随筆 雪

佐藤勝巳

(2008. 2.12)

 

 今朝(08年2月3日)、関東平野は珍しく雪に覆われた。2年ぶりの積雪だと喜ぶ孫たちは、石で目・鼻・口を付けた雪だるまの写真をメールで送ってきた。

 降雪の少ない地域の人たちは、雪をやたらに珍しがる。しかし私にとって、雪についての思い出は苦痛しかなかった。

 私は、新潟県古志郡上塩谷村字本所(旧栃尾市現長岡市)という守門山(すもんざん)の麓の戸数75軒の農業などを営む小さな集落に生まれた。「この奥に村なし」といわれるほどの超僻地で、村人は「猫の額」ほどの段々の田畑を耕して生きてきた。守門山の主峰は1537メートルの袴岳(はかまだけ)。他に青雲岳、守門大岳、中津又岳とつづき一大山系を形成している。越後(新潟県)中部の名峰といわれている。

 私が山間(やまあい)の寒村の塩川小学校に入学したのは、昭和10年(1935年)4 月であった。牛車などの轍の跡で曲がりくねって石ころだらけのでこぼこ道は川向かいの塩川村、川下の下塩谷村につづいていた。

 この地方はものすごい雪が降る。それは「豪雪」という言葉以外に表現のしようがなかった。なぜそんなにここが豪雪に見舞われるのか、小さい時にはわからなかった。が、後にこの地方は冬になると、大陸の低気圧が日本海を縦断して太平洋に出るまえに、守門山にぶつかってもすごい雪を降らせるのだと知った。

 深々と降る雪は、野山を埋め尽くすだけではない。そこに住む家々の屋根にも大量に降り積もる。雪の重さで戸の開け閉めが困難になると、屋根から雪を下ろさなければならない。当時一冬で屋根から雪を下ろすのが多くて8回、少ないときで数回であった。ところが、昭和12年の冬は13回も屋根から雪下ろしをしなければならないほど降った。

 最後の方になると、下ろした雪が屋根と同じほどの高さになった。そうなると屋根から雪を下ろす前に、前回下ろした雪を除雪してから雪下ろしをするという作業が必要となった。厳密に言うとあの年は、屋根から20回近く雪を下ろしたことになる。毎日雪と格闘したことになる。

 一晩で1メートル近くも雪が降るときは、周辺がシーンと静まり返る。われわれ子供は「明日の朝は道をつけるのが大変だ」と考えたものだ。

 隣の家まで数十メートルある。カンジキ(長靴の下に竹で丸い輪を作り縄で網目を作って雪を踏みつける道具)で1メートル近くの積雪を小学校2年生が数十メートル踏みつけて道を作るのは途方もない労働であったことを記憶している。

 積雪のためわれわれ小学生は、全員スキーで通学した。雪を知らない人たちはスキー通学などというと羨ましがるかもしれない。だが、歩いて行くのは危険なのだ。川も畑も田んぼも電線すらも雪に埋もれているので、スキーを履かなければ学校に行くことさえできないのだ。

 雪国でみぞれが降り出すのは、11月上旬頃からだ。農作業が始まるのは春の4月。半年間、野外での農作業は全く出来ない。子供たちの父親の多くは、この間、関東地方などに出稼ぎに出て家にいなくなる。父親のいない家庭では屋根から雪を下ろす仕事は、子供たちと母親の手にゆだねられた。

 屋根から雪を下ろすときは、雪下ろし専用のコシキ(木製でスコップのように柄があり、その先に正方形の板が付いていて、その板の上に雪を載せて除雪する道具)に雪を載せて、地面に投げ下ろすのである。屋根の端の雪は簡単に投げ下ろすことが出来る。     

 しかし、屋根の棟に近い中央部に近づくにつれて、雪をコシキに載せて数メートルは投げなければならない。腰を回転させるコツを習得しないと雪を投げ下ろすことは出来ない。水分を含んだ雪が蝶の群れのように舞って降り、数メートル先がよく見えなくなるような中で、作業着の下は真夏のように汗でびしょ濡れになる。雪国の子供たちはこのようにして体力、いや労働というものを生活の中で身に付けていった。 

 私の母の妹の夫、佐藤金七叔父は、新発田(しばた)16連隊に入隊、日中戦争に参加、腕に貫通銃創を受けた傷痍軍人だった。この叔父は、「都会の人たちは軍隊の訓練が辛いというが、私には百姓仕事の方がはるかに辛かった」と言っていた。

 このように親の世代は、農作業でも、出稼ぎ労働でも、軍隊の初年兵教育のほうが楽であったと思わせるほど苛酷な環境の中で生きてきた。

 豪雪は、そこに住む人々にとってはまさしく生きるか死ぬかの戦いの対象であった。

 作家・川端康成が越後湯沢を舞台に描いた「国境のトンネルを抜けると雪国であった」という有名な書き出しの『雪国』を発表したのが昭和9年、私が小学校に入学する1年前の36歳のときである。

 私は、この小説が「階級闘争」とは無関係なこともあって、戦後もかなり後になってから読んだ。文学に疎いせいであろう、それほど感銘はしなかった。ただ1カ所強烈な印象を受けた処があった。それは引用した冒頭のくだりである。

 私は清水トンネルをくぐり貫け、群馬県に入るたびに「国境を越えると太陽があった」と強烈に感じていた。

 このトンネルが開通するのが昭和6年。越後の人たちは誰もが、私と同じ思いを抱いていたに違いない。川端康成は、関東と越後を「国の境」と識別していた。

 そこだけは凄いと思った。いつも鉛色の低く垂れ込めた雪国からトンネルを抜けると燦燦と太陽が輝いている。実感からすれば関東は越後とは別な国であった。    

 私は1960年日米安保条約反対闘争で、しばしば新潟から夜行列車で上京するようになった。朝、上野駅に着くと、学生らしき若者たちが上越のスキー場を目指して、スキーを肩に列をなしている風景を見て、都会の学生たちにとっては、「安保に関係なくスキーかよ」「雪は遊びの対象か」と怒りで体が震えた。

 叔父は、田中角栄衆議院議員の後援会・越山会の部落の責任者であった。私が左翼であることを知っている叔父は、会うたびに角さんの人柄と実行力を讃えた。角さんが道路を舗装してくれた、橋をかけてくれたと話をした。

 そして叔父は言う

「勝巳の言う民主政権はいつ出来るのか」

「………」

「いつ出来るかわからない政権に期待をもって、僻地の現状をこのままにして置けというのか。どうしても納得できない」

 と、叔父は率直に疑問をぶつけてきた。政治的立場は違っていたが、私は、この叔父を尊敬してやまなかった。誠実で、世の中のことに絶えず関心を持ち、国の将来を決する教育問題に特に強い関心を寄せていた。東京まで電話をし、分からないことを聞いてきたこともあった。

 こんな会話が交わされたのは、中卒・高卒が労働力として「金の卵」ともてはやされた1970年代の初め頃だったように記憶している。

 私が子供の頃歩いたでこぼこ道はその頃、完璧に舗装され、本数は少ないがバスまで走っている。農協の立派な建物も建っている。各家庭に自家用車も見える。

 叔父に理屈で反論することは容易であったが、この地に小学校6年まで住んだので、僻地で生きるために家族は雪と戦い、男は出稼ぎで苛酷な労働に耐えてきたという、親と同世代の農民の姿を知っているだけに、叔父の言葉に反論は出来なかった。

 中選挙区制時代、新潟4区の田中角栄氏の選挙区から、作家・野坂昭如氏が立候補したことがあった。彼は、新潟県の副知事の息子であり、私と同世代の人である。

 当時、角さんは、列島改造論をぶち上げ、土建ブームを巻き起こし、景気を煽り、豊富な政治資金で代議士をかき集め、政治を壟断しているという批判が付きまとっていた。この陰の部分を4区の選挙民に知らせるための立候補であったと思われる。

 しかし、あの僻地の生活を改善してくれたのは誰あろう角さんであって、野坂氏ではない。「野坂氏も生活の重さ、僻地の過酷さを何も分かっていない」と思った。

 雪の被害を受けているのは豪雪地帯の人たちだけではなかった。春になると大量の雪は溶け出し、支流を経て信濃川に流れ込む。秋の台風時期になると雨と合流し河川流域の耕地を荒らしまくる。

 今、穀倉地帯として知られている越後平野は、1万数千年前の縄文時代は海であったところだ。川上から運ばれた土砂と対馬海流が運んできた土砂が堆積されてできた平野である。

 信濃川の水を治めることは、その時代時代の権力者にとっては最大の課題であったのだ。

 私が太平洋戦争末期初めて5800トンの貨物船に乗ったとき、乗組員全員に挨拶に回った。ある部屋に行ったら「お前の国はどこだ」と聞かれた。「新潟県です」と答えると、「蒲原か」と聞く。「ハイ西蒲原です」と言ったら「越後蒲原ホイト(乞食)の出どこ、今はひらけて女郎が出る」というが「姉さんは女郎でないだろうな……」と言われた。

 自分の住んでいるところが世間で、こんなに「貧乏」な地域と思われていることを知って、驚いた。

 信濃川流域の農民たちは、長い間水害に苦しめられてきた。降雪は人の力で克服は出来なかったが、水害にはダムを作って対処し、水を利用して電気に変えた。これを知ったとき、人間が一部ではあるが自然に勝利した、と思って感動した。

 ところが現在では、石油(化石燃料)の大量消費によって地球が二酸化炭素で温暖化し、豪雪地帯に雪が降らなくなって、上越などのスキー場で商売がままならなくなっているという。

 われわれは豊かさを求めて、遂に降雪さえも止めてしまった。自らの手で水の源を断ち切りだした。 これからあらゆる生体系が壊れていく。この80年間の劇的変化は、まるでドラマを見ているような錯覚に陥る。

更新日:2022年6月24日