第47回埼玉文芸賞準賞(エッセイ部門)受賞作

 

花の終わり

中村憲一

 

 七、八年前になるであろうか。まだ父が存命のころ、近所のMさんから朝顔の苗をいただいた。

 元気でいるものの諸事の動作が覚束ない高齢の両親が気懸りで月に一、二度、週末に埼玉南部の住宅街から北関東の郷里の実家に通っていた。掃除と買い物をし、料理をして夕食と朝食を共にして帰るということを父が亡くなるまで続けた。ときおり近所の人が立ち寄ると、話好きな母は嬉々として迎え入れ、楽しそうに噂話に興じた。

 わたしが郷里に戻っていたおりで、Mさんが野菜か何かを持って立ち寄ってくれたのだと思う。わたしも話に加わり、帰省のたびに泊まる玄関脇の洋間に日除けが欲しいという話をした。するとMさんは自宅の庭にある朝顔がちょうど植えごろに育っているという。わたしはグリーンカーテンにしようと思い立った。さっそくMさんのお宅に伺い、草花が植えられた庭の一遇を小さな丸い石で囲んだ“花畑”に、十センチばかりに伸びていた苗を十株ほどいただいた。わたしが寝室として使っている洋間は八畳で、南側はアルミサッシのガラス戸になっていて、真夏は一日中強い日差しにさらされる。ガラス戸の前は一坪ほどの地面に芝が生えてある。十か所ほど芝生に穴を開け、畑から土を持ってきて穴に盛り苗を植えた。両親が丈夫なころ野菜作りに使っていた緑色のプラスチック製の支柱を利用し、筏状のネットを作った。苗の植え方が気になったのか、Mさんがやって来てネットを見て「いいものを作った」と褒めてくれた。

 苗を植えたのは遅い春で、その年の盛夏から朝顔はネットに蔓を絡ませ紫色の花を咲かせた。早朝に二十から三十近い花を咲かせ十時ごろには萎む、次の日も同じように咲いては萎む。花は盛夏の炎暑の中で律儀に自分の役割を果たしていた。

 朝顔を植えた年か翌年かの十二月初め、母が転んで足の骨を折る大けがをした。父によると、暗くなるからと止めたにもかかわらず母の足で十分以上かかる畑に午後遅くに出かけ、帰りに細い道で黒い軽自動車とすれ違い、よけたひょうしに転倒した。母はかなりの時間転んだまま動けなくなっていたが、自転車で通りかかった近所の人に発見され、三人掛かりで家に運ばれた。わたしは父の電話で駆け付けた。父は高齢のため、そのとき九十を超えていたが、自分では母の事故の処置をできずに母を責めるばかりだった。「だから行くなと言ったんだ」。父の声は悲鳴のように聞こえた。母は痛みを訴えるものの興奮していたせいか、入院しなくても大丈夫とベッドの上で弱弱しい声でこたえた。とりあえず様子を見ることにしたが、翌朝になっても痛みは引かず、痛みは増しているようだった。わたしは救急車を呼んだ。病院で検査すると、右大腿骨の骨折という診断だった。

 実はその七年ほど前にも母は便所ですべって転倒し、左大腿骨を骨折して、一か月近く入院した。このとき母は八十歳を三つ四つ超えていたが、驚くほどの回復力で”社会復帰”を果たした。多少足を引きずるものの杖を突いて近所を歩けるようになったのだ。だが二度目は九十歳を過ぎており、治療とリハビリに三か月余りを要した。

 母の退院に際して病院のケースワーカーは、自宅での生活は無理だからと、介護施設への入居を勧めた。しかし母は強い調子で施設への入居を拒否し、自宅に戻って生活すると言い張った。わたしも一方的なケースワーカーの話に頷けないこともあり、母の要望に従うことにした。市の担当者やケアマネジャーと相談し、庭先から玄関までのアプローチを車椅子で出入り出来るようにした。居間や寝室として使っている仏間と各部屋を囲む廊下との段差をなくすバリアフリーの工事をした。市から派遣された保健師に母の介護認定をしてもらうと、要介護三という判定だった。週二回料理を、週一回母の入浴を手伝ってくれるヘルパーの派遣を依頼した。わたしは週末ごとに通うことにした。

 こうして曲がりなりにも高齢の両親による暮らしが再開し、二年近く続いた。父は動作は遅いものの、ヘルパーが作り置いて冷蔵庫に入れた惣菜を運んだり、後片付けや洗濯など家事を懸命にこなした。母はシルバーカーという乳母車を小さくした補助具を使って自分のことはなんでもした。両親の暮らしは多少の波風はあったもののまず平穏であった。わたしもフリーのように続けていた仕事を細々とこなすことが出来た。

 ところが二年ほどして、父の首右側部に小さな腫物が見つかり、地元の病院で診てもらったが診断がつかず、県のがんセンターを紹介された。がんセンターでの診断は悪性リンパ腫だった。担当医から高齢のため手術や抗がん剤を使っての治療は難しく、ホルモン剤の投与という消極的な治療しかないと言われた。実質的には手の施しようがないということだった。また父の余命は六か月ほどと告げられたが、悪性リンパ腫と診断されてから三か月ほどで亡くなった。

 父の死後、足腰が不自由で自力での生活には無理がある母と暮らすため、わたしは郷里に戻った。

 母は父が亡くなった後も特に気落ちする様子も見せず、一か月のうち十日ほど通う介護施設のショートステイを楽しみにしていた。気の合う同年輩の婦人と知り合いになり、会うのが待ち遠しいようだった。また週一回の入浴ヘルパーの来訪を心待ちにするなど、母は健常者には及ばないものの心身ともに元気に暮らしていた。わたしも学生時代に寮生活をともにし、郷里に戻っていた旧友たちと再会したり、慣れない農作業をはじめたりと少しずつ母との暮らしに慣れて行った。

 だが束の間の晴れ間のような時間は長く続かなかった。母が介護施設でショートステイ中にトラブルを起こし、精神に変調をきたしたからであった。

 お盆の買い物に出ていたとき携帯電話に、介護施設から電話がかかった。母が具合が悪いので帰宅したいと言っているとのことであった。外出先だったので用事を済ませて家で待つことにしたが、出かけるときに元気だった母が急に腹痛でも起こしたのか心配になった。だが予定を切り上げて帰った母にはそんな様子も見えず、機嫌もよさそうだった。どこか具合が悪いのか聞いても言葉を濁してこたえなかった。気にはなったが、わたしはひとまず安心した。だが母は間もなく「寝るよ」と言って、ベッドに入ってしまった。母は帰った日を含めほぼ一週間、食欲がないとベッドに横になったまま、ときおりお茶や水を口にするだけだった。ちょうど父親の新盆で来客も多かった。東日本大震災で壊れた東の別棟のぐしの修理に瓦屋が来るなど、多用で母を十分に構う余裕がなかった。寝たきりの母が心配であったが、とにかく用事を済ますことに気に取られていた。

 母がようやく理由を口にしたのは、帰宅してから一週間後であり、家の用事が済んだのを見透かしたようなタイミングだった。母によると、ショートステイのおり仲の良い知り合いが不眠に悩まされていると聞き、深く考えもせずに持参した睡眠導入剤の一片(医師から処方されたものを長く使うため、一錠を自分で四分の一カットしていた)を上げたという。ところがそれがすぐに職員に発覚して、看護師と一緒に詰問されたのだと。

 母は「三十分以上責められ、こんなことをすると、手が後ろに回りますよ」と脅されて、それから「胸がドキドキしてしかたなかった」と打ち明けた。わたしは介護施設の担当者に電話をして、事情を説明してどのようなことがあったのか調べて教えてくれるように頼んだ。だが担当者は事実そのものについても口を濁すだけで納得のいく話をしなかった。一週間ほぼ絶食した母は衰弱し、病院へ連れて行くと、栄養失調と診断されて即入院となった。

 母は入院中、介護施設の看護師らに脅されたせいか精神に変調をきたし、幻覚に襲われた。わたしはその度に病院から呼び出され、駆け付けた。最初の連絡を受けて不安を抱きながら行くと、母は興奮した口調で「こんな処に一生いるもんか!」と看護師に食って掛かっているところだった。母は病院の看護師を、介護施設の看護師と勘違いしたのだろう。母はわたしの顔を見ると落ち着いた。その後も何度か幻覚に襲われたようで、呼び出された。毎日見舞ったが、入院当初は幻覚のせいか妙にリアリティーのある話をしてわたしを不思議がらせた。すこし落ち着いたころ、「夕べ火事があってさ、泣いている猫を助けたよ」、別の日には、「夜中に病院から連れ出されてお寺に連れていかれんだが、朝戻ったよ」と取り止めもない話をした。

 幻覚症状は一週間以上続き、三度ほど病院から呼び出された。わたしは毎日見舞っていたが、母が落ち着いてきたのは入院してから一か月以上過ぎたころだった。やがて母は退院して自宅に戻り、わたしとの暮らしが再び始まったが二度と笑顔を見せることはなかった。

 しばらくしてからわたしは、母に別の介護施設のショートステイに通うことを勧めた。母は当初嫌がったが最終的にわたしの勧めに従った。だが新しい環境に自らなじもうとせず母は元気になることはなかった。日に日に体力と気力が衰えて行くのがわかった。自宅での暮らしも次第に介護するわたしの手に負えなくなり、わたしの方が苛立ちと焦燥を抱えて気分が落ち込むことが多くなった。そこでこれまでとは逆に介護施設で暮らし、自宅には月に二度週末に戻って過ごすよう母を説得した。母は施設での暮らしを嫌がり、見舞うたびに家に帰りたいとせがんだ。だが週末に戻っても一日中ベッドに横たわり、わずかな量しかない食べない食事の世話や排せつに一日のほとんどを費やす生活に耐え難くなった。

 やむなく介護施設に入居してもらった。

 毎日のように見舞に通ったが、母は周囲の入居者と話をすることもなく、ほとんどベッドで寝ていることが多かった。わたしが母に出来ることは寝返りをさせるぐらいだった。そのうち母はわたしが見舞って話しかけても返事をしなくなった。ある日、「俺が分かるかい」と尋ねると、わずかに頷いた。わたしには母は意識的に此岸を離れて彼岸に赴こうとしているように思えた。地上のすべての未練という絆を断ち切り、すべての事物に背を向けて無表情のままの母の姿は、深い諦念の海に沈んでいるようだった。

 ベッドに横たわり、わたしが見舞ってもわずかに目を動かすだけの母は特老という老人ホームに入る直前に、朝食後喉に食べ物を詰まらせたのが原因で亡くなった。

 二年近くのうちに父と母を亡くし、葬儀や法事、相続の手続きなど雑事に紛れていたわたしは、母が亡くなってから三か月ほどが経ったころ、急に罪悪感に襲われるようになった。母の希望を聞いて自宅での介護をせずに厄介払いのように施設に入居させたことが後ろめたく、夜になると涙が止めどなく流れた。そのような日が何日も続いた後、わたしは意識して母の最期を思い出さないように努めた。そうしなければ一人暮らしの無聊に慣れないまま、明け暮れの雑事さえこなせなくなると思ったからである。

 そのころからであろうか、一人暮らしの寂寥を引き受ける覚悟もできたように思い、家の周りの素朴と言えば聞こえはいいが、貧しい花鳥風月にも目が行くようになった。

 朝早く門扉脇の父手製の新聞受けに朝刊を取りに行くとき、東の空から昇る日の出を自然に眺め入り、わずかな慰めを感じるようになった。夕方、門扉を占めるとき、東の空に上がっている月をみあげ、風情を感じるようになった。年の瀬から咲き始める山茶花や、しばらく後から咲く椿をめでカメラに収めることもした。三月末近くにようやく蕾をほころばせ始める、西側の垣根近くの白梅に目をやり、近所で啼く鶯の初鳴きを確かめようとわざわざ外に出てみるようにもなった。

 盛夏。旧盆の八月半ばごろから十月初めまで、洋間の前に咲く朝顔が主役となる。朝新聞を取りに行くとき、必ず今日はいくつ咲いているかと確認する。

 だがいまはこのひそやかな楽しみが苦痛に近いものとなっている。誰ともこの花の美しさ、さわやかさ、健気さを分かち合えないからである。そんな折、わたしは半ば本気で少しの時間、花を一緒に愛でる相手がいればわずかな家産を投げ出してもよいと思うことがある。多くは望んでいない。次のようなごくありふれた会話が出来ればよいと思っているだけである。

 

「今朝、朝顔三つ咲いていたよ」

「そう。今年も咲き始めたのね」

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「きょうは三十近くも咲いて壮観だね」

「そうね。見事だわ!」

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「今朝は二つだけだったよ」

「ええ。健気ね」

 

 郷里のわが家の洋間の前にしつらえたネットに、朝顔が最後の一輪を咲かせたのは、今年は十月三日だった。        (了)

 

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更新日:2022年6月24日