍港で陸揚げ、往復1週間を費やして再びサンフランシスコに帰ってきた。

 ロッキー山脈を左に見ながら3昼夜南下したのだか、初めて見るアメリカ大陸は雄大であったが、美しいとは思わなかった。このとき初めて日本は箱庭的美しさであることを発見した。

 

ショックと混乱

 投錨した最初の日、夕食が終わって、皆でデッキに出た。すると夕闇のなかシスコの空が黄金色に焼けている。誰かが「火事だ」と叫んだ。すると先輩が腹を抱えて笑いながら「馬鹿、火事ではなく、あれはネオンサインの明かりだ」と言った。

 言われても〝ネオンサイン〟がどんなものか少年たちは誰も知らない。先輩から懇切丁寧に説明をされても、理解できず……、われわれはネオンサインで空が焼けている未知の世界を眺め続けた。

 風がなく、お天気が良くなると湾の上空にプロペラ機が現れて、煙幕を使ってアルファベットで空に文字を綴っていく。要するに煙幕の広告であるのだが、そもそも〝広告〟という概念を知らないものにとって、正直何が何だか訳がわからなくなった。

 もっと驚いたことがある。同じ船に同期のAがいて、彼は英語の辞書を持っていた。われわれは煙幕で何が広告されているのかAに翻訳してもらった。このAは、われわれの船に見張りに来ている米兵を相手にのべつ幕なし片言の英語を使って喋っていた。そしてAは、かなりの兵隊が、自分の名前の綴りを知らない、と言うのだ。

 信じられないので、若いころ北米航路に就航していた1等航海士に、「本当か」と確認したら、至極あっさり「その通り」という。

 この目の前の物凄い物質文明と、自分の名前を書けない兵士たち――。この落差は何だ。日本人で自分の名前を書けない人はいないはずだ。一体これはどう理解すればよいのか、頭を抱えた。

 このときの謎が解けたのは、1970年代後半頃に会田雄次著「アーロン収容所」(中公文庫)を読んだときであった。この本は、敗戦時ビルマ(現ミャンマー)で会田氏が英国の捕虜となり、収容所内でイギリス兵と接した体験談を記述した名著である。

 そこでイギリス兵や豪州兵の手紙などの綴りがいかに出鱈目であるかを具体的に記述している。また、イギリス兵たちが足し算や掛け算を知らないため、日本人捕虜が大変迷惑した例も細かく記している。

 捕虜収容所の所長が、日本人捕虜全員が字を読めるということを信じようとしなかった話も紹介されている。世界的に言うなら国民のほぼ100%が字を読めるというのは特殊例外であって、米国の方が国際的には多数派なのである。

 この話は、日本(歴史)を知る上で大変興味あるテーマあるが、残念ながら敗戦後2年半の軍国少年には、アメリカの物質文明のみに目を奪われ、国民の全てが字を読め、自分の名前を書け、計算が出来るということが、どんなに素晴らしいことであり、誇るべきことなのかを自覚することが出来なかった。

 

帰国

 V075号はアメリカの民間の船会社に買われ、われわれ乗組員は日本から迎えに来た病院船に乗って、帰国の途についた。帰国途中、コロンビア川に繋留されたリバティー型貨物船の日本人乗組員も収容し横浜港に入港したのは、1948年7月末の暑い日であった。

更新日:2022年6月24日