玉城素さんを悼む

佐藤勝巳

(2008.10.10)

 

 玉城素さんが9月14日死去された。

 82歳であった。氏は、ガンの手術を3回行なっている。若いときは酒を好み誰にでも議論を挑む元気のよい人であった。体調を崩した晩年は、酒を飲まず、必要以外のことはしゃべらなくなり,むしろ寡黙と人となった。

 玉城さんが雑誌「現代コリア」に関係したのは、それまでの「朝鮮研究」が、「現代コリア」に衣替えした1984年4月からである。以来、理事長としても、2007年11月に雑誌を終刊するまでの23年間、ご執筆頂いたことに対し、御礼の言葉もない。

 玉城さんのような人を秀才というのではないかと、私はいつもひそかに思っていた。というのは、玉城さんの頭の中には、朝鮮問題をインプットする箱、推理小説を格納する箱、土木関係の資料を管理する箱などの沢山の箱が整然と整理されていたからだ。

 あるとき、玉城さんが推理小説の文庫本に「解説」を書いていることを知った私は、「なぜ推理小説なのですか」と尋ねたことがある。「朝鮮関係の本を読んでいて、疲れたら推理小説を読むので……」と、うれしそうな顔で答えた。

 朝鮮問題の本を読んで疲れると推理小説を読む。すると、玉城さんの脳の朝鮮問題蓄積箱は休憩する。暫くして朝鮮問題の本を読み出すと再び箱が蓄積を開始し、推理小説の蓄積箱が休憩に入る、ということらしい。

 玉城さんの凄いところは、すべてがプロであったことだ。前述のように推理小説の「解説」も書き、土木関係の本も出版している。他にも何か出版しているかも知れない。

 また、パソコンも早くから駆使し、インターネットで北朝鮮が流す英文のニユースからも情報を入手していた。「中学(旧制)を出ていれば、英語はわかります」となんでもないことのように言う玉城さんは、私のような凡人とは頭の構造がまるで違っていた。

 運動に関係したころ玉城さんが書いた分析に、かなり推測が加わるとこが見られた。しかし、常に原則として北朝鮮の公式文献に基づいて、北の政治・経済を分析していた。

 少しでも北の文献を読んだことのある人なら気がつくことだが、北朝鮮の発表する経済関係の数字は、1965年以降、基数が見当たらないのだ。

 例えば、「今年度の経済成長率は1970年に比較し何パーセント」と最高人民会議で首相が報告しても、1970年の数字は発表されていないのだ。従って実態は分からない暗号みたいなものである。おまけに、比較する基準年度が年によって、分野によって、一定ではない。

 玉城さんの凄さは、間組など会社の「社史」の編集などで生活を支え、こんな訳の分からない数字を相手に数十年間、格闘してきたことだ。収入、名声に全く結びつかないことを「学問的好奇心」(と思われる)で追究してきた人は、今まで玉城さん以外に知らない。

 最近、晩聲社から出版された『わたしの娘を100ウォンで売ります』の玉城さんの「なぜ300万人の餓死者が出たのか」が遺稿となっが、多くの人に読んで頂きたい。北朝鮮の資料に依拠して北朝鮮国民が餓死させられる構造を完膚なきまでに立証している。見事の一言に尽きる。

 雑誌「現代コリア」では、玉城さんと北朝鮮の現状分析の対談を行なうため、お宅をしばしば訪れた。古い家の中は廊下まで本がうずたかく積まれていた。お父さんの本もあるのか、朝鮮関係以外の本が思ったより多かった。玉城さんは、素質から言って学者であったお父さんのDNAを引き継いでいる人だった。

 玉城さんの能力を持ってすれば、大学に就職することは可能であったはずだ。だが、困難な道を最後まで歩き続けた。なぜなのか、直接聞けなかったのが残念である。

 北朝鮮をいくら勉強しても飯など食える時代ではなかった。だから、この分野をやる人が少なかった。仮にいても、統計数字もない、本当に訳の分からない対象に呆れかえって逃げてしまう。加えて、「KCIAの手先」など誹謗中傷の絶えない世界だ。だから人は寄ってこないし、離れて行った。

 だが、玉城さんは「北朝鮮研究」という道なきところに怯まずに、道をつけて行った。私に言わせるなら、北朝鮮現代史の開拓者と呼ぶべき人である。だが、世間の常識からすれば「変った人」であった。家族の方々は大変であったと思う。好きなことをやって一生を終えることの出来る人は少ない。その意味で玉城さんは、幸せだったのではないかと思っている。合掌。

更新日:2022年6月24日