映画「パッチギ LOVE&PEACE」の欺瞞を切る

佐藤勝巳(現代コリア研究所所長)

(2008. 1.17)

 

 「パッチギ」、子供のころ聞いた言葉である。どうして覚えたのか思い出せない。改めて辞書を引いてみた。「頭突き」などとある。

 最近、映画は殆ど見ていない。この映画(「パッチギ LOVE&PEACE」以下「パッチギ」)が日本の映画の中でどんな位置を占めるのか皆目見当もつかないし、監督の腕がよいのか悪いのか、これも批評する能力を持ち合わせていない。それなのにわざわざ有楽町までこの映画を見に行ったのは、身近な知人に「あの反日映画」を佐藤は絶対見るべきだ、見る「義務」がある、と言わんばかりの推薦(圧力)があったからだ。

 見た感想を一言で言うなら、三〇数年前に引き戻され「懐かし」かった。この映画の舞台は、一九七四年東京都江東区枝川町にある朝鮮人部落である。そこに住む在日朝鮮人二世の子供(三世)が筋ジストロフィーなる難病に罹り、この子供の病気を治すための家族愛や、在日朝鮮人の生きる姿の一断面を切り取り描いたものである。

 映画を見て「懐かし」かったと書いたが、懐かしさに少し立ち入って触れてみたい。

 「パッチギ」の時代設定となった一九七四年は、横浜地方裁判所が、在日韓国人二世朴鍾碩氏に日立製作所が就職差別をした(被告日立製作所が上告しなかったので確定判決となる)、という歴史的判決を下した年である

 私は、一九六八年の金嬉老事件(カネの取立てをめぐり金嬉老が準暴力団員を殺害し、静岡県寸又峡で労働者を人質にとって旅館に立て籠もり、民族差別を訴えた事件)の特別弁護人を初めとし、前述の日立裁判の補佐人など三〇例に近い個別の民族差別事件に関与していた。民族差別反対運動に関与した当時の私の基本的立場は、民族差別をする政府や日本社会、日本人が間違っている、という「パッチギ」のそれと同じ立場であった。映画を見ながら三〇数年前の、薄っぺらな正義感を振りかざしている己れの姿を見るような気がして恥ずかしかった。

 この映画は、日本社会の民族差別の中で、在日二世の兄妹が親戚や枝川町の同胞に助けられ、心ある日本人と連帯し頑張って難病の子供(甥)を助けるというストーリーである。映画は、民族差別と日本の過去の植民地支配が糾弾の前提として構成されている。

 主人公(子供の父親、在日二世アンソン)の妹キョンジャが映画俳優になって、根性でメキメキ頭角を現し注目され出す。すると所属プロダクションの社長やプロデューサーが日本のパスポートを取った方がよいと薦める。つまり、朝鮮籍の放棄、日本国籍取得を勧める場面が登場する。

 また、キョンジャが有名な日本人男性俳優と恋愛関係となり、ホテルに泊まる。翌朝、キョンジャは男優に家族を紹介するから会って欲しいというと、俳優は「結婚する気などない。単なる遊びだ。人種が違うだろう」というセリフを吐く。勿論、キョンジャは怒り心頭に発するのだが。

 この場面を見たとき、脚本家も監督もエグゼクティブプロデュサー(李鳳宇)も、殆ど民族差別のなんたるかも、在日韓国・朝鮮人の現状も理解していない、と思った。

 「パッチギ」の解説書によると、井筒和幸監督は資料にこだわる人だ、と書いてある。現在、在日韓国・朝鮮人の同胞同士の結婚は、一〇〇組中五組にも満たない。あとの九五組は日本人との結婚だ。「資料にこだわる」と言うのなら、九五組の在日韓国・朝鮮人が日本人と愛し合って、子供たちを幸せにしていくドラマを作るのが常識であろう。

 ところがこの映画は、例外をピックアップして民族差別が日本社会に普遍的に存在しているかのように描いている。明白な歪曲である。事情を知っていて敢えてこんな作り方をしているのなら、政治的意図があるからだろう。

 私のように一世世代と交わってきたものから見ると、日本人との結婚を阻害したのは、日本社会にも多少理由はあったかもしれないが、基本的には一世世代の時代錯誤的ナショナリズムと「血」にとらわれている伝統文化に主たる原因があったと思う。

 すでに故人となった親しい在日朝鮮人と酒を飲んでいて、話題が娘の結婚に及んだとき、彼は「自分の娘が日本人の男に身を任すなど絶対に許せない。そんなことをしたら重なっている二人を出刃包丁で串刺しにしてやる」と興奮して口走った。氏は、名前を言ったら多くの人が知っている有名な在日の知識人である。

 

 それはともかく、映画の冒頭に出てくる板橋区十条の朝鮮高校の生徒が、右翼の国士舘大学生にボコボコに殴られるところがあるが、これは国士舘高校の誤りである。一九六〇年代後半頃から七〇年代にかけて、確かに二つの高校生間にトラブルが多かった。しかし、あれは当時東京都下の不良高校生同士の番長を誰が取るかという単なる争いであり、思想的なものではなかった。

 なぜなら、当時、総聯が大騒ぎをして日本人関係者に呼びかけ、調査団なるものを編成した。私もそれに参加したことがある。総聯は当時からこのシナリオ(映画)と同じ「排外主義による朝鮮高校生襲撃事件」と言っていた。しかし「チマ・チョゴリ切り裂き事件」と同じく、それを裏付ける証拠は何も出てこなかった。事実は以上の通りであるのに、国士舘大学の右翼学生に朝鮮高校の学生がやられるというふうに描かれているのは、事実歪曲である。

 日本が高度経済成長期に入り、在日朝鮮人たちの生活も向上していくと、朝鮮高校と国士舘高校の不良同士のトラブルもいつの間にか姿を消した。すると朝鮮人の親たちから、「近頃の子供たちは国士舘との喧嘩もせんようになった」という嘆きの声が聞かれるようになった。同じように無敵といわれた朝鮮高校のサッカーも弱くなっていった。

 「パッチギ」の中で、主演女優キョンジャが、映画完成祝賀会か試写会(どちらか記憶が定かでない)かの席上で、自分が朝鮮人であることと、自分の父親が徴用で太平洋戦争に狩り出され脱走したが、父親の脱走があったから今日の自分がある、と父が歴史を「否定」している太平洋戦争を賛美した出演映画の内容批判を展開した。会場は大混乱に陥り、「朝鮮人帰れ」という日本人の野次と、反発する朝鮮人たちの怒号が交錯し、忽ち映画館二階の踊り場で朝鮮人と日本人の派手な乱闘となる。

 キョンジャの「朝鮮人宣言」をするシーンを見て一九七〇年代中頃、一部日本人教師から、日本の学校で学んでいる在日韓国・朝鮮人生徒に対して「本名を呼び名乗る」という運動があったことを思い出した。キョンジャの出自の告白は、当時のそれとよく似ているので驚くと同時に、歴史博物館を見ているような不思議な気持ちに襲われた。

 

 「パッチギ」の解説書によると、明治学院大学四方田犬彦教授は民族差別を指して、こう記述している。

 「フランスのシャンソン歌手は、誰もがギリシャとかアルメニアとかいった自分の出自を公然と語りながら、フランス語で歌っているし、アメリカのエンターテイナーはあけすけにエスニシティ丸出しである。そこには朝鮮半島が二〇世紀の前半に日本によって植民地となり、そこに住む者が日本人によって奪われ、殺され、貧しさのなかに突き落とされた後に差別されてきたことの歴史が複雑に絡んでいる。

 この差別の状況は、今日でも頑強に残っている。韓国からきたヨン様が大人気を博している一方で、在日韓国人の芸能人の多くはブラウン管に登場するさいには、いまだに日本名を名乗っていなければならないのだ。別に法律で禁止されているわけではない。ただすべてに均質化と純粋化を要求する日本社会のあり方が、日本人とまったくウリ二つの顔をしていながら、なぜか国籍だけ違っている者の存在を許せないのである」

 四方田先生の主張は、日本社会に在日韓国・朝鮮人への差別があるから、彼らは本名を隠し日本名を名乗らざるを得ないのであり、日本社会は反省せよ、という教示である。「パッチギ」の差別の捉え方も四方田先生と同じだ。

 少し意地悪く言うなら、アメリカやフランスに民族差別(均質化や純粋化)はないのだろうか。そんなことはない。昨今のフランスでのあの暴動は、差別の結果ではないのか。四方田先生の捉え方では現実を説明することはできないと思う。

 先に紹介した日本人教師が、「本名を呼び名乗る」運動として在日韓国人の家庭を訪問し、子供達に本名を名乗らせて欲しいと親達(大体二世か二・五世である)に要請してまわったことがある。私が聞いたのは、日本の教師から要請を受けた大阪の猪飼野に住む在日の親の一人からである。

 「物心ついた時から父親から殴られてきた。時には殺されるのではないかと恐怖を抱いたこともある。日本人の友達の家に遊びに行くと、子供を殴る親などいない。平和で穏やかだ。正直言って日本人の家庭が羨ましかった。そして親父を殺してやろうと思うことは一度や二度ではなかった。こんな関係の中で朝鮮名を名乗れると思うか。日本の先生方には所詮われわれの気持ちなど分からないのだ」とうめくように語った。

 息を呑んだ。一言も言葉を発することが出来なかった。ここで語られていることは、「パッチギ」で描かれている薄っぺらな「差別」とは次元が違う。四方田先生の言う日本社会の均質化とも純粋化とも違う。 

 在日朝鮮人、特に二世の書いた自伝や小説によく出てくるのが父親の暴力についてである。それは私も一九五九年一二月から始まった在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業の中で、親が子供を殴る光景を新潟の日赤センターなどでしばしば目撃し、驚いたことを鮮明に記憶している。

 在日韓国・朝鮮人は、自分達の親達を日本人の親達と否応なく比較できる立場にいる。日本の社会で朝鮮名を隠して、日本名を使うのは日本社会の差別のせいなどという主張は現実とは関係ない観念論、というのが私の考えである。

 こんなことがあった。一九八〇年代のはじめごろ、三鷹市の市民グループに呼ばれ在日韓国・朝鮮人問題の講演をしたときのことである。私の講演を聴いた在日朝鮮人の一人が、子供を朝鮮高校に行かせているが、最近、暴走族の仲間に入って家にも寄りつかないで困っている、という趣旨の発言をした。

 すると韓国から日本に来て朝日新聞社から『韓国人の心』という単行本を出版した在日韓国人が、いきなり立って「日本に渡ってきた朝鮮人は文字も読めず無学の人間が多い。したがって教養もなく子供の教育の仕方も知らないから子供がぐれるのだ」と発言した。どうなるのかと一瞬固唾を呑んで推移を見守ったが、先に発言した在日朝鮮人はうつむいているだけで反論をしなかった。

 話や文字では知っていたが、有識者(高学歴)が無識者(低学歴)を差別する現場を初めて見た。隣国の文化の一端を垣間見たのだか、韓国内、北朝鮮内の差別は想像を絶するものがある。「パッチギ」を書いたシナリオライターは、南北のこのすさまじいまでの差別の現実を知らないはずはなかろう。

 金正日政権下では金正日に対する忠誠度で国民を「核心階層」「動揺階層」「敵対階層」と三分類、更にその中身を五二に細分化し、進学、就職、食糧の量・質、生活必需品、住宅への入居の順番まで、あらゆることで差別している。

 党幹部の子供はどんなに出来が悪くとも出世コースに乗れる。しかし、「敵対階層」の子供はどんなに優秀な才能を持っていても、炭鉱労働者か山奥の林業労働者と将来は決まる。最高権力者に対する忠誠度で、全ての国民の運命が決められている社会である。

 映画のなかで総聯が経営する朝鮮大学校、朝鮮初中級学校に言及している。総聯こそが、ここ日本で金正日政権の差別を一〇〇%支持している最大の差別集団ではないのか。何故に金正日体制や総聯を批判しないのか。

 金正日の差別構造を批判し、返す刀で日本の民族差別を切るのなら聞く耳を持つ。在日のよって立つ差別構造を不問に付し、事実を歪曲して日本のみを攻撃している。「パッチギ」のサブタイトルが「LOVE&PEACE」だが、こんなやわな思想で愛や平和がかち取れると思っているらしい。幸せな製作集団である。

 

 「パッチギ」では在日朝鮮人が日本社会の民族差別の被害者、という設定になっているが、社会の底辺では被害・加害を選別できないような複雑な現象が存在している。

 一九七〇年代の初頭であった。民族差別問題に熱心に取り組んでいた都内某大学の女子学生グループがいた。彼女らはある在日韓国人青年を呼んで勉強会を開いた。その青年は、贖罪意識を煽って次々と女子学生の体を犯した。遂に、チューターの女子学生が自殺するという悲劇が起きた。他にも幾つか似たような事件が起きている。日本人女性の贖罪意識を扇動して、女性に貢がせヒモのような生活を送っていた在日韓国人一世もいた。

 日本人は一億三千万人いる。一九七四年当時、「人種が違うからセックスはするが結婚はしない」という人間がいたかもしれない。多分、今もいる可能性がある。また、贖罪意識を利用して日本人女子学生の体を弄ぶ在日韓国・朝鮮人が今もいるかもしれない。「パッチギ」は、日本人の差別を問題にしているが、在日韓国・朝鮮人の日本人への加害を問題にしてはいない。なぜなのか。

 次に問題なのは、キョンジャの父親の回想として、日本の官憲(らしき者)が朝鮮人の若い女性を暴力で、慰安婦にするため連行する場面などを登場させている。唯一これを裏付ける根拠となっている資料は吉田清治氏の記述だけだ。それがでっち上げであることを、現地韓国の「済州新聞」が丹念に取材し否定いる。また、日本の歴史家秦郁彦氏も現地調査で吉田のでっち上げを立証している。して

 映画を見ながら、なのになぜこんな話を今わざわざ挿入するのか、物凄い違和感を持った。アメリカ下院でも、第二次世界大戦時、日本の国家権力が若い朝鮮人女性を強制連行、性奴隷にしたと断定し、日本政府に謝罪要求を決議した。

 なぜ、こんなことがアメリカ下院で決議されるのか。不思議でならなかった。「パッチギ」を見たときも同じ不思議さを感じた。最近、ジャーリストの上杉隆氏から教えられて初めて疑問が解けた。米マスコミが日本の慰安婦問題を取り上げた記事の殆どは、東京発であるという。なるほど東京で、「ワシントンポスト」などの特派員をオルグした工作員がいたということであろう。敵ながら天晴れなものだ。

 この映画のシナリオライター自身が「朝鮮人慰安婦強制連行」を信じているのかも知れない。歴史評価の違いなど、どこにでもあることだからそれは仕方ない。だが、本当に当時八四〇万人もの朝鮮人青年がおとなしく連行されたのだろうか。私の知る一世からは想像も出来ない神話に近い話である。

 「パッチギ」でもキョンジャの告白をめぐってすぐ暴力沙汰に発展する。脚本家たちは在日の行動様式は、日本人と違って暴力、力に頼る傾向を持っていることを承知しているから、あのシーンを作ったのだろう。朝鮮人がおとなしく連行などされないことを知っているはずだ。私が意図を感じるのは、歴史評価などではなく、知っていながら知らない振りをして日本糾弾をしている卑怯さである。

 みずからを被害者に仕立てることによって相手を糾弾する。麻薬のように気持ちがよいだろう。だがありていに言うなら、八四〇万も強制連行され、抵抗一つなかった(強制連行に抵抗した記録を読んだことがない)だらしない民族ということになる。こんな自民族をおとしめるストーリーを、「労働新聞」は平気で連日のように書いている。これほど誇りなき政権はあるまい。

 また、二〇万人もの若い女性が、日本の国家権力に強制連行され、おとなしく性奴隷にされ、日本が敗れ約四〇年間(一九八〇年代初頭に初めて慰安婦問題が顕在化される)も、あの口うるさい民族が(二〇万人もの)性奴隷を黙っていたなど想像できない話である。大騒ぎをしている当の金正日政権ですら信じていないと思う。要するに、利用できるものは何でも安易に利用するという「政治文化」なのだ。

 前作の「パッチギ」にはこの慰安婦の部分は存在しなかったのに、今回の「パッチギ」には、キョンジャの父親が徴用され、脱走した部分と合わせて二ヵ所が新しく加えられたものだという。

 なぜなのか。金正日が日本人拉致を認めた。日本の世論はそれを契機に、金正日に非難を集中した。日本政府も安倍晋三政権になって、拉致解決を政府の最重要課題と決め、マンギョンボン号の入港禁止など独自制裁を強化した。

 これに対する金正日政権の対応策(カウンターキャンペーン)は、「労働新聞」を使って、「強制連行八四〇万」と「従軍慰安婦強制連行」キャンペーンの二つであった。「パッチギ」の「慰安婦強制連行」の新たな挿入と米下院の慰安婦問題での日本非難決議は、「労働新聞」の主張と同じだ。時期も余り変わらない。偶然の一致なのか。

 こんな馬鹿馬鹿しいまでの虚構で金正日政権が日本社会にパッチギ(頭突き)をかましてきたことを、われわれは鋭く嗅ぎ分ける感性を身につける必要があろう。

 

 次に、四方田先生は民族差別が「今日も頑強に残っている」と書いているが、これは明白な嘘である。差別が端的に現れるのは「結婚と就職」である。前述のように在日韓国・朝鮮人の結婚相手の九五%以上が日本人である。就職については、先の日立製作所に対する一九七四年横浜地裁判決を以て基本的に解消したと見てよい。

 在日韓国・朝鮮人の結婚相手が日本人に急速に増えているのは、日本人の差別がなくなったことなども勿論あるだろう。しかし、より大きな理由は一世たちがこの世からいなくなったからだと思われる。

 四方田先生はもう少し現実を見てからものを言って頂きたい。先生のように在日韓国・朝鮮人の生き方を問わない差別論こそが、彼らをスポイルしていく「犯罪」に近い行為であることを知って頂きたい。物書きの責任は軽くないと思う。「パッチギ」の製作集団も同じである。

 最後に、素人の感想を述べておく。主演俳優李アンソンこと井坂俊哉の、陰を漂わせた在日韓国・朝鮮人青年を演じた芸は見事なものだった。在日韓国・朝鮮人二世の女性を演じた李キョンジャこと中村ゆりであるが、在日二世の女性の多くは、体の内から強さがにじみ出ている。残念ながら演技はそこまでいかなかったが、健気なファイトは十分に伝わってきた。一層頑張って欲しい。

 正直に言って私は、一世が好きだ。彼らは明るい。いつもホームランか三振かという生き方をしている。無鉄砲で無責任だが逞しい。差別されたといってメソメソするようなことはあまりなかった。

 知人の一世は指紋押捺について「俺は日本社会に対して忠誠心を持っていない。そんな人間に、日本政府が警戒し指紋を採るのは当たり前だろう」という発言は誠に爽やかである。これが国家関係というものだ。

 それが二世になると、指紋押捺が「人権侵害」となる。国家性、民族性などが希薄になっていく。他方で、民族性を強調する。韓国籍のまま参政権などと言われると、勝手にどうぞということで、歴史の発展過程で仕方がないことだと思いつつも、つい腰が引けて付き合うのが鬱陶しくなる。

 私は、拉致問題で金正日政権にパッチギのお返しをしなければならないと秘かに思っている。

 

 本誌は「パッチギ」を上述のように評価している。さて、伝え聞くところによれば、信じがたいことであるが、日本の文化庁はこの映画に三千万円の支援金を出し、製作に協力したと言われている。もし、そうだとすれば文化庁はどういう意図でこんな映画に国民の税金を援助したのか、説明責任がある。説明を要求する。                 (了)

 

*「現代コリア」2007年10月号掲載

更新日:2022年6月24日