H君の呟き(新)

中村憲一

(2016.06.21)


 さいきんネットで韓国の朝鮮日報の電子版(日本語版)をチェックしていたら、外国人の中にもわたしと同じような考え方をする人がいると分かり、自分の韓国に対するイメージにすこし自信を持つことが出来た。わたしが気になった記事は、6月5日付けの『ネイチャーが韓国に警告「カネでノーベル賞は買えない」』というタイトルでパク・コンヒョンという記者の署名記事である。記事の内容は同誌が1日、「韓国はなぜ研究開発(R&D)における最大の投資家なのか」という文章を掲載、韓国科学界の「ノーベル賞コンプレックス」を分析していると紹介している。おおよその内容は次のようなものである。
 ネイチャーの筆者は、韓国のR&D投資の増加に注目し、同投資の対国内総生産(GDP)比が1999年の2.07%から2014年には4.29%に拡大し、世界最大になったと指摘。米国は3%以下で、中国やEUは2%台という。ところが投資額に比べて満足のいく結果は出ていないとし、韓国の研究者が国際的な学術誌に発表した論文の数は投資の割に低い水準にあり、予算増額にもかかわらず基礎科学分野の競争力向上につながっていないと分析している。
 ネイチャーの筆者は、こうした背景には韓国政府の場当たり的な投資と言われても仕方のない計画性のなさがあると指摘しているが、わたしが興味深く思ったのは韓国の研究風土についての言及だった。同誌の記事によると、「議論を避けて、上下関係を重んじる」研究風土が、米国に留学して博士学位を取得した韓国人科学者の7割が米国に残るという例をあげていることである。
 わたしは1年前、韓国でノーベル賞受賞者が出ていないという在日コリアンの友人がフェイスブック上にもらした呟きに答える形で、ある日本の朝鮮文学者の横顔を紹介する記事を書いた。同記事は郷里のミニコミ誌の投稿仲間に送ったもので、その後、現代語学塾という韓国朝鮮語学習塾の事務責任者をしている友人が機関誌「クルバン」に一部を転載してくれた。以下の文章は、ミニコミ誌の仲間で韓国にほとんどかかわりのない日本人向けに書いたものである。
 ネイチャーの記事は朝鮮日報で紹介されたものを引用したものであり、気になる方は同誌に直接あたってほしい。

 2014年秋、ノーベル物理学賞を受賞した日本人研究者三人や文学賞受賞候補についての報道が狂騒気味だったころ、H君が次のような短文をフェイスブックに載せていた。〈いつも毎年この頃になると、ノーベル賞が話題になるが韓国人のことがまったく取り上げられないのをさびしく思う〉と本音とも諧謔とも取れる文面だった。
 H君は古い在日コリアンの友人である。
 数年前からH君だけでなくノーベル賞が話題に上るころになると、韓国メディアが韓国のノーベル賞受賞者が金大中元大統領の平和賞だけで自然科学や文学、経済などの分野で候補にも挙がらないことを取り上げていた。このような論評には必ず日本が引き合いに出されており、日本に対する対抗意識の強さに改めて辟易させられた。一方、日本の新聞に「韓国人がノーベル賞を取れない理由」という本が書籍広告に載っているのを見て苦笑させられた。著書を読んでいないし読みたくもないので推測するばかりであるが、著者は自分でノーベル賞を受賞したわけでもなかろうに、日本人はノーベル賞を受賞できる資質があるが、韓国人にはそれがないと言いたいのであろうか。いずれにしてもタイトルからは韓国人を貶めようとする意図が少なからず伝わってくる。
 何もノーベル賞受賞が世界における知識や文化に対する最高レベルの評価に直結するわけではない。ただ欧米を中心とした近代世界秩序の中で広く受け入れられてきた評価である。たとえば次のような事例はこの意見を補足してくれるだろう。中国は四年前中国人の人権活動家劉暁波氏に対するノーベル平和賞授与に反撥してノルウェイ政府に圧力をかけて対抗し、それだけでなく中国自身が欧米の権威に挑戦するかのように中華的な平和賞を創設した。ただ中華的な平和賞は世界からそっぽを向かれる結果に終わったが。ここで言っておきたいのはノーベル賞はこれまでの世界秩序の中で大方から最高レベルとの評価を受けてきたが、欧米を中心とする先進国の価値観や伝統を色濃く反映しているということである。それでもノーベル賞受賞が世界的な評価の基準の一つになっていることも事実である。
 わたしはH君のフェイスブックの呟き(短文)を読む前から韓国人の自然科学や社会科学部門でのノーベル賞受賞は当分ないだろうと思ってきた。別に日本人が優秀で韓国人がそうでないという理由でそう言っているのではない。韓国人は自らを優秀な民族だと思っているし、わたしも事実優秀な民族であると思っている。だが韓国メディアの論調を見ると、日本人ごときに水をあけられて悔しいという思いが強すぎるのか、ナショナリズム的な思考から抜け出せないでいる。日本を過剰に意識し過ぎるせいか、自省的な思考に欠けており、つまり自らを多角的に観察する視点を欠いて堂々巡りの思考に陥っているように思えた。
        
 H君の呟きを読んだとき、コリアについての唯一の師と勝手に思っている長璋吉(ちょう・しょうきち)先生を思い出した。
 先生は、わたしが三十数年前に在日コリアン系業界紙に入社したとき、少壮の朝鮮文学者だった。ほんの腰かけ程度の気持ちで入社したものの、韓国と北朝鮮という東西冷戦の最前線で激しく対立する両国に対する論評は、政治的で一方的なものがほとんどで、ビギナーのわたしは途方に暮れた。在日コリアン社会も同様で、とんでもない世界に踏み込んでしまったと後悔した。
 そんなとき、長先生が二十代半ばのころ(日韓国交正常化直後)に韓国に留学された経験を書いた留学記『私の朝鮮語小辞典』を読んで救われた。当時軍事政権下にあった韓国について、社会の実相を伝える報道はほとんどなく、民主化運動への弾圧で恐ろしい国というイメージが、日本においては一般的だった。長先生の下宿での韓国人との交流は飄逸としており、また韓国人を見る目も、日本の横丁の人々に向ける眼差しと変わることがないと思った。
 簡単に言えば、韓国にもごく普通の人々がごく当たり前に日々の生活を営んでいるのをユーモアたっぷりに描写していた。わたしは「なぁーんだ、同じ人間が暮らしているんだ」という思いがして、韓国に対する力が抜けたように感じた。韓国や北朝鮮についていろいろの本を読んだが、わたしの中では長先生の留学記は格別のものだった。
 長先生の留学記を読んだのがきっかけになり、もっと韓国を知ろうという気持ちがわいた。いくつかの施設や団体が主催する教室で韓国語を学んだが、長先生が講師をされている市民が運営する塾には足が向かなかった。長先生に憧れに近い感情のようなものを抱いていたのかも知れなかった。当時は都内でも韓国語(朝鮮語)を教えるところは限られていたし、NHKの講座も始まっておらず、通っていた教室にも魅力を感じなくなっており、思い切って長先生が講師をしている市民講座を訪ねた。見学して入塾を許されれば入るつもりでいた。
 ある日の夕べ、新宿からすぐ近くの住宅街の一角にある古い民家の戸を開けると、三和土に所狭しと履物が並んでいた。ところが授業の行われている、玄関と障子で仕切られている部屋からは人の声が聞こえてこない。わたしは恐る恐る障子を開け、中に入った。八畳と四畳半ほどの和室をぶち抜いた教室に、粗末な座卓が三つ縦に並べられ、その周りを二十人ほどが取り囲んでいる。皆テキストを読んでおり、声を発する者はいなかった。 
 入り口付近でかしこまって授業を見学した。授業は韓国の小説の輪読らしかった。生徒が順番に読んで訳すのだが、ちょっと変わっていた。長先生は座卓の中央に座っておられた。先生は小柄で声も小さかったからだ。三つの座卓を並べ奥の黒板を背にして座ると、端の方では声が聞こえず中央に座らされていたらしい。これは後で聞いて分かったことであるが。また授業中に声がしないのは、先生が余りしゃべらなかったからである。
 例えば生徒が担当した原文を読み訳をする。そして先生がその訳文をチェックする。先生がもう一度原文を読み、訳すのだが、なかなか前に進まない。生徒の訳もご自分の訳もうまく原文を表していないと思う(きっとそう思われていたのだろう)と、考え込んでしまって先に行かない。沈黙が五分ぐらい続く。するとたまりかねた勇気のある生徒が「先生、そこは保留にして前に進みませんか」と声をかける。先生は「そうしますか」と呟くように言って、鉛筆でメモをされてから次に進むのだ。
 だからと言って授業が重苦しい雰囲気の中に行われるというのでもなかった。むしろ和やかな空気があった。生徒が初歩的な発音の間違いや誤訳をしても丁寧に対応された。出来る生徒の訳でも適当でないと思えば採用しなかったし、初心者の訳でも良ければ尊重し、ご自分の訳を押し付けることもなかった。生徒の質問にも率直に答え、分からないことはそのようにはっきり答えた。
 見学の後、わたしは授業に参加することにした。
 生徒たちのほとんどは社会人であったが、長先生の学問と人柄を尊敬していた。先生はヘビースモーカーで、授業中も喫煙されていた。生徒の中には煙草を吸う者もいたが、授業中は遠慮していた。もちろん長先生の授業中の喫煙を快く思っていない者もいた。あるとき勇気のある生徒が、いつもは先生の席の前に置かれている灰皿を授業の始まる前に取り上げて、座卓の下に隠した。授業が始まり、しばらくして長先生は煙草に火を点けたが、灰皿がないのを見てびっくりしたような顔をされた。それでも声を出すこともなく、座卓の下にある灰皿を発見して何事もなかったような顔をされて煙草を吸い続けた。一部始終を見ていたわたしは笑いをこらえるのに苦労した。
 長先生が講師をしておられた市民講座では、授業が終わってもすぐに帰る人は少なかった。生徒は皆社会人であり、授業が終わると講師の先生を交えて雑談に興じた。酒を買ってきて飲むこともあり、むしろこちらを楽しみに通って来る生徒もいたようだ。話題は日韓関係をはじめ、南北問題、韓国の政治社会など幅広かったが、概して固い話柄が多かった。市民講座の発祥が、金嬉老という在日コリアンの公判を支援する目的で作られた団体に由来していることもあり、集まってくる生徒たちは人権、民主主義などに強い関心を持っている人がほとんどだった。
 わたしはこういう話題に発言できる知識もなく、もっぱら聞き役に回っていた。長先生も静かに耳をかたむけることが多く、ときおり頷かれる程度だった。だから長先生の授業を受けるようになっても直接お話をすることはほとんどなかった。ただ二、三度、帰る方向が一緒だったので、途中駅まで同道したことがあった。
 長先生とわたしの会話は弾まなかった。わたしは当時勤めていた在日コリアンの新聞に寄稿をお願いしたのを覚えているが、先生は何もおっしゃらなかった。その代りに、次のようなことを話された。
 「人間はあんなに面白いのに、文学や映画はなぜつまらないんでしょう」。
 呟くように話されて、その後は何も言われなかった。先生と二人きりのときは緊張もしたが、いろいろなことを聞けるチャンスでもあり、秘かに期待することもあった。
 だが、わたしの幸せな時間は長く続かなかった。長先生に脳腫瘍が発見され、市民講座だけでなく勤めていた大学も休まれ、入院したからである。そして数か月後に亡くなられた。先生が亡くなられたのはソウルオリンピックの年の秋だから二十数年が経つが、帰りの電車の中で聞いた言葉は忘れずに今も鮮明に覚えている。
 長先生は二十代の半ばに韓国ソウルの下宿で一年半余りを過ごされた。先述したように留学記には個性的な韓国人が登場し、その様が活写されている。著書の中で長先生は韓国社会を「人間の原形質の露天掘りの現場」という言葉で表現している。
 わたしは先生が亡くなった直後、約二年在日コリアン系新聞の特派員として下宿住まいをしながら働いたが、韓国社会は確かに個性的な人々が多かった。個性的な人々の暮らす現場に身を置いたのであるが、文学は知らず映画は面白くないことを実感させられた。わたしが在日系業界新聞で働く決意のようなものを固めたのも、日本で見た韓国映画が面白かったからである。だがわたしが日本で見たのは選りすぐりの韓国映画で、本数も限られていた。その後、韓国の小説を翻訳で読んだり、原文で読んだりする機会もあったが、面白いと思ったのは数少なかった。
  文学や映画が現実の人々の面白さに比較して面白くないと呟くように話された長先生の思いが、韓国を深く知るようになり多少ともわかるような気がした。同時に先生は複雑な思いを抱いて朝鮮(韓国)文学を研究されていたのだと思うようになった。それを思わせる話を知り合いの研究者から聞いたことがある。ある学会で一緒になった研究者は、長先生から「君は本気で韓国を面白いと思って研究しているの」と問われ、面食らったが「ええ、漢文の資料は面白いです」と答えると、「僕も漢文を勉強しておくんだった」と話されたという。
 最初の話題から大分ずれてしまったように思われるが、H君の呟きに対して長先生が呟くように話された言葉で答えてもいいのではないかという気がしている。
 韓国社会は「人間の原形質の露天掘りの現場」さながらに、個性豊かな人々が暮らしている。こういう社会が面白くないわけがないが、この面白さを十分に表しにくい社会が存在することを、長先生の呟きは言っているように思う。
 それは、長先生のような教員はいないだろうし、ましてあのような授業は韓国では成り立たないことを思い合わせればよいかも知れない。例えば韓国では儒教の影響が強く残っているせいか、教師は生徒に対して権威的な態度で臨むことが多い。大学院などで学生が指導教授以外の教授の学説に興味を持ち、指導を仰ぐことは不可能に近いということを聞いたことがある。
 個人的な例であるが、日本の大学院で博士課程を修了し韓国の大学で教員になった韓国人の知人と、ソウルを訪問した折に酒を飲んだことがある。たまたま酒場に知人の教え子の学生がいて挨拶に来たが、知人が居丈高な態度で叱責するのを見てびっくりした。彼は普段はおとなしい男であった。
 もとより長先生が天才的であるとか、図抜けた能力の持ち主であるとかと言いたい訳ではない。もちろん人間を見る鋭い感性と、それを文章にする優れた能力を持っておられたことは確かである。朝鮮語の文章を読み、日本語に翻訳される苦労や葛藤を持っていたこともむろんあったと思われるが、その過程において自ら安易に妥協されることはなかった。それは自分が大学の研究者であり、生徒が一般人であっても関係なかった。何よりも世間の権威や名前も関係なかった。
 先生が亡くなられてから数年後、わたしは国会図書館へ行き先生が専門雑誌などに寄稿された文章を渉猟した。朝鮮文学についての論文をはじめ、短編小説の翻訳、書評などいろいろな文章をコピーした。
 論文は門外漢のわたしには難しくてよく理解できなかったせいかよく覚えていないが、短編小説の翻訳は訳文の見事さに驚いた。翻訳臭さをまったく感じさせず、日本の小説を読んでいるような気分にさせられた。わたしは仕事で韓国語の新聞や雑誌の記事を読み、翻訳することはあったが、文学作品の翻訳はまったく別物と考えていた。わたしは改めて先生の能力に舌を巻いた。
 また韓国に関心のある一般人向けに発行されていた小雑誌に掲載された書評を読んで、複雑な思いを抱いた。当時評判になっていた韓国小説の翻訳を、完膚なきまでに批評しているのだった。翻訳者は自他ともに認める在日コリアンの翻訳家で、一流と言われる新聞や雑誌にもよく寄稿していた。先生の文章は軽やかに翻訳の瑕疵を分析しており、嫌味はないが小気味よいものだった。わたしは「ああ、これでは憎まれただろうな」と思った。
 実際、先生は国立外国語大学の教員だったが身分は講師のままで、助教授や教授にはなれなかった。晩年、私立外語大学の助教授になっただけだった。大学内の政治的なことには無頓着であり、研究以外の雑用は何もしないからだと、社会人である生徒たちの大方は推測していた。
 長先生のような研究者は日本でも数少ないであろうし、その言動や個性はぎりぎり大学という環境の中で許されてきたが、払わされた代償も大きかっただろう。とっくに助教授から教授になってもよい研究論文や翻訳などで実績を上げながら、国立大学で長年講師に甘んじなければならなかったのは、権威におもねらない態度が周囲から煙たがれ嫌われたせいかもしれない。
 長先生の個性は、最初から画然とA、B、C、Dと分けられるように存在したのではない。自らの感性と能力、さらには文学とは何かを愚直に追い求める過程で形づくられたものであろう。こういう個性や存在は、画一性を求める傾向の強い日本社会では生きづらい。
 しかしかろうじて、こうした個性や存在が担保されている多様性が日本社会には残っている。いわばレアメタル(希少金属)のような存在であるが、それが日本社会の多様性をわずかに保っている。

 H君の呟きには不十分かもしれないが以上で答えにしたいと思っている。贅言すれば、日本にはかろうじて多様性を担保する余地が残されているが、韓国にはそれを発揮しにくい土壌があるというわたしの日頃の思いを、長先生の思い出とともに述べることで理解してもらえれば幸いである。日本にかろうじて多様性が担保され、韓国ではそれが発揮しにくいのは、風土という自然や社会環境、何よりも地政学的な位置が関係しているように思う。今のわたしにはここまで立ち入る知識や考えはないが、出来ればわたしなりに考えて行きたいとも思っている。

 ミニコミ誌の仲間に送った「H君の呟き」は好評だったので、長いあいだ、韓国にたずさわってきた数人の友人にも見てもらった。みなそれぞれにおもしろかったと言ってくれたが、結語の部分がそれまで具体的に述べて来たのに、ぽーんと放り投げるような言い方が気になったと指摘する友人がいた。友人が結語について指摘したことは正しいと思っている。たしかにわたしは”正論”を言っているが、韓国は日本の隣国であると言っているのと同じで、何も言っていないのに等しい。そこで友人の指摘にこたえてわたしなりの”韓国という国のありかた”について多少煩雑になるかも知れないがスケッチ風に述べてみたい。
 ” 韓国という国のありかた”にはいくつかの特徴があるが、その一つが中国という強大国と隣接し、一方で海を隔てて日本に接している地政学的な位置である。朝鮮は古代より中国や北方民族から何度も侵略を受けてきたが、生き残るためにこれらの国々と”事大”政策によって交接してきた。もっと言えば事大政策を取らざるを得なかった。事大する形や内心はどうであれ、事大主義は国家存立の政策として必要であった。権力や権威に対して抵抗、対抗することはあっても貫徹することは難しかった。
 また高麗末期・朝鮮初期に新しい儒教朱子学が入ってきて、国家創建の政治哲学として取り入れられたことも現在の韓国の国家のありように大きな影響を及ぼしている。韓国の政治が名分論に重きを置いていることは、日韓関係を多少とも考えたことのある者には容易に首肯できることである。朱子学は政治だけでなく、教育をはじめあらゆる分野で今もその影響をとどめている。韓国の大学教育や大学間の序列意識の高さは、高麗末期に始まったとされる科挙という人材登用制度の名残りが感じられる。科挙に応試するためには「四書五経」をはじめとする中国古典を朱子学的解釈によって学ぶことが必要であった。
 わたしなりの朱子学の特徴の一つをあげれば、階層的な礼による秩序維持である。三十数年前に初めて訪韓し、二十年ほど前に二年間ソウルに暮らした経験からいくつか印象深いことがある。韓国ではよく自らを「東方礼儀の国」と自賛するが、<韓国人たちは礼儀正しい国民で、現代風に言えばマナーが良い人々>と解釈してはならない。儒教の「君臣父子間に秩序があり、これを守ることが礼の始まりである」という教えを守っていると言う意味である。
 ソウルに滞在した折、支社のスタッフとのやりとりや、韓国企業、団体などを取材した経験から<韓国における礼儀>を実際に経験した。
 例えば会社のいちばん下の平社員は、すぐうえの上司の主任に「ニム(nim)」という「様」を意味する敬称をつけて呼ぶ。韓国語では「主任様(チュイムニム)」となる。主任は「係長様(ケジャンニム)」、係長は「課長様(クァジャンニム)」、課長は「部長様(プジャンニム)」と、続いて、社長は「会長様(ヘジャンニム)」と下位の者は上司に敬称をつけて呼ぶ。この階層の途中において、部下が上司に「ニム」を付けずに呼べば、トラブルになる可能性がある。こういう社会では同じ階層では胸襟を開いて話をする関係を築くことは可能であろうが、上下間において自由な意見交換が難しいのは当たり前であろう。本来自由な意見交換や議論がのぞましい大学の研究室や各種研究機関においても同じようなことが考えられる。
 科挙という人材登用制度について言及したが、科挙には別に医学、外国語(通訳)、天文学、地理学、算学など実学の人材を登用する雑科という科目があり、両班という支配階級と常民の間の中人という人々が世襲で担ってきた。朝鮮王朝の一時期、これら実学を尊重し発展させようとする優れた”実学派”と言われる儒学者が輩出したものの、経学としての朱子学に固執する支配勢力によって潰されてしまった。韓国ではいまでも、ものを作ったり売買する実務に携わる人々より、昔の儒者のような読書人に通じる教師や医師、弁護士などが偉いという”社会通念”が強く乗っている。日本のように、もの作りに長く従事してきた”職人”への尊敬は考えられもしないのである。
 以上、結語に違和感を表明した友人に答える形で韓国のありようをスケッチ風に簡単に記述したが、多少でも納得してもらえれば幸いである。さいごに何度も言うようで恐縮であるが、韓国人は優秀な人々であり、それはスポーツの国際社会での活躍を見れば自明のことである。ただ、韓国内においては学問や研究分野において国のありようがそれを難しくしていると思えてならないということだけである。         

 

(2016年6月14日)




                          

更新日:2022年6月24日