随筆 イチロー選手

佐藤勝巳

(2008. 1.25)

 

 60年ほどの前の話である。私は、兵庫県の甲子園球場の近くに短期間住んだことがある。ただそれだけの理由で、プロ野球「阪神」の中軸打者3番センター別当、4番サード藤本、5番キャッチャー土井垣という時代からのファンであった。

 但し、今は女子バレーのアタッカー栗原めぐみちゃんのファンであるが、この半世紀、新聞のスポーツ欄は、国際欄、政治欄と同程度に丹念に読んできた。

 プロ野球のイチロー選手に、本格的に関心を持ったのは、彼が渡米し、シアトル・マリナーズで凄い成績を上げ、テレビに連日登場するようになった頃からである。

 えっ?と、思ったのは彼がバッターボックスに入ったときのバッテンィグ・フォームであった。 頭のてっぺんから足のかかとまで体の芯が一本にピーンと立っている(そうなるためにはヒップが飛び出ているように見える)。その芯を軸にバットが柔らかくコントロールされて出てくる。

 あのイチローのバッターボックスでの立ち方は、私が、社交ダンスのレッスンの中で、先生から教えられた立ち方(ボディーの作り方)と一致していたことを発見した時からである。

 以来、体操の選手などを注意して見ていると、特に、着地のとき体の芯がぶれているときは失敗する確率が高い。フィギュア・スケート選手が氷上でジャンプしてスピーン(回転)をするときも、体の芯が直線であるかどうかが決め手である。

 NHKに「プロフェッショナル」という火曜日の夜10時からの番組がある。イチローは最近、その番組に2回出演した。彼の話を聞き、もっとも強い印象を受けたのは、キャスターから質問を受けたとき、グランドで喜怒哀楽を殆ど表わさないのとはうって変わって、考え込んだ後、身を乗り出して真剣な眼差しで相手を見つめ、時には笑顔で、または苦渋に満ちた顔で、考えを全身で表わした。

 無気力が支配する日本にあって、こんな迫力のある青年がいたのかと、テレビに向かって思わず身を乗り出した。

 私は、この番組を見るかなり前から、彼は、カネなどあり余るほど持っているはず。なのに、あの野球に対するひた向きな姿勢は何か、注目をし続けていた。

 番組の中で、プロ生活16年間、高い打率を維持するのに、自分と、そして他人との戦い、200本安打目前の重圧との戦い、試行錯誤などを、人の言葉など借りずに、彼は自分の言葉で明瞭に力強く語り続けた。

 実践してきた者にしか語れない、重さと迫力ある言葉で全編を制した。圧巻であった。おそらく二人のキャスターは圧倒されたのではないかと思われる。

 極めつけは、「07年漸く何かが見えてきた」と言ったことだった。

 「それは何ですか」という問いに「ストライクゾーンにきた球のみを打つことです」と答えた。

 イチローが16年の歳月を要して悪戦苦闘の末に得た結論は、極めて平凡なものであった。この話を聞いたとき「真理は単純」であることを再確認出来た。多分、世界の頂点に立ったプロダンサーが、優勝の理由はと聞かれたとき「ベーシックをしっかりやったからです」と答えているのと似ている。

 要するにイチローは、野球道を極めてきたのである。私は今まで、日本人をだめにしたのは豊かさにかなりの原因があるという仮説を持ち続けてきた。イチローは私のこの仮説を見事に粉砕したのである。感動で身が震えた。

 イチローは、特異な才能を持っている。例えば、彼は日本にいるころ岐阜県にあるバット製造工場を訪れた。無数のバットが並んでいる中で、あるバットが目に止まった。その瞬間、「これだ」と思ったという。

 そのバットは細身でバットの芯は他のバットに比較し、中心部分は3分の1程度狭いのだという。そのバットから3割5分台の高打率を生産している。キャスターの「なぜ『これだ』と思ったのですか」という質問に「勘です」と言下に答えた。

 プロ野球選手の誰もが、こんな勘が働くとは限らないと思う。そういう意味で、イチローの体験を普遍化することはできない。が、結果はどうあれ、その気になれば誰もが、自分の仕事にひたむきに向き合うことはできるはずだ。

 日本の中小企業に働く技能者たちの中に、かなりイチロー系の人たちがいるのではないかと思いながら彼の話を聞いていた。

 数年前、日本のプロ野球選抜チームが、世界選手権大会で優勝したことがある。そのとき彼は、ニューヨーク・ヤンキースに在籍する松井選手と対照的(松井は不参加)に、チームリーダーとして大活躍した。

 韓国戦の前に「韓国に10年ほど日本とは試合をしたくないと思わせたい」という趣旨の発言をして、韓国サイドから大反発を買ったことは記憶に新しい。

 彼は、また日の丸を背負って国際試合をするときの重さにも言及した。私が、再びおやっと、彼に注目したのはこの二つの発言からである。

 この度のNHKの番組で彼は、アメリカ大リーグの選手たちは、契約更新期になると全部の選手が自分のロッカーから全ての荷物を持ち去ると言った。理由はいつ解雇されるか、移籍を通告されるかわからないからだという。

 この発言を聞いて初めて、韓国戦を前にしての彼の発言の意味が理解できた。そうなのだ。まず、チーム内のライバルに勝たなければ残れない。続いて大リーグの3割5分台の首位打者争いにも立ち向かわなければならない。

 そして毎年、地元ファンからは200本以上の安打が求められる。ストレスは想像を絶するものがあろう。彼の野武士のような面構えは、容赦ない苛酷な競争の中で作られていったものではないのか。

 NHKの番組では話題にならなかったが、イチローがマリナーズに入団したとき、アメリカのスポーツメディアは、将来アメリカ大リーグで首位打者争いをするまれに見る素質を持った日本人選手を話題にもしなかった。

 アメリカに限らず万国共通であるが、外国からアメリカ(当該国)に来てプレーしている外国人選手に対して好ましいことではないが、差別や偏見を持つのが普通だ。

 イチローは日本でプレーしていたときの日本と、アメリカに住んでから、推定であるが、差別を体験してから、全く別な日本が彼の中で映し出されていたのではないか。

 世界選手権を戦ったとき、何故に日の丸(祖国)の重さを感じたのか。アメリカ社会がイチローの認識を変えたとしか思われない。

 多民族がプレーするアメリカ大リーグのグランドから、民族、国家そして人間とは何かに思いをいたしていたのではないかと期待したのだが……。

 しかし、38歳のイチローは、最後に笑顔で「50歳、打率4割で引退をしたい」と明るく語っていた。それにしても素晴らしい番組であった。

 

 (イチローは「球場に入ると人が変わる」といった。真剣勝負に臨む戦いの場だからであろう。非常に興味ある問題であったが論旨が拡散するので敢えて割愛した)

更新日:2022年6月24日