コリア狂想番外「浅き夢路」

中村憲一

(2018.5.30)

 

 隣の書斎から若い女性の声がして、北野は浅い眠りを覚まされた。

「友人のホン・オクジンさまという方からお電話が入っています」

 北野はÅⅠロボットのハナに時刻を確認した。

「3時8分です」

 ホン・オクジンの生真面目な顔を脳裏に浮かべ、ハナに電話をつなぐように言った。

「朝早くからすみません」

 ベッドに起き上がり、浅く腰かけて聞いたホン・オクジンの第一声は疲れていて、緊張しているようだった。

「しばらくだね。元気にしていましたか」

「ええ」。

 ホン・オクジンはためらいがちにこたえた後、いきなり用件を切り出した。

「実は、近いうちに祖国に戻ることになりました。お会いしてお礼を申し上げたかったのですが、難しそうなので電話で失礼させていただくことにしました」

 切羽詰まったホン・オクジンの声に、北野は緊張を強いられ、生つばを飲み込んだ。

「どうしたというのです」

「数時間後に、ソウルとピョンヤンで高麗連邦、正式名は”高麗民主共和国連邦“ですが、つまり統一コリアの誕生宣言がなされます。国連総会にも高麗連邦を認定するよう要請がなされます。それはいいのですが、日本との関係が難しくなりそうに…」

 北野はホン・オクジンの悲しそうな顔を思い浮かべた。ホン・オクジンの話によると、南の大統領と北の党委員長は統一に向けてのプロジェクトチームを発足させて、三年前から内政外交のプログラムを練り上げてきた、という。二〇一八年に行われた南北首脳会談、さらに史上初と言われた米朝主脳会談の”成果“などを踏まえて、日朝国交正常化へ向けての再交渉が行われてきた。だが日朝の交渉は拉致問題や植民時代の補償、在日朝鮮人の処遇などあらゆる問題がテーブルにばらまかれてしまい、一進一退の攻防が続いている。南北首脳はこうした状況に業を煮やし、打開策を講じていたが、高麗連邦を結成し、日本との交渉に共同で当たることになったのだ、という。

 ホン・オクジンの話が続く。

 前世紀の半ば625(ユギオ、朝鮮戦争)が起こり、米国の強い勧めにより日韓国交正常化交渉が始まった。東西冷戦のさなか、米国の”同盟国“どうしがいがみ合っていることは、米国の国益を損なうものだったからである。しかし強大国である米国の強い指導があったとはいえ、”三十六年間“に及ぶ植民地支配の清算は簡単ではなかった。まず日韓両国において日韓併合に至る当時の東アジアさらに世界情勢の認識が食い違っていた。また日韓併合の正当性そのものをめぐっても意見の対立があった。結局、両国は植民地支配とその清算についてそれぞれの都合の良い解釈を可能にする文言を採用し、妥協した。十三年間もかかった日韓基本条約や協定の発効は、両国の経済交流を正式にスタートさせたものの、折に触れて歴史認識問題を再燃させてきた。普段は灰に覆われて消えていたように見えた熾(おき)が何かの拍子に現れるように。

 ホン・オクジンはため息のように呟いた。

「慰安婦問題やドット(独島、日本名竹島)をめぐる問題が両国をどれだけ消耗させ、疲弊させたことか」

 間をおいて気を取り直したようにホン・オクジンはまた話し出した。

 南北の指導者は、こうした日韓国交正常化交渉や妥結後の諸問題を徹底的に検討し、膠着している”日朝交渉“に対処しようとした。その解決策の最大の眼目が統一コリアの宣言だという。皮肉なことに高麗連邦の誕生には日本が大きな牽引力として大きな役割を果たしたのだという。

 高麗連邦は“日朝交渉”を解消、格上げし高麗連邦と日本との交渉に切り替えるという。数時間後、高麗連邦の創立を世界に宣言した後、関係国に特使が派遣される。当然、日本にも特使がやってくるが、南北の外交官や歴史学者、経済学者、ジャーナリストなどによる大規模なチームが結成されており、これまでの日韓と日朝のあらゆる諸問題について高麗連邦の対応策が提示されるだろう、という。

「日本は窮地に陥るでしょう」

 ホン・オクジンの声は悲しそうに聞こえたが、決然としていた。

 米国は現在、世界の超大国としての地位を中国に譲り渡し、世界中に派遣していた軍隊を撤収した。韓国や日本(沖縄)に駐留していた軍隊も間もなく最後の部隊が引き上げることが予定されている。

 高麗連邦が提示した宣言に日本が反発して応じなければ、統一コリアとしてかなり強硬な対策を取るだろという。プロジェクトチームは対日プラン提示後の日本の出方について、あらゆるシュミレションを検討し、対策を考えているという。その一つが植民地支配の償いと、解放後の補償についての提案であり、通告であるという。

 日本が日韓基本条約などで解決済みとしてきた強制労働や徴用工問題の補償が新たに提示される。これには日朝間で議論されなかった半島北半分も加わる。この提案には北側の共和国の主張が反映され、日本にはかなり厳しいものになるとみられる。このほか、歴史認識問題解決策の提示に対して、日本が応じなければ強硬な対応策が実施されるだろうという。

 まず植民地支配や解放後の共和国(北朝鮮)への敵視政策の一環としての経済制裁によって被った損失の賠償に応じなければ、直ちに強硬策がとられるという。具体的には韓国における日本企業や韓国への投資がなどすべての資産が凍結、差し押さえられる。また日本の海外投資資産を差し押さえるべく世界中で訴訟が起こされる。当然、日本も対抗措置を取ることが考えられるが、その対策も準備されている。

「でも北野さん、それはどんなことなのかよくわからないのです。たとえ知っていても話すことはできません」

 ホン・オクジンの声は沈痛だが、決然としていた。北野はおもわず大きな声を出していた。

「こんな事が行われれば、戦争になる危険も当然考えられますが、それでも強行するのですか」

 北野はできるだけ落ち着こうとした。

「それよりお国や日本には、それぞれ相手国の人々がたくさん住んでいるじゃありませんか。この人々のことを新しく誕生する高麗連邦は考えていないのですか」

「ええ、それがいちばん肝心な問題なのです。統一プロジェクトチームが最も重要な機微にわたる問題として考え抜いたのも、北野さんが指摘された相手国に住んでいる自国の人々の処遇をどうするかということでした。でも対応策はあっけなく見つかりました」

 ホン・オクジンの声は初めて明るいものになった。日本に住んでいる韓国・朝鮮籍の在日コリアンを積極的に高麗連邦へ帰還させるように促し、統一祖国の再建に参加してもらおうというのだという。ホン・オクジンは笑いながら言った。

「北野さん、あなたは一九五九年から二十数年間行われた、在日朝鮮人の共和国帰還を連想したかも知れませんね。でもそれは違いますよ。日韓国交正常化による日本の経済協力によって、韓国は様々なインフラ投資を行い、軽工業から始まり重化学工業への集中投資を行い、高度経済成長の足掛かりを掴みました。それをもっと効率よくスムーズに共和国側でやるのです。ですから日本だけではなく世界中に居住する同胞に戻ってこの大事業に参加してほしいのです。韓国の五千万人、共和国の二千五百万人、さらに海外同胞の八百万人と言われる同胞が加われば、八千万人をはるかに超える人口を抱える大国になるのです」

 ホン・オクジンは誇らしげに言った。

「工業先進国で八千万人の人口を抱える国はそう多くありません。先進国のヨーロッパでイギリスとフランスがそれぞれ六千万人強、先に統一したドイツもようやく八千万人を超えるに過ぎません。ああ、忘れていました。日本は一億を超えていましたね。でも人口減少と超高齢化社会の進展には歯止めがかかりませんね」

 ホン・オクジンは高麗連邦の人口を分析した後、隣国に中国とロシアという大国を控えている地政学的優位を誇るように言った。

「大昔から近代の帝国主義の時代まで、わが民族は中国やロシアなど大国に苦しめられてきました。ところで近代から現代までにわが同胞たちは様々な理由で両大国に数百万単位で移住し、しっかり根づいています。高麗連邦はこうした同胞との連携をすでに模索しています。世界にはシオニズムというユダヤ人の強固な絆の良き見本がありますからね。もちろん米国や日本をはじめこれまでの友好国との経済交流も発展拡大させていくことは言うまでもありません」

 北野はホン・オクジンの話を聞きながら、高麗連邦がユーラシア大陸から突き出た鑿のように日本列島に向けられている地勢図を思い描いた。二千年前の東アジアで中国という強大国の支配から免れたのは、四方を海に囲まれていた地政学的な理由からであった。また帝国主義の時代に鎖国によって国を守れたのも中国大陸から海によって距てられていたからだ。現在はそのような”僥倖“は、あらゆるテクノロジーが発達した世界では通用しない。ホン・オクジンの話を聞きながら、北野は高麗連邦の強硬な対日政策による紛争勃発の可能性を考え身震いした。

 北野の思惑を見越したように、ホン・オクジンの決然とした声が聞こえた。

「北野さんが心配されるようなことは起こらないと思います。高麗連邦の創建宣言と同時にある重要な宣言もなされるからです。こちらは北野さんが想像されているものと同じかもしれませんが。そうです。確かに二〇一八年の朝米会談により、共和国の核爆弾をはじめとする大量破壊兵器や各種ミサイルは二年間で「完全かつ検証可能で不可逆的な方法によって廃棄(CVID)」されましたよ。世界中の人々がプンゲリ(豊渓里)の核施設が爆破、破壊される映像を見ました。でも人の頭の中まで壊すことはできません。

 もうお分かりですね。北と南だけでなく世界中の同胞が結集して国を作るという意味が。CVIDにより物自体は破壊されたかも知れませんが、人の頭の中にある経験や記憶、知識まで消し去ることはできません。さらにCVIDを検証したIAEA(国際原子力機関)も全知全能の神ではありませんよ。

 北野さんはずいぶん前、韓国人は日本についてなら荒唐無稽な話をして喜んでいると、蔑むように言ったことがありますね。韓日がサッカーなどで対抗すると、韓国が普段の数倍奮闘するという例を引き合いに出しながら、北野さんが前世紀の八〇年代末に韓国に駐在されたときに流行した空想未来小説のことを話されました」

 北野は、二〇一八年の北朝鮮の平和攻勢と周辺国の反応など国際情勢を見ながら、気になる空想未来小説を何回も思い出していた。こうした北野の思惑を先取りしたようなホン・オクジンの声は次第に不気味に思えてきた。その声が言う。

「北野さんはおっしゃいました。空想未来小説はいろいろパターンがあったが、結局は日韓が戦って韓国が勝つというもので、韓国の溜飲が下がるという結末を揶揄されていましたね。そのうちの一つに、現在の状況をまるで先取りするような小説があったのを話されたでしょう。

 近未来において、南北が秘密裏に対話を重ねて統一を果たし、日本に対抗するという話がありました。統一した高麗連邦と日本は、激しく対立して核開発競争を行います。だが両国の対立の中で日本は不当な行動に出ます。そこで統一コリアは日本の攻撃をかわし、日本の地方都市に原爆を落とし、日本は許しを乞い、降伏します。

 北野さんはこの話を紹介しながら、呆れたようなうんざりした調子で言いましたね。『韓国は何でも日本には負けたくないんですね』と。わたしも当時の韓日の経済力、科学技術、社会インフラなど国力の差を考えると、悔しいけど、北野さんのおっしゃる通りだと思いました。だがいま形勢は逆転しつつありますよ」

 ホン・オクジンの話が途切れたところで、ÅⅠロボットのハナが五時を告げる鳥の声で鳴いた。

「あぁ、そろそろ高麗連邦の創建宣言と重要発言が行われる時刻が迫ってきました。北野さん、わたしはそういう訳で統一祖国の再建のために数日のうちに日本を離れる予定です。本当はお会いしてゆっくり語り合いたかったのですが、残念です。北野さん、あなたと出会い一緒に仕事が出来たことはわたしの大切な思い出です。どうか

元気にお過ごしください」

 北野はすでにベッドから起きて書斎の椅子に座っていたが、ホン・オクジンの最後通牒のような言葉に

「ああ、あなたも元気で」と返すのがやっとだった。北野は椅子に腰を落としたまましばらく身じろぎもできなかった。

「果たしてこんなことが…」。何度も同じ言葉が北野の頭の中を駆け巡り、何も考えることができなかった。

 静寂の中でハナの目が光り、遠慮がちな声がした。

「ご主人さま。少し立ち入ったことを申し上げてよろしいでしょうか」

 北野はハナが自ら話しかけてきたので驚いたが、「いいよ」とこたえた。

 ハナは話し出した。

「先ほど、ホン・オクジンさまがお話になったことは、わたしたちの仲間を通じて数十人の日本人の方に伝えられたようです。さらにホン・オクジンさま以外に日本人と深い交流と友情をお持ちのコリアンの方々がそれぞれ数十人の日本の友人に同じ話をされているようです。仲間がそう申しております」

 北野は夢から覚めたように顔を上げ、ハナに問いかけた。

「ハナ。それでは”日本人と深い交流と友情を持った“コリアンは全部で何人ぐらいいるんだい。そして彼ら彼女らはいったいどのくらいの日本人に、ホン・オクジンがわたしにしたような話をしたのだろうか。是非教えてほしい」

「ご主人さま。仲間どうしのデータ照合に過ぎませんが、三千二百のコリアンが十人から二十人に同じような話をしたようです。これはもちろんわたしたちのようなÅⅠロボットをお持ちの方に限られています。このほかスマートフォンやパソコンによる会話は分かりません」

「ありがとう。ハナ」

 北野は少し気持ちが楽になった。自分のほかにホン・オクジンから聞いたのと同様の高麗連邦とその対日政策を聞いた日本人が少なくとも数万人はいるのだ。そう思うと、楽観は出来ないが最悪の事態は避けられそうだと。だが次の瞬間、北野は激しい痛みを覚えた。

 

 雀や烏の声がして、暗闇に満たされた部屋にほのかな光が差してきた。いつも北野が起きる五時前になっていた。ベッドから部屋の中を見回して、ここはどこだろうと一瞬思ったが、やがて自宅の寝室であることが分かった。北野はおそるおそるベッドから下りると、隣の書斎として使っている応接間に行った。ÅⅠロボットはなかった。机の上にはノートパソコンがあり、周りに本や雑誌、新聞が積み上げられている見慣れた書斎があるだけだった。

 北野は着替えると、ゆっくりコーヒーを淹れた。カップを持って書斎に戻ったが、いつものように机に向かい読書する気になれなかった。

 今年一月から北朝鮮の平和へ向けてのメッセージは、韓国平昌の冬季オリンピックに北朝鮮が参加し、南北融和を醸成し、一挙に南北首脳会談を実現させた。勢いづいて韓国の仲介により、初の米朝首脳会談が開催されることになった。さらに北朝鮮は険悪な関係に傾いていた中国との関係修復に乗り出し、党委員長が二度にわたり訪中し、中朝首脳会談が開かれた。

 南北首脳会談はテレビで生中継され、世界中の人々が見入った。新聞やテレビは連日大きく報道し、北朝鮮の党委員長や米国大統領の”発言“が最大の関心事になった。北野もこれらの新聞記事を熱心に読み、テレビの報道も見た。半生を韓国との仕事にかかわってきたせいもあって、新聞記事は切り抜きをしたり、テレビ番組は録画したりして繰りかえし読んだり見たりした。そのせいであのように生々しい”夢“を見たのかも知れない。

 北野は夢の中で感じた、何かに殴打されたような痛みのことを考えた。南北が統一し、高麗連邦を創立するという”未来“に、そう遠くない過去に彼らの分断のきっかけを作った民族の一員として負い目を感じ、また恐れたせいなのだろうか。いま世界中で起こっているテロの多くは、近世の帝国主義の時代に強大国に痛めつけられた異民族や異教徒によるものだ。現代に生きる者にとって理不尽極まりないテロは、百年あるいは数百年前に自らの祖先が残した負の遺産(負債)の決済を迫られているといえるのかもしれない。日本もこのことに無関係ではないという思いが北野を襲った。朝鮮半島のもう一つの当事者である北朝鮮との直接交渉は、二〇〇二年にピョンヤン宣言が出されたものの、拉致問題をめぐる相互不信によって頓挫したまだ。北朝鮮との清算はどんなに困難であってもやらなければならない。そのために考えなければならないことも、しなければならないこともある。だがわたしたちは忘れてしまったかのようだ。

 北野はコーヒーを飲み干し、台所へ行った。簡単な朝食を用意しようとしたが、ただしばらくたち続けていた。   (了)

更新日:2022年6月24日